397年ぶりの木星・土星大接近

今晩、1623年以来397年ぶりに、0.1度まで木星と土星が接近した。

もちろん、宇宙空間で二つの星が実際に接近したわけではない。地球から見て二つの星が重なるような位置に巡り合わせたということ。

ここ1、2ヶ月、夕方、南西の空に二つの星が近くにあるのを見てはいた。1週間ほどすっかり忘れていて、今日、虫の知らせか、夕暮れの空を眺めると木星しかない。あれれ、土星はどこかへ行ってしまった?

東京天文台暦計算室の「今日のほしぞら」では、天体図には木星しかない(ように見える)が「月と惑星の情報」には土星も見えているという表記。天文ソフトの「ステラリウム」でも、木星しか表示されていない。ただ、”木星”という漢字が奇妙な格好(後で気づいたが、二つの星が大接近したので漢字表示が重なってしまったというわけ)。双眼鏡を木星に向けると、ありゃ、すぐ近くに土星があるではありませんか。この近さなら、口径70mmの望遠鏡の同一視野に入るな。しばらく使っていなかった望遠鏡を持ち出して覗くと、おお、見事! 100倍ちょっとで、二つの星が同じ視野に入っている。木星の衛星も4つと土星の輪も見える。

見終わって調べると、なんと、表題のようなまことに稀な天文現象をそれとは知らずに体験していたというわけ。

占星術というものが予言したり説明したりすることに、自分の行動や感情を左右されるつもりはないけれど、この現象をそれはどう説明するのかな。近ごろの天変地異はこの惑星現象のしからしめる所だなんてね。

ポインセチアも、草ではなく木だった

前回の日々草につづいて、植物の話。

秋も深まると、花屋さんの店頭に並ぶ定番の一つ、ポインセチア。これも、草でなく木だということをつい半年前に知った。

ポインセチア、メキシコ原産のれっきとした木。彼の地では、露地で数メートルの高さになるようだ。インターネットで検索すると、実際のそのような写真を見ることができる。関東地方のように、冬場、屋外で零度以下になるところでは枯れてしまう。試したことはないが。

下の写真は、2年目の夏を過ごしつつあるポインセチア。気温の低い時期には屋内の日当たりの良い場所に置き、4月初、高さ30センチほどに徒長したものを15センチくらいに強剪定して一回り大きな鉢に植替えた。

2年目のポインセチア2019年8月31日

ウィキペディアによると、「全草に有毒成分ホルボールエステル類が含まれ、皮膚炎・水疱などを引き起こす」のだそうだ。ふむ。ところで、いつもお世話になっているのに文句をつけるのは何なんだが、木なのに全草というのはどうなのかねえ。

日々草は、草ではなく木だった

8月末、自宅前歩道街路樹の根本の草抜きをしていたら、そこに植えてある日々草の花が「いつまで咲きますか」と老女に声をかけられた。「うーん、この勢いだと、もうしばらく咲くのではないですか」というのが自分の答え。「そうですかー」と老女は去る。

ほんとうは木の日々草

はて、今の答えでよかったのだろうか。自宅に戻って、インターネット。

ウィキペディアによれば、日々草はマダガスカル原産のキョウチクトウ科ニチニチソウ属、アルカロイドを「全草」に含み、食すると嘔吐や下痢程度では済まないと。ホー、知らなかった。

他の園芸情報サイトは、日々草は低木、原産地の熱帯では、木だからもちろん露地で通年育つが、日本では冬の低温で枯れてしまうので一年草として扱われると。ホー、知らなかった。

かんじんの花期だが、10月までだと。「もうしばらく咲くのではないですか」という言い方は間違ってはいなかった。やれやれ。

しかし、この世は、未知のことがらに満ちている。

歌舞伎

正月恒例の国立劇場歌舞伎公演を見た。

今年の出し物は、「南総里見八犬伝」。菊五郎一座に左團次が客演?ということになるのかな。菊五郎は脚力の衰えを隠せず、飛んだりはねたりの立ち回りなどは論外というところ。だが、せりふ回しはさすがで、音吐朗々、貫禄十分、場内隅々まで声が届く。

