『資本論』と100円均一ショップ

マルクスの『資本論』を(版元によれば)「精確にかつ批判的に読むことで,社会科学としてのマルクス経済学を構築した」宇野弘蔵『経済原論』(岩波文庫 2016年)を読んでいたら、おもしろい箇所に出会った。

モノの交換が商品を生み出し、商品交換が貨幣を生み出すというスリリングな場面。「金あるいは銀が貨幣となると共に、一般に商品所有者は…それぞれの商品の使用価値の単位量によってその価値を表示する。リンネル一ヤールは金幾何とか、茶一ポンドは金いくらとかというように」する。が、マルクスは「20エレのリンネル=1着の上着=10ポンドの茶=…1/2トンの鉄=x量の商品A=2オンスの金」のように一般的なものとは異なる、いわば逆さまな表現をしている。こういう「貨幣による価値表現は実際は、いわゆる均一価格店のような特殊な場合にしか見られないことであ」り、これでは一般的な「価値形態とその発展した形態としての貨幣形態との相違を無視することになる」と著者は苦言を呈する。(36-37頁 一部レイアウトを変更)

モノの1単位が金いくらかではなく、一定量の金でモノがいくら買えるかというマルクスの表現は、特殊な場合の例示であって貨幣出現の実際を見誤らせるかもしれないという批判の当否はさておき、興味深いのはマルクスの例示を著者が「均一価格店のような特殊な場合」としていること。均一価格店って、現代日本では100円均一ショップすなわち100均、つまりダイソー、セリア、キャンドゥ、ワッツなどでおなじみのありふれた販売形態ですね。100円という貨幣単位で、すべてのモノ=商品を表示する。価格ではなく商品のほうの量または質を増減する。店に並んでいるのはどれも100円だから、迷いがない。というところがお客さんに支持されている理由なんでしょう、たぶん。ひょっとして、こういうアイデアを考えついた人は『資本論』を読んでヒントにした? まさかね。

ところで、著者・宇野弘蔵(1897-1977)が生きて現代の100円均一ショップの隆盛を見たなら、著書のこの表現を修正したかも。あるいは、マルクスが生きてこの様子を見たら、自著の表現の普遍妥当性を誇ったかも。というのは単なるSF的妄想です。

『枕草子』筆者の無神経について

常は客観を宗とする学者・研究者が書く、専門家向けの論文ではない一般向け入門書を読んでいると、時に、その人の本音らしき、ということは客観ではなく主観の文章に遭遇して思わず共感、膝を打つことがある。

さいきん読んだ例一つ。

高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(平凡社 2018年)。日本中世から近世への移行期、おもに庶民が使う小額貨幣の銭に注目して、通貨の使用実態を解き明かした好著。教えられること多し。

で、本題。

近世以前、しばしば銭の流通量が不足して人びとが困ることがあった。そのようなときには、銭に変わるものを工夫して使った。たとえば紙。平安時代にすでに紙媒体を交換手段のように使うことがあったという文脈で『枕草子』294段が登場する(同書53頁)。 

もらい火で自宅を焼失した貴人ではない男、すなわち庶民がその悲惨を愚痴った言葉尻を捉えて、『枕草子』筆者を含む官女たちがからかう。『枕草子』筆者はその言葉尻を、自慢気に掛詞などを駆使した歌に仕上げ短冊に書いて男に投げ渡す。男は文字が読めないので、これでなにかもらえるのかと尋ねる。「教養エリートならではの差別意識がうかがえる…このエピソードは、縦長の長方形の紙片といえば、なんらかの財と交換できる証券であることを、文字を読めず、和歌を理解する能力を持たない人でも知っていたことを示している。いいかえれば、せせら笑う清少納言の態度とは裏腹に、短冊型の紙片はどういう用途で使うものなのかを広く庶民が知っていたことを、私たちに教えてくれる。」

