検察官が犯罪を組織的に行う怖い国

2月17日に東京地方裁判所であった、いわゆる「小沢強制起訴裁判」の証拠採否決定。この決定理由書の中で、裁判官は、検察審査会がいわゆる強制起訴を決定するに当たってより所とした、小沢氏の元秘書・石川代議士の供述調書や検察官の捜査報告書が、違法・不当な方法によって作成されたものであり、しかもその違法・不当な方法は組織的に行われたと見られると述べた。

これは重大だ。というのは、あの裁判所ですらが、すなわちあの刑事裁判有罪率100%近い裁判所ですらが、ということは検察官の言いなりの判決を出す自動有罪マシーンのごとき裁判所ですらが、東京地検特捜部の検察官の行動を、違法・不当かつ組織的と断じたからであり、つまりはこの検察官たちの犯罪ぶりは隠しようがないほど明々白々なこととなったからだ。

ところで、裁判官が、検察官の行動が違法・不当かつ組織的だと言ったのは、特捜部は犯罪組織だというのと同じことだ。

怖い、怖い国だ。公訴権を独占している検察官が、正義の味方であるどころか、犯罪者集団だというのだから。怖い。この国の国民は、いかにまじめに生きていてもどんなに犯罪とは無縁の生活を送っていても、いったん検察官ににらまれたら、それで一巻の終わり、起訴され有罪にされ刑務所に送られ、人生をめちゃくちゃにされるのだ。

新聞TVも共犯だ。なんとなれば、彼らは、こうした検察の犯罪を糾弾するどころか、逆に、検察のお先棒を担ぎこれら無実の人々を叩きまくるキャンペーンに全精力を傾けているからだ。

裁判所もしかり。昨年9月の、「陸山会事件」の判決で、東京地裁の某裁判官は、刑事裁判の鉄則「疑わしきは被告人の利益」ではなく、あろうことか、確たる証拠もないのに「推認」に「推認」を重ねて、検察官の言いなりの「疑わしきは被告人の不利益」の有罪判決を出したのだから、これも立派な共犯だ。

怖い国だよ、この国は。はたして、この国に「正義」というものはあるのだろうか。

「人は40歳を過ぎたら…」

「男は40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」と言ったのはリンカーンだが、現代では、フェミニストの指摘を待つまでもなく、「男」は「人」と置き換えるのが自然だろう。何十年も生きてきた人物が、その年輪にふさわしくない未成熟な顔つきや立ち居振る舞いをさらすということは、その人物がいい加減な人生を生きてきたことの証だ。

ところで、この国の政界には、リンカーンの言葉にぴったりの、人生をやり直した方がよいのではないかと思わせる面々にあふれている。今回は、そうした面々の右代表として、民主党お子さま内閣の財務大臣、安住某にご登場願おう。

この人物、そんなに時間をかけて観察したわけではないが(そんなことに時間を使うほど暇ではない)、童顔というよりもガキ面であり、その立ち居振る舞いは、ほとんど小学生のそれである。

ネットでは、財務官僚にたらし込められるまでの時間の順に「菅3週間、野田3日間、安住3時間」という評判が流れているが、言い得て妙だ。なるほど、小学生の坊やなら、3時間もかけずに丸め込むことなど、財務官僚にとっては朝飯前どころか、赤子の手をひねるより容易なことだろう。

小学生程度の(と言ったら小学生に失礼か)理解力しかない人物が、一国の歳出歳入の責任者であるとは、一体全体この国はどうなっているのか。

消費税論議と『大学』

儒教経典の一つ、『大学』(金谷治訳注の岩波文庫版『大学・中庸』)を読んでいたら、おもしろい言葉に出会った。

『大学』は、『論語』など他の儒教経典がそうであるように、「君子」すなわち、かつての武士のような支配層の必須教養として学ばれ、実践が求められたものなので、当然のことながら、以下の言葉についても「君子」が指導者として政治経済の衝に当たる際の規範とされたものであろう。

「財聚(あつ)まれば則ち民散じ、財散ずれば則ち民聚まる。」

現代語訳は、「財物の集積に努めてそれをお上の倉庫に積み上げると[消費税を上げて国庫収入を増やすと]、民衆の方は貧しくなって君主を離れて散り散りになる[消費が落ち込んで不況が悪化し、政府に対する信頼が地に落ちる]。 反対に徳の向上に努めて財物を民衆のあいだに散らせて流通させると[アメリカ政府の言うことばかり聞かないで真剣に国民の福利の向上を図り、官僚の私腹を肥やす無駄を省いて減税や適切な財政支出を行えば]、民衆の方は元気になって君主のもとに集まってくる[政治に対する信頼が回復し、人々が将来に希望を持つようになって財布の紐をゆるめ消費を盛んにして、デフレ不況が克服される]。」  (金谷訳に加筆、[ ]内は筆者)

『大学』は、金谷氏によれば、前漢の武帝(在位 前141-前87)の頃の成立というから、今から二千年以上前の書物だ。二千年も前! 二千年前の人にも、増税は民を疲弊させ、減税や財政支出は民を潤すということが分かっていた。今も昔も、政治や経済の要諦は変わらないということである。

それに引き換え、このデフレ不況下の消費税増税論議はいったい何なのか。国民の福利よりも、財政再建の方が大事なのか。いや、むしろ財政再建の名の下に行われようとしているのは、さらなる財務官僚のヘゲモニーの強化、いや永続化なのではないのか。

そういえば、『大学』には、こんな言葉も出てくる。

「国家に長として財務を務むる者は、必ず小人を用う。彼はこれを善しと為(おも)えるも、小人をして国家を為(おさ)めしむれば災害並び至る。(災の字は新字体に変更)」

(金谷訳現代文 「国家の統率者として財政に力を入れる者は、必ずつまらない人物を手先に使うものである。彼はこの人物を有能だと考えているが、つまらない人物に国家を治めさせると、天災や人害がしきりに起こる。」)

「財政に力を入れる国家の長」を、財政再建に政治生命を賭けるとやらの野田某、「小人」を財政再建命の財務官僚と置き換えると、この21世紀のわが国の有様にぴたりと当てはまるではないか。いやはや、この野田某・財務官僚コンビのもと、われわれにこれ以上の天災・人害が降りかからないとよいのだが。