そういえば、同じ国立劇場の12月公演の吉右衛門も足取りが今ひとつだったな。10月公演の幸四郎にはあまり感じなかったのだが、同世代でも個人差があるということか。いずれにせよ、大芝居の世界も、彼らの子どもたち、菊之介や染五郎との世代交代の時期にあるのだろう。

ちなみに筆者はいつも1500円の3等席。数年前までは3階席の後ろ3分の一ほど、4〜5列が3等席だったのだが、現在は3階席最後部の一列と1階最前部の左右両脇のみ。そのとき、これは実質的な値上げではないかと国立劇場のモギリの人に抗議したら、後ほど担当者がご説明にうかがいますとのこと。幕間にその担当者が来られたのだが、自分と歳もあまり変わらない人の良さそうな方で、国立劇場の監督官庁である文部省の天下り役人でも来たら一泡吹かせてやろうとてぐすね引いて待っていたのに拍子抜け。あれこれ世間話をしてお開きのお粗末。

そんなわけで、少なくなったとはいえ、3等席がまだあるというのは、このせち辛い世の中では奇跡とも。なにしろ、1500円で、数百年続く伝統芸能の実演を、休憩をはさんで4時間も堪能できる機会なんてそうざらにはない。願わくば、三文役人風情が、受益者負担なんぞと利いた口を聞いてわずかに残った1500円席をなくさないことを。

水星

ここ数日、西の夕空に水星と金星、火星を見ることができる。

1月3日の午後5時前、パソコンで、Stellariumというフリーのプラネタリウムソフトウェア(筆者はLinux系オペレーティングシステムのUbuntu上で使っている。アップル社のMacオペレーティングシステムやマイクロソフト社のWindowsオペレーティングシステム上でも使えるようだが試したことはない。)を動かしていたら、午後5時ごろから金星と水星が、やや遅れて火星が見えるということなので、双眼鏡を持って外へ出てみた。

金星はすぐに確認できた。さて、水星は。

Stellariumでは、金星のやや右斜め下方すぐのところに見えるはずなのだが、肉眼では確認できない。双眼鏡(対物レンズ径35mm倍率7倍)でそれらしきところを覗くと、針の先ほどに光る点が見えた。もう薄暗くなりかけている東の空を含め全天に星らしきものはいっさい見えないので、まだ明かりの残る西の空に見える針の先ほどの点は惑星、すなわち水星に違いない。
時間が経過するにつれ金星と水星の高度が下がって地平線に近づいてくる。すると、双眼鏡でしか確認できなかった水星が、かろうじて肉眼でも見えるようになってくる。地平線下に沈むまでの10分ほど、輝きを増してくる街の明かりに隠れそうになりながら水星は視野の中にあった。そして見上げると上空には火星が。
コペルニクスは死の床で、水星を見ることができなかったことを悔やんだという。太陽に一番近い惑星である水星は条件が整わないと観察することが難しい。あの大コペルニクスにしてしかり。その水星を、今回、Stellariumに教えられて見ることができた。幸運である。
インターネットというものがあり、それを通じて世界のどこかで、どなたかが苦心して作られたフリーのソフトウェア(オペレーティングシステムのLinuxとその派生型のUbuntu、プラネタリウムソフトウェアのStellariumなど)を使うことができるのはコペルニクスの時代には考えられなかったことである。コペルニクスにあらざるこの自分が、いとも簡単に肉眼で水星を見ることができたのはインターネットのおかげであるといって言い過ぎではないと思う。ありがたいことである。「井戸の水を飲むときは掘った人の苦労を思うべし。」

PS その後1月5日まで天候にも恵まれ、順調に水星を見ることができている。

吉野家の牛丼

昨年末、総選挙の数日後、吉野家に持ち帰りの牛丼を2個買いに行った。600円ちょうど持って。
小さな張り紙がしてあって、値上げのお知らせらしい。目を凝らすと、牛丼並300→380。なんと一挙80円、30%近い値上げ。なので、買えずにそのまま引き上げたのだが、おそらくこれから先、当分、吉野家の牛丼は食べないだろうな。