火事という災厄にあって嘆いている庶民の男に同情するどころか、些細な言葉尻をあげつらってからかいの対象にし、あまつさえ姑息な技巧の作歌をひけらかす『枕草子』筆者およびその所属階級の無神経や傲慢さに対するこの本の著者の憤りが伝わってくる一節だ。庶民である自分もこの憤りを共有するし、つくづくこんな時代に生きていなくてよかったと思う。ついでに言っておくと、この『枕草子』というモノ、古典として教科書にはかならず載っているけど、こんな小賢しい無神経な人物の文章をこうなってはいけないという反面教師としてならいざ知らず、学校教育で随筆文学の白眉だなどとマジに取り上げるのはいかがなものか。

「東大の経済学部はマルクス経済学を専攻する専任教員は新規に採用しないという意思決定」をしたといったん報道しながら断りなくこれを取り消した日本経済新聞

そういえば、最近、東大経済学部ではマルクス経済学はどうなったんだろうと思って調べたら、こんな事件に遭遇。心覚えのため記す。

くだんの日経記事はこれ。2020年7月2日現在、経済理論学会が東大総長あて公開質問状で問題にした(日本国の納税者の一人としての自分も当然問題にする)この渡辺努・東大経済学部長のものとされる発言は見当たらない。削除したのか。

経済理論学会の公開質問状はこれ。それによると、渡辺学部長の発言は「ある時点で,東大の経済学部はマルクス経済学を専攻する専任教員は新規に採用しないという意思決定をしました。」というもの。

これが事実だったら、おいおいほんとかよ、そんなこと言っちゃっていいのかよ、ということになってしまう。なにしろ、機を見るに敏なはずの秀才の集団が、つまり時流に棹さすのに巧みな集団が、世界的なマルクス復権の流れに、まったくといっていいほど目を向けていない、井の中の蛙状態を自白しているようなものだから。

これに、マルクス研究者の学会である経済理論学会が、真否を問う公開質問状を出すのは当然のこと、出さなかったら学会としての存在意義が問われるよ。

東大からの回答は、同学会の質問状のページからリンクが貼られていて現物の写真を拝める。封筒まで! 発信元は総長名ではなく「東京大学」という組織名。本文は2行半、「事実関係を確認したところ、「意思決定」がなされたという事実はない」というもの。

以上が昨年12月中の話で、2月になっても日経記事中の該当発言がそのままなのに業を煮やした学会が再度の質問状を出す。こんどは渡辺学部長あてにも出したので同学部長から3月になって回答があった。それによれば、ご本人は、早くも12月中には日経に記事訂正を申し入れたという。

さて、日経の記事、2月以降、現在までのどこかの時点で該当発言を削除したのだろう。ご本人がそんなことは言っていないと言い、記事からその発言が消えているということは、日本経済新聞がそのこと認めたということになる。つまり、日本経済新聞は、本人が言っていないことを書き飛ばした、つまり虚偽を記事にしたということだ。それならそうとそのことを読者にはっきり言おうよ。なのに、きょう現在、日経のWEBページに掲載されている記事にはなんの断り書きも書かれていない。ふーん。

こういうのって、世間では、ふつう、しらばっくれる、略してバックレると言うんじゃなかったけ。日本経済新聞が資本家階級の代言人だということはみんな知っているけど、こういう虚偽報道やバックレをやっていると信用がなくなって、ご主人さまからお手当を貰えなくなるぞ。

〈リンクは経済理論学会のWEBページからコピー、第7段落のリンク2箇所は、akamac’s review氏の記事からコピー。記して感謝します。〉

映画『天才作家の妻 40年目の真実』

英語原題The Wife、2017年製作、日本公開2019年。以上データはウィキペディア。

主題は、私見では、米国のノーベル賞受賞作家とその妻の共依存関係のようなものの描写。いちおうサスペンス映画という枠付のようなので、あらすじなどには触れない。評判などはウィキペディアやDVDのアマゾン評で。

