『マザーレス・ブルックリン』

『マザーレス・ブルックリン』、2019年の米国映画、日本公開は2020年1月。監督・製作・脚本・主演をエドワード・ノートンEdward Harrison Norton(1969-)が一人でやっている。今月になってビデオ鑑賞。”マザーレス・ブルックリン”とは、主人公の自称私立探偵にそのボスがつけたあだ名。孤児でニューヨークはブルックリン育ちだから”母親のいないブルックリン”というわけ。

原作は、ジョナサン・レセムJonathan Allen Lethem(1964-)の同名小説”Motherless Brooklyn” 1999年。全米批評家協会賞などを受賞。これも映画を見てから翻訳(佐々田雅子訳『マザーレス・ブルックリン』 ミステリアス・プレス文庫 早川書房 2000年)で読んだ。

映画冒頭に”Oh, it is excellent to have a giant’s strength, but it is tyrannous to use it like a giant.”という引用句。調べると、シェイクスピア『尺には尺をMeasure for Measure』の登場人物イザベラのせりふ「ああ、巨人の力を持つのは素晴らしいこと、でもその力を巨人のように使うのはむごい暴虐です。」(松岡和子訳 ちくま文庫 2016年)。 これ、原作にはない。

じつは、上に書いたようなことはなにも知らずに見はじめたら、どうも聞いたことのある話が背景になっていて、既視感がある。

舞台は1950年代のニューヨーク。ノートン扮する、トゥレット症候群(チックという一群の神経精神疾患のうち、音声や行動の症状を主体とし慢性の経過をたどるものを指す。…症状のひとつに汚言症があり、意図せずに卑猥なまたは冒涜的な言葉を発する―ウイキペディア)のある主人公が、殺されたボスの秘密を探るうちに、都市再開発をめぐる闇に巻き込まれていく…というのが主筋。

背景として、市当局の都市計画・建築監督官(アレック・ボールドウィンが役のために体重を増やしたのか、脂肪太りした権力亡者の不愉快な人物を、いつもの甘ちゃん二枚目風を捨てて好演)が、強引にスラム街一掃の都市再開発を推し進めるのに対し、初老白人女性の活動家が、現に住んでいる人々の生活お構いなしのやり方に市民運動を組織して抵抗する話が絡む。

その白人女性の風貌が、当時ニューヨーク在住で、人間不在の都市再開発批判の論陣を張ったジェイン・ジェイコブズ(Jane Butzner Jacobs 1916-2006)に似ているのだ。市当局の監督官も、劇中でモーゼス・ランドルフと呼ばれているけど、たしかそのような名前の人物がニューヨークの都市再開発推進者の中にいたよなと思ったら、いました、ロバート・モーゼスRobert Moses(1888-1981)、「20世紀中葉にニューヨーク市の大改造を行ない、「マスター・ビルダー」(Master Builder)との異名を取り、19世紀後半皇帝ナポレオン3世治下でパリ改造を推進したジョルジュ・オスマンに比肩される」とはウイキペディア。

ついでにノートンのことを調べたら、大学で天文学・歴史・日本語を学び、1986年、母方の祖父が都市問題の講演に招かれて来日したときに同行して通訳をつとめたという。その祖父ジェームズ・ラウスJames Wilson Rouse((1914-1996)は、ロースクールを出て、連邦住宅局勤務ののち住宅ローン会社を設立し、第二次大戦後、都市計画プランナー、市民活動家というのがウィキペディア情報。

原作は、おそらく、書かれた時点の少し前の1980年代後半から90年代はじめが舞台で、日本人が絡む。ニューヨークの半分は日本人所有だなどと、今のすっかりしぼんでしまった日本国からは想像もできない、あのバブルの頃の日本が背景になっていて、米国東海岸のウニ漁獲を日本人が買い占める話だとか、禅の道場だとかがでてくる。都市再開発のことなどまったくでてこない。映画が使ったのは、主人公の人物造形やハードボイルド風の世界観。