値段が上がったからというのはもちろんだが、それよりも、政権与党の権力者に睨まれるのが怖いからなのかなんなのか分からないが(庶民の生活感覚に直結する、数百円単位で売り買いされる生活必需品の、総選挙直前の値上げには、いかに政治に無関心な一般庶民といえども少しは怒って投票所に行き自民党と公明党以外の政党に投票することになるかもしれない。そうしたら自民党・公明党の議席は減ったかもしれない。その責任を追及されるのが怖いのか…)、総選挙が終わってから待ってましたとばかりに値上する吉野家の経営者の根性が気に食わない。いったい彼らは誰のおかげで飯を食わせてもらっていると思っているのだ。毎日、百円玉数枚握りしめて全国の吉野家店舗で牛丼を食べている庶民のおかげではないか。その庶民よりも、時の権力者にへつらうような経営をしていると、早晩、庶民の支持を失うことになるぞ。
このところの円安と消費税増税で、石油を筆頭に物価万般が上昇し(すなわちインフレ)、輸入牛肉の価格も例外ではなく、アメリカ産牛肉に依存する吉野家の牛丼もいつかは値上げに踏み切らなければならなかっただろうということは、歓迎できることではないが、まあ、わからないでもない。たとえそれが30%近い大幅値上げであっても元々の牛丼並一杯300円が安すぎたともいえるから。
でも、この値上げのやり方はいけません。やるなら正々堂々、経済合理性にのみ則って他の一切の事情に顧慮することなく(選挙前に値上げして政権政党に楯突いたと睨まれるのが怖いなどどうでもよいことを顧慮することなく)、かくかくしかじかの理由で品質と安定供給を維持するため値上げのやむなきに至りました。庶民の皆様のフトコロを直撃したお詫びのしるしとして役員一同腹を切って…、というのは時代が古すぎるから、頭を丸めて向こう1年間役員報酬を30%カットいたします、ぐらいのことをやれば自分としてもたとえ300円が380円になろうとも吉野家の牛丼ファンでありつづけるのだがねえ。吉野家の現経営陣には腹の据わった人物がいないのかな。

2015年 年の始めに

今日、2015年の始めの日。ここ、日本の東京の西のはずれでは日の出は拝めたが、やがて暗雲たれ込めて、雪がちらつきはじめた。積もることもなく、夕方になって夕焼け空のお日様の顔も拝めたが、この雲行き、なにやら今年の行く末を暗示しているようなしていないような…。

この地上で、人間がなにをどうしようとも地球は太陽の周りを回り、自らも自転することに変わりはない。かくして、1年という年が往き、1日という日が過ぎる。まるで天が、愚かな人間のすることを哀れんでいるかのようである。いったい君たちはなにをすき好んでつまらないことに大騒ぎし飽きもせず同じことを繰り返すのかね。ま、そんなことはこの大宇宙から見ればどうでもよいことなのだが、とにかく舞台だけは回しておいてやるからね、というごとくに。

さて、せっかく天が舞台を用意してくれているのだから、この舞台の主役を気取っている人間、しかも舞台の中央を争っている先進諸国民はとくに、良い演技をしなければ義理が立たないと思うのだが、はたしてその演技は天から合格点を貰えるものなのだろうか。合格点を貰えないということは、すなわち落第だ。学生さんの場合は落第しても復活は可能だが、人間の場合、落第しても復活は可能だろうか。人間の落第の先にあるのはいったいなに?

小宮山厚生労働大臣の無知と不作法

小宮山厚生労働大臣が、大臣就任記者会見の席で、目の前のテーブルにマイクやICレコーダーがところ狭しと並んでいたため、テーブルに自分のバッグが置けないと文句を言ってキレたということを、最近になって知った。

無知と不作法。

ハンドバッグという物は、テーブルの上に置くものではありません。椅子に腰掛けたら、足下の床に置くものです。少なくとも、それなりの地位にある女性なら。嘘だとお思いなら、英国のエリザベスⅡ世女王の振る舞いを見てみられよ。一目瞭然、多言を要しない。