出演の役者さんたち、グレン・クローズ、ジョナサン・プライス、クリスチャン・スレーター、ほか、脇役の皆さんも上手い。グレン・クローズ扮する作家の妻の若いときの役で本人の実子アニタ・スタークが、作家夫妻の成人した息子役でジェレミー・アイアンズの実子マックス・アイアンズが出ている。最近の映画企画にはリメイクが多いと思ったら、役者さんもリメイクか。

原作小説は読んでいないので、映画だけではわからない深い意味があるのかもしれないが、自分にとっておもしろかったのは、ノーベル賞授賞式典の舞台裏。そいうえばそうだったが、物理学賞などの他の受賞者と同時に並んで授与されるのですね。その中に経済学賞の受賞者も。

だいぶ前に、経済学賞について調べたことをまとめたことがある。この賞、正式名称は、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞という。この賞が始まるとき、アルフレッド・ノーベルの遺族はノーベル賞の意義に似合わしくないとして反対したそうだ。そりゃそうだよ。ダイナマイトは誰がなんと言おうとダイナマイトだけれど、経済学という社会科学は、誰がなんと言おうと科学であるというふうには科学であることはできない。数百年あるいは数千年後までも、日食の観察できる時間と場所を正確に予測できる物理学の意味で(もっともそれを観察する人間がその時に存在していればの話だが)、経済現象を予測することはこの”科学”にはできない。だってそうでしょう。たかだか数年先のリーマン・ショックすら予測できなかったんだから。それを予測したことを評価されてこの賞をもらった人っているんですか。

この映画の式典リハーサル場面を見ながら、そういうことを思い起こすと、この映画は別の主題、ノーベル賞について、なかでも文学賞とか経済学賞とかについて、それっていったいなんなのよという疑問を提出する映画とも見えてくる。監督さんはスウェーデンの人らしいからまさかとは思うが、ノーベル賞というもの自体、さらに言えばそもそも人間が人間を評価する賞というものについて、この監督さんは疑問を投げかけているのかもしれない、と思う。

吉野家の牛丼

昨年末、総選挙の数日後、吉野家に持ち帰りの牛丼を2個買いに行った。600円ちょうど持って。
小さな張り紙がしてあって、値上げのお知らせらしい。目を凝らすと、牛丼並300→380。なんと一挙80円、30%近い値上げ。なので、買えずにそのまま引き上げたのだが、おそらくこれから先、当分、吉野家の牛丼は食べないだろうな。

値段が上がったからというのはもちろんだが、それよりも、政権与党の権力者に睨まれるのが怖いからなのかなんなのか分からないが(庶民の生活感覚に直結する、数百円単位で売り買いされる生活必需品の、総選挙直前の値上げには、いかに政治に無関心な一般庶民といえども少しは怒って投票所に行き自民党と公明党以外の政党に投票することになるかもしれない。そうしたら自民党・公明党の議席は減ったかもしれない。その責任を追及されるのが怖いのか…)、総選挙が終わってから待ってましたとばかりに値上する吉野家の経営者の根性が気に食わない。いったい彼らは誰のおかげで飯を食わせてもらっていると思っているのだ。毎日、百円玉数枚握りしめて全国の吉野家店舗で牛丼を食べている庶民のおかげではないか。その庶民よりも、時の権力者にへつらうような経営をしていると、早晩、庶民の支持を失うことになるぞ。
このところの円安と消費税増税で、石油を筆頭に物価万般が上昇し(すなわちインフレ)、輸入牛肉の価格も例外ではなく、アメリカ産牛肉に依存する吉野家の牛丼もいつかは値上げに踏み切らなければならなかっただろうということは、歓迎できることではないが、まあ、わからないでもない。たとえそれが30%近い大幅値上げであっても元々の牛丼並一杯300円が安すぎたともいえるから。
でも、この値上げのやり方はいけません。やるなら正々堂々、経済合理性にのみ則って他の一切の事情に顧慮することなく(選挙前に値上げして政権政党に楯突いたと睨まれるのが怖いなどどうでもよいことを顧慮することなく)、かくかくしかじかの理由で品質と安定供給を維持するため値上げのやむなきに至りました。庶民の皆様のフトコロを直撃したお詫びのしるしとして役員一同腹を切って…、というのは時代が古すぎるから、頭を丸めて向こう1年間役員報酬を30%カットいたします、ぐらいのことをやれば自分としてもたとえ300円が380円になろうとも吉野家の牛丼ファンでありつづけるのだがねえ。吉野家の現経営陣には腹の据わった人物がいないのかな。

