ようやく辞めるか

ようやく辞めるらしい。


前回もそうだったが、風呂敷を広げて、そのまんま。あとは知らないというわけか。無責任なヤツだ。

まあ、1億2千万の人口をもつ政治体を動かすことは無理だったんだよ、憲法を変えたいということしか頭になかったこの人には。コロナ禍、自分が任命した大臣の不祥事、無理やり当選させた議員の不祥事、もう、どうしようもなくなったんだろう。

でもどうするんだ、アベノミクスとかいう古今未曾有の国債の積み上げの後始末は。日銀に株を買わせて株価を吊り上げ、ドルを買わせて円を下げた後始末は。

兵站、あるいは舞台裏の準備の大切さについて

村井章介『分裂から天下統一へ シリーズ日本中世史④』(岩波新書 2016年)を読んでいたら、秀吉の小田原攻めについて以下のような言及があった。「小田原陣における秀吉軍の勝利は、動員した兵力の差もさることながら、その兵力を支える物資の徴発と輸送、すなわち兵站の能力の圧倒的な差によるところが大きい。」(118頁)

これで、勝海舟(官職名が安房守)の談話速記『氷川清話』(江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫 2000年)のなかに、この当時のエピソードがあることを思い出した。(227-228頁)

江戸城無血開城後、旧旗本8万人を静岡に移すことになった。1万2千戸しかないところにその人数なので、勝自身も農家の間を奔走し、ひとまず「みなのものに尻を据ゑさせた」。このとき、「沼津の山間で家作もずいぶん大きい旧家があったが、そこへ五十人ばかり宿(とま)らせて」、勝もともに一泊した。すると、その家の七十歳あまりの主人が挨拶に出て、じぶんのところは旧家だが、貴人を泊めるのはこれで二度目だと。勝が仔細を尋ねると、一度目は「本多佐渡守様」で、「太閤様小田原征伐の一年前で、明年こゝへ十万の兵が来るから、あらかじめ糧米や馬秣(まぐさ)を用意をするために小吏では事の運ばぬを恐れてか、本多様は自分でこゝへ御出になったのだといふ」と。これがあったので、周辺の者が十分に米を貯えておいたため、十万の兵が来てかえって米価が下がった。さらに、このあたりの海岸は常は波が荒いのだが、糧米を陸揚げする日は天気もよく波も穏やかで、以来、当地では風波の平穏なのを「上様日和」というようになったとも。

この本多佐渡守、三河の一向一揆の際、一揆側に組みして家康に敵対、一揆敗北後、諸国流浪を経て帰参、草創期徳川幕府の重役(年寄、のちの老中)に抜擢された、あの本多正信その人。舞台裏で、要所要所を、然るべき人物が然るべく押さえてはじめてイベントは無事成就するという教訓話。

75年目の天皇の国民向け敗戦告知ラジオ演説の日

「玉音放送」などと呼ばれている、天皇の国民向け敗戦告知ラジオ演説が行われて今年で75年。おこなわれるであろう関連式典のTV中継など見る気は寸毫もないし、関連”ニュース”番組なども見ないので、ここから先は推測。

また、例によって、総理大臣が平和と繁栄はあなた方のおかげですという内容の式辞とやらを述べるのだろう。

それって、あの戦争で亡くなった人々への侮辱だよ。

無数の死者、敗北、その結果生まれた現憲法。押し付けだろうとなんだろうと、この憲法があってはじめて平和と繁栄があったのだよ。ところが、現行憲法を毛嫌いして、明治憲法のようなものに変えたがっている勢力代表の総理大臣が、その明治憲法体制下で行われたあげくに負けた戦争の犠牲者に哀悼の意を捧げる資格なんてあるのかよ。

あるわけないだろう!