はやくも2000年にはノートンが映画化を考えたというから、完成するまでに20年。資金の問題がいちばん大きかったのだろう。でも、その20年は無駄ではなかった。原作の主人公造形とハードボイルドタッチを、1950年代ニューヨーク再開発の暗部と絶妙に絡み合わせた脚本はうまい。トゥレット症候群の主人公のノートンは言わずもがな。冒頭で殺されてしまうが、ボス役のブルース・ウィリスもさすがの演技。こういう短い出番でもきちんとこなす役者魂には脱帽です。原作翻訳者の佐々田雅子が、訳者あとがきで「なお、この作品は『アメリカン・ヒストリーX』『ファイト・クラブ』の若手俳優エドワード・ノートンの制作・主演で映画化されることが決定している。才人の原作に、やはり才人の評判高いノートンがどのように取り組むのか、結果が待ち遠しいところである。」と書いている。その「若手俳優」がいまや50歳! 映画として熟成するためにはそれだけの年月が必要だったということか。

あ、それと音楽。ジャズですね。なかなか良い。おまけに、どう見てもマイルス・デイヴィスでしょう、というトランペット吹きが重要な役柄ででてくる。これも、本物にそっくりなんだな。

ま、というわけで、この映画、特典映像でノートン自身が言っているように、1950年代のニューヨークの都市再開発でなにがあって現在のニューヨークができたのかについての報告書のような側面がある。自分にとっては、そういう面も含めて面白い映画だった。映画そのものと、その映画の背景世界についてあれこれ考えさせてくれる、いい意味で「ひと粒で二度美味しい」作品。吟醸香が鼻腔に漂い、舌に滑らかな、値段は高くないけれど掘り出し物の日本酒というところかな。

これがきっかけで、シェイクスピアのその芝居も読みましたが(残念ながら翻訳で)、これもおもしろいですね。話すと長くなるので端折って。題名の『尺には尺を』が新約聖書マタイ7-1「また自分が測るその測りによって、自分も測られる」あるいはマルコ4-24「あなた方が測るその測りによって、あなた方自身も測られることになろう。」(いずれも田川建三訳) への言及だろうということになっていて、その根拠として5幕1場大詰めの公爵のせりふが挙げられている(ウイキペディア)。いわく「クローディオにはアンジェロを、死には死を、早急には早急を、猶予には猶予を、類には類を、尺には尺をもって報いるのだ」(上掲書189頁)と。

でも、これ、わざわざ新約聖書のその節に言及したというほどのことではないのではないかな。われわれが、たとえば「因果応報」などと口にするのと同じく、彼の地の人たちにとって”measure for measure”はそれが新約聖書に典拠があるなどということは意識に上ってはいなかったんじゃないか。シェイクスピアを含めて。

シェイクスピアの芝居は多様な解釈を許すものだろうから(だからいままで残っている。当たり前か)、映画との関連をあれこれ言いはじめたら切りがないのでやめておくけど、『尺には尺を』と映画『マザーレス・ブルックリン』とは関係があるといえば言えるし、ないといえばないし…。ただ、映画冒頭の引用句(エピグラフというのですか)はじゅうぶん関係があるように思いましたね(だから引用したんだろうけれど。当たり前か)。これもあれこれ言い出すと、元東大総長のフランス文学者某氏のごとく映画をさかなに手前勝手な屁理屈をこねくりまわす無粋になりそうだし、ご鑑賞の妨げになるからやめておきます。

ついでにいうと、まったくの門外漢が、坪内逍遥や夏目漱石以来の長い伝統あるシェイクスピア研究に異を唱えて申し訳ないが、”Measure for Measure”に『尺には尺を』という日本語題名を与えるのはそろそろなんとかしたほうがいいのじゃないですかね。尺貫法も廃止されてから久しいんだし。最初、この題名を見たときには、笛を吹く人の話かなにかと思いましたよ、尺八をね。ちなみに候補として『裁きには裁きを』なんていかがです。

ついでにもう一つ。原作でも映画でも、主人公のマザーレス・ブルックリンことライオネル・エスログが、自分の内なるもう一人の自分―自分が吐き散らす悪口雑言の想像上の聞き手―につけた名前がベイリー。そのベイリーとは「たぶん、ベイリーは『素晴らしき哉、人生!』のジョージ・ベイリーのようにどこにでもいる人間なのだろう。」(上掲書19頁)というわけで、フランク・キャプラの、公開当時は興行的に失敗したが現在では米国内においてクリスマス映画の定番になっているという1946年米国映画”It’s a Wonderful Life”の主人公。ベイリーは、父親から庶民相手の小口住宅ローン会社経営を受け継ぎ、悪辣な銀行家から苦しめられるという設定だった。