ある過労自殺

『阿修羅』という投稿サイトを見ていたら、「『ワタミで飲まない会』入会のご案内」という投稿が目にとまった。

その投稿は、4年前、ワタミフードサービス経営の居酒屋に勤めていた当時26歳の女性の入社2ヶ月での自殺が、月100時間以上に及ぶ残業や休憩・休日も十分に取れないなど「業務による心理的負荷が主因となって精神障害を発病した」ことによるものと、神奈川の労災補償保険審査官がこの2月になって認定したことを紹介し、このことへのワタミフードサービス・渡邉美樹会長の言動を批判する内容だ。

この投稿によると、自殺した女性の残業は月140時間にもなったという。140時間! 週5日・月20日として一日あたり7時間、しかも休憩・休日も十分取れなかったというのだから、その苦しさはどんなものだったろう。この女性の心中を思うと涙がこぼれそうになる。

ご冥福をお祈りするとともに、ご遺族にはお悔やみを申し上げます。

片や渡邉氏。投稿によると、「労務管理できていなかったとの認識はありません。」とツイート。数年前に出演したTV番組「カンブリア宮殿」では「無理というのは嘘つきの言葉、途中でやめるから無理になる、やめさせないで鼻血を出そうがぶっ倒れようが1週間全力でやらせる、そうすればその人は無理とは口が裂けても言えない。」などと述べて司会者を唖然とさせている。

こういう考えの人物が経営者である企業であれば、この女性のような犠牲者が出るのも必然ということだろう。この会社がブラック企業と呼ばれるのも当然だ。投稿によると、この渡邉という人、東京都知事選挙に出馬したとき「自殺ゼロの社会」を訴えていたという。まさにブラックユーモアである。

人間を人間として扱わない企業及びその経営者、そのような企業の経営者を現代のヒーローであるかのように持ち上げるマスコミ、これらは犯罪者と言ってよい。

かつて、マルクスは人間労働を極限まで搾り取るシステムを資本制的生産様式、その搾り取る側の主役を資本家と呼び、その非人間的性格を余すところなく分析したが、この渡邉という人、まさにマルクスの言う資本家そのものではないか。

ソ連などの社会主義国家が前世紀末に崩壊してから、「マルクスは死んだ」などと叫び回るお調子者が現れたが、マルクスは死んでなどいない。

マルクスが分析対象としたのは19世紀の、主にイギリスの資本主義経済だったが、それが抱えていた非人間的性格は、21世紀の資本主義経済、すなわち現代世界を覆わんとしているグローバル経済化現象・市場万能主義的経済の非人間的性格にそのまま受け継がれ、ますます熾烈さを増している。

この状況に対して、人間とその生活をどう守るかは現代社会の最優先の課題である。かつて19世紀に、マルクスが資本制的生産様式から人間とその生活を守ることを課題としたように。

マルクスは、決して、死んでなどいない。

消費税論議と『大学』

儒教経典の一つ、『大学』(金谷治訳注の岩波文庫版『大学・中庸』)を読んでいたら、おもしろい言葉に出会った。

『大学』は、『論語』など他の儒教経典がそうであるように、「君子」すなわち、かつての武士のような支配層の必須教養として学ばれ、実践が求められたものなので、当然のことながら、以下の言葉についても「君子」が指導者として政治経済の衝に当たる際の規範とされたものであろう。