さてさて、かくのごとく初歩の初歩の作法も知らない人物が、国民の健康と生活、労働を守る行政の最高責任者であるとは因果なことである。

こんなお粗末な人物をその重要な地位につけたということは、政府は責任を取るつもりはないから自分の命は自分で守れという民主党お子さま内閣の国民に対するメッセージなのか。いやはや。

ところで、この御仁、たしか父親がかつて東京大学総長を勤めた人だったと思うが、まあ、なんですな、このお父さん、外ではどんなに立派な教育者だったのかは存じませんが、どうやら娘の教育には失敗したようですな。

リビアの民主化という嘘

リビアの内戦で反カダフィ勢力が優勢となり、カダフィ政権は崩壊したようだ。これを、新聞・TVは、リビアの民主化と称する。

民主化?

米国・フランス・イギリスなど欧米諸国政府による軍事介入がなければ反カダフィ勢力が勝利できたかどうかわからない。はたして外国軍隊の助けを借りて成立する政権が民主的でありうるのか。

米国・フランス・イギリスなどの介入国政府にしても、見返りを考えずに軍事介入に踏み切ったわけではあるまい。介入しカダフィ政権が倒れることで利益が得られるからそうしたのだろう。

その利益とは、石油だ。

リビア石油の確認埋蔵量は世界第9位。その石油が、欧米諸国政府(その背後にいる国際石油資本)の意のままにならないカダフィ政権の手に握られていたのではおもしろくない。埋蔵量4位のイラクではフセイン政権を倒して「民主化」を実現した。次はリビアだという訳なのだろう。

国際石油資本と欧米諸国政府の意に沿わない政権を、民主化名目で軍事介入して崩壊させる。これでは国際社会における主権平等など絵に描いた餅だ。力(軍事力)に勝る国の政府であれば、よその国の政権だろうと何であろうと、どうとでもできてしまう。

怖いことになったものだ。

彼らの次の標的はどこだろう。同じく世界第6位の石油埋蔵量を持ち、米国主導の世界秩序に逆らうチャベス率いるベネズエラ政府?

遠い昔、はるかかなたのユーラシア大陸東方海上の島国で…

遠い昔、はるかかなたのユーラシア大陸東方海上の、島国であった話。

その国の人々は、善良で心やさしく、争いごとを好まないことで知られていた。

地震、津波、台風など天災の絶えないところであったが、どれだけ被害がひどかろうと、人々は、われ先に利をむさぼることなく、乏しい食料を分かちあう利他の美風を実践していた。

ところが、こんな理想的な国でも、悪知恵を働かす人はいるもので、人々が善良なことにつけ込んで、悪さのし放題であった。そのよこしまな心をもった連中は、高級官僚と財界幹部、あるいはその使い走りの政治家と御用学者、お先棒担ぎの電気紙芝居屋と瓦版屋と呼ばれていた。

これらのよこしまな心をもった連中は、海の彼方の、米が主食ではないがなぜか米の国と呼ばれる大国の支配層に、善良な国民が艱難辛苦して稼いだ富を貢ぎ、自分たちの支配を安堵してもらうことで権力の安泰を図っていた。

彼らの悪事は、たとえば、ジュール・ベルヌという、仏教が主要な宗教ではないがなぜか仏の国と呼ばれる国出身の空想科学小説作家が書いた「海底2万マイル」に登場する潜水艦ノーチラスの動力源らしきものを、発電に応用し、その仕組みが実は人間にとっては、あの「魔法使いの弟子」のかけた未熟な魔法のように、いったん動き出すと止められない危険なものであるにもかかわらず、絶対安全で危険ではないと言いつのり、やはり案の定暴走して困った事態になると、想定外でしたと言って誤魔化す、そのような悪事であった。

しかし、そのような悪事を目の前でやられても、その国の人々はなんと善良なことに、しかたがない、支配層の人たちも寝ないでがんばっているのだから、自分たちも我慢しようと言って、怒るでもなく嘆くでもなく、従容として、あのジュール・ベルヌの潜水艦の動力源らしきものが発散する、色もなく臭いもないが、ただちにではなく、じわじわと命を奪う得体の知れないものに身をまかせるのだった…