映画『天才作家の妻 40年目の真実』

英語原題The Wife、2017年製作、日本公開2019年。以上データはウィキペディア。

主題は、私見では、米国のノーベル賞受賞作家とその妻の共依存関係のようなものの描写。いちおうサスペンス映画という枠付のようなので、あらすじなどには触れない。評判などはウィキペディアやDVDのアマゾン評で。

出演の役者さんたち、グレン・クローズ、ジョナサン・プライス、クリスチャン・スレーター、ほか、脇役の皆さんも上手い。グレン・クローズ扮する作家の妻の若いときの役で本人の実子アニタ・スタークが、作家夫妻の成人した息子役でジェレミー・アイアンズの実子マックス・アイアンズが出ている。最近の映画企画にはリメイクが多いと思ったら、役者さんもリメイクか。

原作小説は読んでいないので、映画だけではわからない深い意味があるのかもしれないが、自分にとっておもしろかったのは、ノーベル賞授賞式典の舞台裏。そいうえばそうだったが、物理学賞などの他の受賞者と同時に並んで授与されるのですね。その中に経済学賞の受賞者も。

だいぶ前に、経済学賞について調べたことをまとめたことがある。この賞、正式名称は、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞という。この賞が始まるとき、アルフレッド・ノーベルの遺族はノーベル賞の意義に似合わしくないとして反対したそうだ。そりゃそうだよ。ダイナマイトは誰がなんと言おうとダイナマイトだけれど、経済学という社会科学は、誰がなんと言おうと科学であるというふうには科学であることはできない。数百年あるいは数千年後までも、日食の観察できる時間と場所を正確に予測できる物理学の意味で(もっともそれを観察する人間がその時に存在していればの話だが)、経済現象を予測することはこの”科学”にはできない。だってそうでしょう。たかだか数年先のリーマン・ショックすら予測できなかったんだから。それを予測したことを評価されてこの賞をもらった人っているんですか。

この映画の式典リハーサル場面を見ながら、そういうことを思い起こすと、この映画は別の主題、ノーベル賞について、なかでも文学賞とか経済学賞とかについて、それっていったいなんなのよという疑問を提出する映画とも見えてくる。監督さんはスウェーデンの人らしいからまさかとは思うが、ノーベル賞というもの自体、さらに言えばそもそも人間が人間を評価する賞というものについて、この監督さんは疑問を投げかけているのかもしれない、と思う。

ボルトンの暴露本

米国の安全保障問題担当の前大統領補佐官ジョン・ボルトンJohn R. Bolton(1948―)の暴露本が話題になっている。その本、題してTHE ROOM WHERE IT HAPPENED― A White House Memoir。表紙デザイン、題名を楕円が囲んでいる。楕円、オーバルルーム、大統領執務室。内容については報道でサワリの部分が紹介され尽くしている(ホワイトハウスの出版差し止訴訟を、裁判所も、出版が安全保障を危険にさらすかもしれないと不満気ながら、すでに報道で周知されてしまったからしょうがないと悔しそうに却下した)ので、今日は別のことを話題に。

ボルトンという人、ウィキペディアだったかによれば本人はそう呼ばれるのを嫌うそうだが、ネオコンサーヴァティズムNeoconservatismすなわち新保守主義、略してネオコンの代表人物。自分の解釈では、米国のネオコンは、国益オタクである。国益の具体的内容は、米国式生活流儀、いわゆるAmerican way of lifeですな、を維持する(保守する)ことに尽きる。厚さ数センチの牛肉ステーキを日常的に頬張る、真冬でも暖房の効いた室内で半袖シャツを着て丼盛りのアイスクリームを舐めまくる、ガソリンを撒いて走るような燃料消費効率の極端に悪い自動車を日常的に使用する。つまり、エネルギー超絶多消費生活ですね。

米国のネオコンは、この国益を守るためならなんでもする。ファウストじゃないが、悪魔とだって取引する。大量破壊兵器なんか持っていないのに持っていると言いがかりをつけて、よその国に大軍を送り込み、荒らし回ってメチャメチャにするなんぞ、朝飯前だ。で、今の大統領。箸にも棒にもかからないとは承知のうえで担ぐことにしたのだろう。わが国の誰かさんが、昔、神輿担ぐなら軽いほうがいいと言いましたっけ。こういうことは東西を問わない。しかし、しかし、この大統領、あまりといえばあんまりな……