「財聚(あつ)まれば則ち民散じ、財散ずれば則ち民聚まる。」

現代語訳は、「財物の集積に努めてそれをお上の倉庫に積み上げると[消費税を上げて国庫収入を増やすと]、民衆の方は貧しくなって君主を離れて散り散りになる[消費が落ち込んで不況が悪化し、政府に対する信頼が地に落ちる]。 反対に徳の向上に努めて財物を民衆のあいだに散らせて流通させると[アメリカ政府の言うことばかり聞かないで真剣に国民の福利の向上を図り、官僚の私腹を肥やす無駄を省いて減税や適切な財政支出を行えば]、民衆の方は元気になって君主のもとに集まってくる[政治に対する信頼が回復し、人々が将来に希望を持つようになって財布の紐をゆるめ消費を盛んにして、デフレ不況が克服される]。」  (金谷訳に加筆、[ ]内は筆者)

『大学』は、金谷氏によれば、前漢の武帝(在位 前141-前87)の頃の成立というから、今から二千年以上前の書物だ。二千年も前! 二千年前の人にも、増税は民を疲弊させ、減税や財政支出は民を潤すということが分かっていた。今も昔も、政治や経済の要諦は変わらないということである。

それに引き換え、このデフレ不況下の消費税増税論議はいったい何なのか。国民の福利よりも、財政再建の方が大事なのか。いや、むしろ財政再建の名の下に行われようとしているのは、さらなる財務官僚のヘゲモニーの強化、いや永続化なのではないのか。

そういえば、『大学』には、こんな言葉も出てくる。

「国家に長として財務を務むる者は、必ず小人を用う。彼はこれを善しと為(おも)えるも、小人をして国家を為(おさ)めしむれば災害並び至る。(災の字は新字体に変更)」

(金谷訳現代文 「国家の統率者として財政に力を入れる者は、必ずつまらない人物を手先に使うものである。彼はこの人物を有能だと考えているが、つまらない人物に国家を治めさせると、天災や人害がしきりに起こる。」)

「財政に力を入れる国家の長」を、財政再建に政治生命を賭けるとやらの野田某、「小人」を財政再建命の財務官僚と置き換えると、この21世紀のわが国の有様にぴたりと当てはまるではないか。いやはや、この野田某・財務官僚コンビのもと、われわれにこれ以上の天災・人害が降りかからないとよいのだが。

ノーベル経済学賞という嘘

ノーベル経済学賞というものは嘘である。

物理や医学の分野のノーベル賞とは似て非なるものである。

少なくとも物理学や医学の分野では、授賞対象となった発見や発明は、検証可能であり、どこにおいても再現可能なものとされているはずだ。

しかし、経済学賞というものはどうか。授賞対象となった学者の仕事が、検証可能であり、どこにおいても再現可能なのか。授賞対象の経済理論が地球上のいかなる場所でもあまねく適用できるものなのか。

そんなことはあり得ないだろう。

そんなものに物理学や医学の分野と同じような名称の賞を与え騒ぎ回る。いったい何のため?

思うに、これは、経済学賞の授賞対象である近代経済学なる虚構に、あたかも物理学上の発見などと同等の普遍性を偽装したいがためのトリック、すなわち詐欺的行為である。

そんな詐欺にまんまと引っかかって、というか、この詐欺的行為のお先棒を担いで、お祭り騒ぎを繰り広げる日本のマスコミのバカさ加減。

ちなみに、ウィキペディアによると、この賞の正式名称は、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞というらしい。なるほど、銀行が出す賞ということですね、それならよく分かる。まさに名詮自性ですな。

 

 

近代経済学という虚構

近代経済学というものがある。

社会科学分野の中ではもっとも自然科学に近い、ということは数学化の進んだ分野であり、科学としての制度化が進んだ分野であるとされている。

確かに外見的には、アカデミズムの中に確固とした足場をもち(理科系単科大学以外のほとんどの大学には経済学ないしその関連学科の学部がおかれている)、標準的な教科書があり、多数の関連学会を擁し、専門誌への投稿の多寡などに基づく業績評価システムが確立しており、おまけにノーベル賞まである一大領域を形成しているように見える。

