『資本論』と100円均一ショップ

マルクスの『資本論』を(版元によれば)「精確にかつ批判的に読むことで,社会科学としてのマルクス経済学を構築した」宇野弘蔵『経済原論』(岩波文庫 2016年)を読んでいたら、おもしろい箇所に出会った。

モノの交換が商品を生み出し、商品交換が貨幣を生み出すというスリリングな場面。「金あるいは銀が貨幣となると共に、一般に商品所有者は…それぞれの商品の使用価値の単位量によってその価値を表示する。リンネル一ヤールは金幾何とか、茶一ポンドは金いくらとかというように」する。が、マルクスは「20エレのリンネル=1着の上着=10ポンドの茶=…1/2トンの鉄=x量の商品A=2オンスの金」のように一般的なものとは異なる、いわば逆さまな表現をしている。こういう「貨幣による価値表現は実際は、いわゆる均一価格店のような特殊な場合にしか見られないことであ」り、これでは一般的な「価値形態とその発展した形態としての貨幣形態との相違を無視することになる」と著者は苦言を呈する。(36-37頁 一部レイアウトを変更)

モノの1単位が金いくらかではなく、一定量の金でモノがいくら買えるかというマルクスの表現は、特殊な場合の例示であって貨幣出現の実際を見誤らせるかもしれないという批判の当否はさておき、興味深いのはマルクスの例示を著者が「均一価格店のような特殊な場合」としていること。均一価格店って、現代日本では100円均一ショップすなわち100均、つまりダイソー、セリア、キャンドゥ、ワッツなどでおなじみのありふれた販売形態ですね。100円という貨幣単位で、すべてのモノ=商品を表示する。価格ではなく商品のほうの量または質を増減する。店に並んでいるのはどれも100円だから、迷いがない。というところがお客さんに支持されている理由なんでしょう、たぶん。ひょっとして、こういうアイデアを考えついた人は『資本論』を読んでヒントにした? まさかね。

ところで、著者・宇野弘蔵(1897-1977)が生きて現代の100円均一ショップの隆盛を見たなら、著書のこの表現を修正したかも。あるいは、マルクスが生きてこの様子を見たら、自著の表現の普遍妥当性を誇ったかも。というのは単なるSF的妄想です。

晩秋のラジオ

今日、ラジオを聴いていて耳に残ったこと二つ。1134kHz文化放送。

一つ、学術会議議員任命問題。警備・公安畑の警察官僚出身官房副長官・杉田某が、件の候補者は反体制思想の持ち主だから認めるなという助言をし、それを現首相がなにも考えずに受け入れて拒否したのが真相だという話をゲストの誰だか知らない男性がしていた。ふーむ。権力小児病

二つ、天気情報を伝える女性アナウンサーが、きょうの様子を「晩秋の…」と形容していた。はてな、いつから、立冬過ぎても晩秋というようになったの。この人、この分だと小春日和もわからないな、きっと。でも、こういうのは他愛ないから目くじら立てる気にはならない。このあいだ、首相が辞めた時の会見を聞くか見るかして涙が出たなんていう勘違い歌手とちがってね。

米国大統領選二題

一つ。投票日の前後、首都ワシントンのホワイトハウス近くでは、なにごとが起こるやもしれぬ不安感から、住民が窓に板を打ち付けていたが、なにも起こらぬ様子なので、板をはがし始めたとNHK・BSデータ放送ニュース。結果を素直に受け入れない候補者あるいはその支持者が乱暴狼藉に及ぶかもしれないと住民が怯える近代民主主義の”母国”。

二つ。来年1月にはその職を去るだろう大統領が、意見の違い(人種暴動に連邦軍を派遣することを拒否した)を理由に国防長官を解任したが、新国防長官の任命に必要な議会上院の承認が出る見通しは暗いとこれまたNHK・BSニュース。選挙に負けて破れかぶれの八つ当たり。シェイクスピア『コリオレイナス』の主人公さながら、大人になりそこないの大統領

米国は、かつて、世界の諸問題を解決する力を持つと自負していた。その米国が、今や、問題そのものになりつつある。

トランプが負けを認めない

BSの”ニュース”が眼に飛び込んだ。

米国大統領選挙結果。トランプが敗北したらしい。だが、本人は負けを認めずに法廷闘争に持ち込むつもりらしい。

往生際の悪いやつだ。

専用機を乗り回したり、シークレット・サービスの24時間護衛を身辺に侍らせたり、現代の王侯気分を4年間も味わえたんだからもう十分だろう。

この大人のなりそこないめが!