ちょっと前のブッシュ息子大統領も軽くて担ぎやすく、しかも言いなりになってくれたから、ネオコンたちにとっては理想の大統領だった。このあたりのこと、2018年の映画『バイス』に詳しい。クリスチャン・ベールが、大統領を操り人形よろしく操縦する副大統領ディック・チェイニーを演じている。米国という国は、いろいろな顔を持つ国で、今の大統領を熱烈に支持する人もいれば、ハリウッドでこのように正面から現在の政治を批判する映画を作る人もいる。あ、ハリウッドはユダヤと左翼の巣窟だからなどと陰謀論を振りかざす人は蒙御免。

というわけで、こんどの大統領、ネオコンの我慢の限界を超えた。というより操縦不能になった。中国の大統領(習近平)に米国農産物を購入するよう哀願して足元を見られる、ロシアの大統領(プーチン)からはくみしやすしとバカにさる。だから慌てた。(米国のネオコン連中、国益オタクと同時に、その偏差値優等生としての来歴から”いつも一番じゃないと気がすまない症候群”に罹患していて、自分たちより上はいないと思っているのに、格下と思っている相手から”上から目線”されるのが何より悔しい。この屈辱をいかでかは晴らさん、ということも大きいのだろう。いや、それがすべてかも。)大統領選挙が佳境を迎えようというタイミングを狙って、暴露本を出す。なんとしてでも再戦を阻止したい。次に誰がなっても、操縦できる自信はある。とにかく、あの操縦不能out of controlの人だけは引っ込めねば… 今朝の、NHK・BS海外ニュース番組紹介コーナーで、米国ABC放送のキャスターのインタビューに答えるボルトンの肉声を流していた。「1期で終わる大統領として歴史に記録されてほしい。」 

2019年10月22日のNHK・BS番組

NHK・BSで1998年の映画「仮面の男」をやっていた。

元ネタはデュマの『ダルタニアン物語』。
ルイ14世、実はダルタニアンと前王の王妃との間にできた双子の一人で、鉄仮面はその弟というブルボン王家のゴタゴタ話。
『王子と乞食』のような取替っ子の話でもあり、王家の道徳的堕落(表向きは”姦淫禁止”の十戒が基本戒律の(はずの)カトリック教守護者を任じながら、実は…。)の話でもあり、訓練しだいで王のフリをすることは難しくないという話でもあり、王制の非合理を皮肉っているとも解釈できる映画。

つづいてBSの街歩き番組。
パリの13区、ビュット・オ・カイユla Butte-aux-Cailles、パリ・コミューンの故地の紹介。そこにはパリ・コミューン広場もある。ちらっと見せていた。歩道のカフェで、作詞者によってコミューン当時の同志の女性に捧げられた「さくらんぼの実る頃」を歌う老人男女カップル二組、その一人の男性が「恋と革命はいつも敗れるのさ…」と。彼らはコミューンの記憶を留めている。
壊れた家電製品を再生することを学んで、ドロップ・アウトした高校生を再度軌道に乗せる 都立高校のエンカレッジスクールみたいな 学校が出てきた。この手の問題解決への模索は洋の東西を問わないな。

日本王家の めでたかるべき 代替わり式典当日に、王制への皮肉とパリ・コミューンにかかわる番組を放映する”みなさまの公共放送”NHK。少数派であろう王制を支持しない国民に配慮して、代替わり祝賀一辺倒ではなく、あえてそのような編成にしたのか。まさかね。

クリント・イーストウッドの「運び屋」

先日借りたクリント・イーストウッドの、実話をもとにした監督・主演映画「運び屋」。原題は”The Mule”