しかしこの近代経済学なるもの、物理学や化学、生物学などの自然科学と同様な意味での科学といえるものかどうか、はなはだ疑問だ。ブログ主の見るところ、それはせいぜい、経済事象を事後的に統計処理することで、あのとき起こっていたことはこんなことでした程度の解説がようやくできる講談のようなものでしかない。

量子力学のようなものはさておき、少なくともニュートン物理学に代表されるような自然科学であれば、いついかなる場合であっても妥当する法則を見いださなければならない。そのような法則であれば、日食がいつ起こるか正確に予測できるように、ある条件があればある結果が必ず起こることが予測できるはずだし、可能であれば(条件を変えることができれば)人間の望むとおりに結果を変えることができるはずである。

しかしながら、近代経済学なるもの、いかなる意味においてもそのような法則を発見したことはない。それが証拠に、リーマンショック以来、世界の大多数の人々は経済の混乱により塗炭の苦しみを受けているが、この混乱と苦しみを避けるための予測なり、予防策なりを何ら示すことができなかったではないか。

やっていることといえば、ことが終わった後で、あと知恵よろしくリーマンショックは斯々然々のプロセスで起こりました、はい、さようなら、という人をばかにしたようなことだ。

ところが、世間では、こんな講談まがいの近代経済学の専門家と称する連中がしたり顔で、財政健全化のためには増税するべしとか、市場の自由にまかせておけばうまくいくのだから万事放任がよろしいなどと世迷い言を繰り出す茶番。おまけに、世の人々はそれを、偉い学者先生の言うことだからと鵜呑みにして担ぎ回る始末だ。

経済学の経済とは、経世済民のことだと昔教わった記憶がある。であれば経済の学を名乗る以上、経世すなわち世を治め、済民すなわち民を安んずることを究めるのが任務のはずなのだろうが、どうもこの近代経済学なるもの、そんなことはとうの昔に忘れ果て、難しい数式を使ってなにやら科学をやったつもりになり、挙げ句の果てにノーベル賞なんぞというものをやったりとったりして自己満足にふけっている、困ったチャンたちの観念遊戯のようだ。

本日の結論。近代経済学者なる連中の言うことは、眉に唾して聞け。

格付け会社の怪

先日、スタンダードアンドプアーズ(S&P)という格付け会社が、わが日本国政府発行の国債の格付けを下げたことについて、総理大臣菅直人閣下が、「そういうことは疎いので」とやらかして騒ぎになったことは、1月31日の記事で触れた。

ま、菅直人の間抜けさ加減については、置いておくとして、マスコミが、この格付け会社がやっている格付けなるものについて、きちんとした判断をしないまま、やれ、国債の評価が下がったから財政再建だ消費税だ、と恐怖をあおったり、だから日本人は世界を知らないなどとしたり顔で言うのは犯罪的行為だ。

なぜ、犯罪的行為なのか。それを明らかにするために、まず、格付け会社とはそもそもなにをやっているものなのか、おさらいしておこう。

企業などの発行する社債などの債券(すなわち借金証書ですな)の評価=信用度、たとえば、その債券を買っても損をしないかどうか、つまり、その債券=借金証書がちゃんとものをいって、そのときがくればその借金の借り手がきちんと借金を返すかどうか=債券が現金化できるかどうか、あるいは、約束された利息がちゃんと支払われるかどうか、といったことは、債券を買おうとする人=金を貸す人にとってはすこぶる重要な情報だ。

そこで、登場するのが、この債券の評価を商売にする格付け会社という名の会社だ。

ちょっと前までは、格付け機関などと、さも、公共性をたっぷりもっているような名で呼ばれていた(今でもわが日本国では、一部の格付け会社は金融庁によって指定格付け機関と呼ばれている。)

だから、どこかの国の政府機関か、はてまた、国際連合の機関かと間違うが、そんなことはない。ただの民間会社だ。上記のS&Pやムーディーズなど有力な格付け会社はアメリカ合衆国のれっきとした民間会社だ。