ところで、この選挙、まだ結果が確定したわけではない。なのに、カナダやEC大国首脳が勝ち名乗りを上げた候補者と電話会談をしたり、わが政府は祝電を打ったりしているが、それって、内政干渉じゃないの。

内乱状態にある国家で複数の政治集団がそれぞれ正統な政権であると主張しているときに、一方の政治集団と会談したり祝電を打つことは、その集団の主張を認めることになる、というのが国際法の常識だったはず。

それを知らないはずはないから(政治家は知らなくとも、外交当局が知らないはずはない)承知でやっているのだろうが、いいんだろうか。トランプの主張や振る舞いはどうあれ、とにかく米国民のかなりの部分が票を投じたんだよ。そういう人たちの気持ちってものもあるんだから、成り行きが落ち着くまで待ってもよろしかろうに。今すぐそうしないと天地がひっくり返るってわけじゃあるまい。いったいぜんたい、ちかごろの政治家たちは何を考えているのかね。

晩秋の奥多摩・三頭山

10月下旬、奥多摩三山の一つ、三頭山に登ってきた。多く”みとうさん”と読むが、みどうさんとも。近接してピークが三つあるのでその名がついたという。最高は中央峰1531mで三角点もそこにあるが、東京都が建てた御影石の立派な山名標柱は西峰1525mにあり、自分を含めた登山客はそこを頂上とみなして昼食休憩などをとる。見晴らしもよい。

東京都の奥多摩周遊道路、檜原都民の森駐車場(標高約1000m)を出発して、ゆっくり歩くこと約2時間で西峰。あのCANPINGAZキャンピングガスのバーナーでお湯を沸かしてインスタントラーメン。たっぷり1時間休んで、下山。途中、この先、勾配が急だからこちらへ回れという都民の森管理事務所の親切な忠告掲示を無視して、計画どおりに同事務所謹設”ブナの路コース”を下りていったら、ホントに急坂でした。でも、無事出発点に戻ってありがたし。

上の写真は東峰1528mの展望台から都心方向を見たもの。遠方の山、左端が御前山、そのやや右のピークが大岳山。頂上付近はすでに葉が落ちているが、中腹は紅葉が見事。今回の山行きで、三つの山の位置関係がわかったのは収穫だった。

『暴君―シェイクスピアの政治学』とドナルド・トランプ

前回の記事『マザーレス・ブルックリン』に続いて、シェイクスピアの話題。副題に引かれて読んだのは、スティーブン・グリーンブラット 河合祥一郎訳『暴君―シェイクスピアの政治学』(岩波新書 2020年)。元本はStephen Greenblatt “TYRANT Shakespear on Politics” 2018。未見。奥付の略歴によると、著者は1943年生の米国の「シェイクスピア研究の世界的大家」だそう。訳文はこなれていて読みやすい。

この本のどこにも、ドナルド・トランプとかアメリカ合州国とかの、現代の人物・事物とつながる具体的なコトバは出てこない。が、しかし、巻末の謝辞で、近々の選挙結果について心配しているとか、食卓で、現在の政治世界にシェイクスピアは異様な関係性を持っているという話をするのを聞いて、家族がその話をまとめるよう勧めた、などと書いているところをみると、シェイクスピアの世界に仮託して、米国の現大統領と米国社会を批判的に分析あるいは風刺したものであることは間違いない。