イーストウッド扮する90歳の園芸家が主人公。Daylily(和名ノカンゾウ ユリ科の多年草で一日で花が終わるのでその名があるという)を栽培・販売していたが、インターネット通販に負けて倒産する。品評会で老婦人の一団に「会場が違うぞ、美人コンテストは3階だ(ったかな)」と声をかけて喜ばせるなど外面(そとづら)はいいが、その当日の娘の再婚(だろう)の結婚式はすっぽかす。Daylilyの栽培に熱中するあまり家族は放置同然。当然、妻とは離婚している(のだろう。劇中ではっきりと説明されていないが)。その主人公が、ひょんなことから、麻薬カルテルにブツの運び屋として雇われる。10数回の運び屋稼業でかなりの大金を手にして、孫娘の美容専門学校の学資や結婚披露宴の費用を出したりして、離れていた家族の好評価をかちとりはしたものの、けっきょくは当局に御用となり、有罪を自ら認めて連邦刑務所に収監される。一匹狼的主人公がなんらかの原因で(それは本人の自己中心的な生き方であったり、北軍兵士による焼き討ちであったりするのだが)家族崩壊に直面するも、紆余曲折のはてに家族再生を果たす(血のつながった家族の場合もあるし、そうではない疑似家族の場合もある)というイーストウッドお得意のものがたり。

ハデなドンパチがあるわけではなし、当年89歳のイーストウッドが、演技なのか地なのか、画面の中をよぼよぼと歩く。車を運転する場面では、いつアクセルとブレーキを間違えて暴走するかヒヤヒヤする。そんな映画が、映画観客のボリュームゾーンの若い人に受けるわけがない。敬老映画? ツタヤで新作から準新作に3ヶ月で落ちるのも無理はない。

いつものスタッフが あれこれ言わなくとも監督の意向を察して、恒例のイーストウッド調をちゃんと作り上げている、常連客向けの小品。まあ、例えて言うと、馴染客だけでこじんまりとやっている駅前の赤ちょうちん、みたいな映画に批判がましいことを言っても詮方ないとは思うが、でも、常連客の一人として一言。麻薬取引の大金のおこぼれで、家族の歓心を買って再生を果たすハッピーエンド風はイケマセン。主人公が手にした大金の背景には、麻薬に手を出して家族崩壊に至る家族がごまんと見えている。

「プーと大人になった僕」と「グッバイ・クリストファー・ロビン」

「プーと大人になった僕」、まあ、よくもこんな中身のないスカスカ映画を作るもんだ、ディズニーは。

「なにもしないことがいいことだ」と大人になったプーさんシリーズ主人公クリストファー・ロビンの口から言わせておいて、その主人公が最後に勤務先の旅行カバン会社の役員会に提案するのは、社員に有給休暇を与えて旅行に行かせること、つまり旅行カバンを買わせることなのだな。「なにもしない」のには旅行もしないし余計なものも買わないことも含まれないのかね。しかも、その提案には、CEO(だろう)の息子を悪役にしてケチを付けさせるが、CEOは万能の神よろしくすべてを理解していて瞬時にその提案を好意的に受け取るというCEO神話。ディズニー社も、その下のもろもろの役員が無能だったり邪悪だったりするからときどき失敗作も作るが、CEOは万能で善の化身だから過つことがない、と言いたいのかな、この映画は。ディズニー社のCEOヨイショ映画。映画制作にお金がかかるのは百も承知だが、脚本家やディレクターが、こうも、資本を出す側におもねっているのを見せつけられるとうんざりする

「グッバイ・クリストファーロビン」は英国映画。こちらは同じクリストファー・ロビンを扱っていても、180度違う。

プーさんシリーズの主人公として世界的人気を博したがためにかえって人生が不調和になってしまった息子クリストファー・ロビンと、作者である父親A・A・ミルンとの葛藤が話の主軸。幼少にして有名人となったゆえに学校で凄まじいいじめに合うクリストファー・ロビンが、第2次世界大戦に出征、戦地の兵士仲間がプーさんシリーズをいかに愛しているかを知って父親とその作品を理解するという、いちおうまあ、ハッピーエンド仕立てにはなっているが、全体の調子は苦い。10歳くらいまでの子どもが見ても、わからないことはないだろうが、こちらは成熟した大人向けの映画。

同じ時期に同じ人物を扱って、こうも味わいの異なる映画ができるというのも不思議なことではある。英米あるいは米英というふうに一つにはくくれないということかな。

映画「運び屋」と「戦略空軍命令」

台風15号が関東を直撃しそうな勢い。明日8日の夜半すぎから明後日の未明にかけて暴風雨圏に入りそう。

準新作108円クーポンが来たので近くのツタヤへ。行ったら、早くもクリント・イーストウッドの「運び屋」が準新作になっていた。6月中旬の発売だから3ヶ月足らずで新作落ち。人気がないのかな。こちらとしてはありがたいけれども。先日、目をつけておいた”ツタヤ発掘良品”の「戦略空軍命令」と合わせて2枚借りる。