さて、格付け会社も、会社である以上は稼がなくちゃならない。

じゃ、どうやって稼いでいるのかというと、これが、なんと、債券を発行する会社から格付けを依頼され、その手数料名目で金を受け取って稼いでいるのである。

株取引で巨万の富を築いたアメリカの大富豪ウォーレン・バフェットはムーディーズの最大株主でもある。彼は、アメリカでは企業が社債を発行するときは必ず格付け会社から格付けを取らなければならない仕組みになっていることをとらえ、制度的に手数料が入ってくるビジネスは儲かるから株主になっている、自分で株を買うときは格付けに頼らず自分で調べる、とのたもうているそうだ。つまり、格付け会社の仕事は信用しないが、儲かればそんなことはお構いなし、というわけなんだが、なんでしょうね、これって。

ワオ!

これ、利益相反という有名な話ですな。

たとえば、あの「白雪姫」。あの物語で、意地悪女王が、鏡に向かって「世界で一番綺麗なのはだあれ」と聞くでしょう。鏡が鏡でいられるのは、意地悪女王が鏡を壁に掛けている間だけ、自分の気に入らない答えが返ってきたらぶちこわされてしまうということだと、鏡はどうするか。鏡として生き残りたければ、色よい返事をするに決まっている。

鏡が格付け会社、意地悪女王が債券発行会社だとしたら、この格付け会社というものが、手数料をもらう相手の会社が発行する債券の評価について、実態とは異なる評価をする可能性が、いついかなる場合にあっても100%ないと断言できるだろうか。

さらに加えると、格付け会社の評価なるものは、過去の実績や市場の評判などから将来はこうなるだろうという、予測とか予言に過ぎないのであって、世の中、一寸先は闇なのに、神ならぬ人間の予測や予言がどこまで確実性をもつのかという根本的な疑問もある。

事実、今世紀に入って早々、アメリカはテキサスのエンロンなるエネルギー取引会社が、当時としては負債総額でアメリカ市場最大の破綻をしたが、格付け会社は破綻直前までエンロンを投資適格と、間抜けにも判定していた。

また、サブプライムローン問題以降、世界経済は不況の中にあり、日本の学生さんの就職難や中小の事業者さんの苦難はもちろん、世界中が苦しんでいるわけだが、そもそも、サブプライムローンという最終的には誰も借金を返さない借用証書を細切れにしてばらまいた債券に、大丈夫、信用できるから売買してオーケーとお墨付きを与えたのは、ほかならぬ、これらの格付け会社だった。

サブプライムローン問題は、アメリカの金融資本が世界を手玉に取った一種の詐欺事件だったが、この世界的詐欺事件の主役の一人は、サブプライムローンの細切れ入りの債券に、優良な格付けを与え、結果的に信用不安といういわば経済活動にとってのウィルスを世界中にばらまくことになった格付け会社だったと、ブログ主は思っている。

という次第で、ブログ主のような経済音痴でも、ネットで調べれば、格付け会社の格付けなるものがかなりいい加減で、当てにならないものであることはすぐにわかる。だから、格付け会社の格付けなるものをかつぎ回って、あることないことない交ぜにした虚偽情報を垂れ流すのが、どんなに犯罪的なことかもすぐにわかる。

そうだというのに、マスコミの諸君の報道は、いったい何なのか。記者クラブで麻雀・花札で遊ぶのに忙しくて勉強している暇がないか。それとも、記者クラブでとぐろを巻いていれば、財務省だかなんだか知らないが、発表資料がごまんと下げ渡されて、それを右から左に流していれば、デスクに怒られない程度の出席原稿くらい簡単にでっち上げられるから、まじめに勉強なんて、ばかばかしくてやってられないのか。

でもね、そんな、格付け会社なるものについての初歩的な勉強もしないまま、国債の評価が下がったから、さあ大変だなどと、例のオオカミが来たよとデマを叫んでついにはすっかり信用を失った少年のようなことをしていると、そのうち地獄に堕ちるよ。