たとえば、戯曲『ジュリアス・シーザー』に関連して

「古代ローマ人は、考える人よりもむしろ行動の人として偉大でありたいと願っていた。世界制覇を夢見るローマ人は、哲学的探求や、神経過敏な沈思黙考などはギリシア人に任せておけばよいと思っていた。しかし、シェイクスピアは、ローマの公的なレトリックの裏側に、何が正しい道なのかわからずに悩み、どうして行動に駆り立てられるのか半分も認識していないために困惑して葛藤する人々がいることを見抜いていた。しかも、ローマ人は世界という大舞台で動いているため、ますます危険は大きく、その秘められた個人的な動機には、公的な大惨事を惹き起こしかねない強い力があった。」196頁

などは、ローマ人を米国人と置き換えると、現代米国のありさまの説明としてそのまま通用する。「公的なレトリック」とは、イデオロギーのことだろう。つまり、米国社会のイデオロギーに疑うことなく從っている米国人(の多く)は自分たちの親イスラエル反パレスチナの姿勢やイラク戦争などの行動について半分も認識していないために、世界の多くがこうした行動に反発することに困惑して葛藤している。しかも、米国は世界を何回も破壊できる核軍事力を持ち、世界という大舞台で動いているため、大統領ドナルド・トランプの秘められた個人的な動機には、公的な大惨事を惹き起こしかねない力がある、とね。

また、戯曲『コリオレイナス』について

「文明化された国家では、指導者は少なくとも最低限の大人らしい自制心があるとみなされ、思いやりや、品位や、他者への敬意や、社会制度の尊重が期待される。コリオレイナスはそうではない。そうしたものがない代わりに、育ちすぎた子供のナルシシズム、不安定さ、残酷さ、愚かさがあり、それに歯止めをかける大人の監督も抑制もないのだ。この子が成熟するように助けるべきであった大人は完全に欠如していたか、もしいたとしても、この子の最悪の特質を強めてしまったのである。」216-17頁 

主人公コリオレイナスをドナルド・トランプに置き換える。そのまんま。ドナルド・トランプの親御さんあるいは周囲にいた大人たちがどういう方々かは存じませぬが、また人のあり方についてそれらの方々の責任をどこまで追求できるかは議論のあるところではありますが、そうだよな、その方々、いったい何をしてくれたの、あるいはしてくれなかったの、と思いたくはなる。

もうひとつ『コリオレイナス』で、ローマの執政官選挙における大衆的支持獲得の方策として選挙民への御愛想大盤振る舞いについて触れた後で

「政治ゲームにはよくある手だ。生まれついてあらゆる特権を持っていて、自分より下の連中を内心軽蔑していながら、選挙期間のあいだはポピュリズムのレトリックを口にして、選挙に勝ったとたんに手のひらを返すという、あれである。頭を撫で付けた政治家たちが建築現場での集会でヘルメットをかぶるのと同様に、ローマ人たちはこれを因習的な儀式としていたわけである。」223頁 

これなど、わが国を含め”民主主義”を標榜する国々で日常普段に見られる光景だ。

結部で、著者は

「シェイクスピアは、社会が崩壊するさまを、生涯を通して考察してきた。人間の性格を見抜く異様に鋭い感覚を持ち、デマゴーグも嫉妬するような言葉を操る技をもって、シェイクスピアは巧みに描いたのである―混乱の時代に頭角を現し、最も卑しい本能に訴え、同時代人の深い不安を利用する人物を。激しく派閥争いをする政党政治に支配された社会は、詐欺的ポピュリズムの餌食になりやすいとシェイクスピアは見ている。」243-44頁 

ここには、トランプの”ト”の字も出てこない。でもちゃんと読めばわかるという書き方。著者がこの本の冒頭で述べているように、シェイクスピアの時代、体制批判、国王批判は刑罰に直結した。シェイクスピアも、遠いローマや異国に舞台を求めて、同時代の問題を扱っているとは一見してわからないような筆法を駆使した。著者もこのことにならったのかもしれない。だから、現在進行形の政治・社会問題を扱っているキワモノ的な著作にもかかわらず、そういうことを離れて、シェイクスピアのいくつかの戯曲の、ちょっと変化球的な解説本としても読むことができる。うまいものだ。さすが「世界的大家」だけのことはある。