さっそく、「戦略空軍命令」。ジェームズ・ステュワート、ジューン・アリスン主演、1955年公開。まあ、内容は全編これ、米国陸軍から独立まもない空軍の、それも長距離爆撃機による核攻撃を主任務とする戦略空軍のPR映画。あの、B-29の空襲の下を逃げまどった被災体験を持つ親の子としてはその名を聞くと心穏やかではいられない、対日戦略爆撃の最高指揮官カーティス・ルメイとおぼしき人物も出てくるが、ま、人間ドラマは付け足し。主役は、当時の主力戦略爆撃機B-36 とB-47。「戦争を防ぐ装備」とか「1機で日本を焼け野原にした破壊力相当の核爆弾を搭載可能」だとかのセリフが出てくる。米国納税者へのエクスキューズ。劇中、主人公がB-47で米本土から日本の横田基地を目指すも悪天候で嘉手納へ回る場面が出てきたりする。

米国空軍PR映画にどうのこうの言ってもしょうがないのだが、夫ジェームズ・ステュワートの任務の過酷さに、妻ジューン・アリスンが、カーティス・ルメイとおぼしき四つ星の大将に直接、面と向かって怒りを爆発させる場面など(いくら米国とはいえ現実にはありえない場面だが)こういう場面を設定しないと観客の米国民である納税者が納得しないのだろう。日本で、自衛隊PR映画を映画会社が作るとして、まず、間違いなく、自衛官の妻が、夫の上官の上官のそのまた上官であるような空将(というのかな)に面と向かって苦情を言う場面など設定しないだろう。今や世界の問題児となった感はあるがいちおう共和国である彼らの軍隊と、今なお天皇が存在する日本国の軍隊の違い。

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの『トップ・ハット』の一場面が使われているというので『グリーンマイル』と『カイロの紫のバラ』をDVDで見た。

両方とも、アステアが歌う Cheek to Cheek に合わせて二人が踊るシーンを使っている。Cheek to Cheek は、ご存じ、あの ~Heaven, I’m in heavenで始まる、アーヴィング・バーリン詞・曲の名曲。

『グリーンマイル』は面白かった。

Cheek to Cheekの歌詞そのままに、『トップ・ハット』を天国的な雰囲気をもつ映画として扱い、無実でありながら電気イスによる処刑を目前にした死刑囚にこの場面を見せることで、彼の魂の救済を、ということはつまり映画の観客の魂の救済を図っているようだ。

『トップ・ハット』の製作関係者が(存命なら)この映画を見て、自分たちの製作意図がきちんと理解されたことを納得するだろう。『グリーンマイル』からは、60年も前に作られたこの映画に対する敬意のようなものも感じられる。

『カイロの紫のバラ』はそうではない。

映画のラストで、不器用で夢見がちな、生活に行き詰まった、映画ファンの人妻である女主人公が、夢破れて希望を失いながら入った映画館で見るのがこの場面。はじめはうなだれて沈んだ表情だったものが、流れる音楽に顔を上げ、やがて画面を見つめる瞳に喜びが浮かんでくるという決定的な場面でこの場面が使われているのだが、その使われ方はシニカルだ。映画なんぞという絵空事、すなわち『トップ・ハット』を見て、いっとき、厳しい現実を忘れたって、映画館を一歩外に出ればたちまち元に戻るのだと宣告しているようなのだ。

なんだか、ラストまでつきあった観客、すなわち自分にざーっと冷水を浴びせられた気分である。後味が悪い。『トップ・ハット』をそんな風に使わないでくれと言いたくなる。

そんな風に使わないでくれといえば、『時計じかけのオレンジ』でも、暴行犯人が 『雨に唄えば』の Singin’ in the Rain を口ずさみながら行為に及ぶ場面があったが、あれもいけない。あれを見て以来、Singin’ in the Rainを口ずさむたびに、『時計じかけのオレンジ』のこの場面を思い出してしまう。

ああ、いやだ。