ニュージーランド地震と言論の自由

どこの人間社会にも程度の差はあれ、流れや、空気といったものができあがると、その流れや空気に異を唱える人々を、時には暴力を使ってでも排除しようとする、全体主義的とでも集団主義的とでも呼べるような傾向がある。異を唱えることは、社会の秩序を壊すウィルスだから即刻、排除しなければならないというわけなのだ。

わが日本社会はその傾向が強いのだろうか、大きなイベントや事件・事故が起こると、一億一心火の玉になってしまい、いささかでもそのことに疑問を呈すると、非国民扱いが始まる。近頃は、個人主義が浸透してきたせいか、一時ほどではないが、まだそのことは色濃くあるように思う。

このたびのニュージーランド地震に関連して、一部政治家の言動や、新聞・TVの物言いに、このことをあらためて強く感じた。

例えば、民主党の松木健公氏が農水政務官を辞任するに際して、官房長官の枝野某の「地震対応に政府一体で取り組む中で大変遺憾で残念だ」(日経)という発言、自民党幹事長の石原某の「ニュージーランドで邦人も含めて、多くの方々の生死が取りざたされている中で、うちわもめをしている余裕はなく、世界に対しても恥ずかしいことだ」(NHK)という発言。

これらの発言は、先の戦争中、「この非常時にパーマをかけるとはけしからん。非国民!」などと言い募り、どんなときでもお洒落を忘れない女性の鏡のような女性を辱めた世の中の全体主義的な風潮と五十歩百歩ではないかと思う。

地震で被災された方々には同情するし、被害にあったわが同胞が一刻も早く救出されることを願うが、しかし、遠く離れた日本で、官民ともできることは限られている。日本政府としても救助隊派遣などできることとやるべきことをしながらも、それはそれとして、その他もろもろの内政外交課題に取り組まなければならないのは自明の理である。

そうした自明のことをわきまえず、かの地の地震と、この地の内政課題を一緒くたにして、松木氏の正当な政治的行動をおとしめようとする政治家と、その発言を無批判かつ肯定的に伝えるマスコミの振る舞いは、他国の地震災害への同情に名を借りた言論封殺と同じであり、人間社会の悪い癖である全体主義的・集団主義的風潮を助長するものだ。

[追記]

ニュージーランドは、日本と同様の島国で、火山もある地震国だったと思うが、それなのに耐震性ゼロのレンガ造りの建物があったとは驚きである。ニュージーランド政府は、暴力的な反捕鯨活動を実行しているシーシェパードなる団体の船舶の同国寄港を認めていたと思うが、クジラの命は大切にするも、人間の命は大切にしないのか。わからない国だ。

松木謙公・農林水産政務官の辞任と負け惜しみをする菅直人

松木謙公・農林水産政務官は、24日、小沢さんに対する菅直人執行部による処分に抗議して、辞任した。松木氏があげた辞任理由は次のようなもので、小沢さんや小沢さんに共感する人間には党内で基本的人権が認めれていないことや、菅直人執行部のTPP参加や消費税増税発言など論議なしの非民主的な党運営への異議ということだが、至極もっともなことだ。

ブログ主は、松木氏の決断と行動を支持する。

ところで、菅直人が自分の指導力のなさを天下に見せつけられたものだから、やはりというか、案の定というか、負け惜しみをしている。

松木氏は、直接、辞表を提出するつもりだったが、任命権者の菅直人は、ニュージーランド地震の対応に専念するとして難色を示し、会わなかった。

ニュージーランド地震の対応だと?

そんなことを理由にして、自分が任命した政務官の辞表受け取りから逃げるのか。どこまで小ずるいのだ、この菅直人という男は。バカ女房が側にいないとなにもできないのか。

一人前の男なら、敗北を素直に認めて辞表の受け取りぐらい自分でやれ!

小沢さんのどこから見て正当きわまりない主張

今日、小沢さんが、民主党の倫理委員会に出席し、検察審査会による起訴が、党の「倫理規範に反する行為」に該当するという菅直人執行部の無理無体な言いがかりに、正々堂々と反論した。

小沢さんの考えは、「倫理委員会の皆さんへ 私の主張」(後掲)に尽くされており、倫理委員会すなわち菅直人執行部は、小沢さんの主張に対し、自分たちがなぜいわれなき言いがかりをつけたのか、説明する責任がある。

しかし、案の定、菅直人執行部は説明をしないまま、小沢さんの処分を強行しようとしている。処分理由に対する反論に回答しないまま処分を強行することは、自分たちに理がないことが分かっているからだ。理がないままに、党の大恩人を処分するような菅直人執行部に、明日はない。

[小沢さんの民主党倫理委員会に対する主張全文 ]

「倫理委員会の皆さんへ 私の主張」

平成二十三年二月二十二日

衆議院議員 小沢一郎

党倫理委員会の皆様、このような機会をいただいたことに心から感謝申し上げます。

一昨年来、私の政治資金管理団体にかかわる件について、国民の皆様、同志の皆様にご心配をおかけしていることを、まずもってお詫び申し上げます。

さて二月十四日の民主党役員会、十五日の常任幹事会において、元秘書が逮捕・起訴された事実について、私に対し検察審査会により起訴手続きがなされたことは「倫理規範に反する行為」に該当すると判断したとのことですが、本日は倫理委員会の皆様に私の考えをお伝えし、また委員の皆さんのご所見を伺いたく参りました。どうぞよろしくお願い申し上げます。

一. 検察審査会の起訴と、通常の検察による起訴との違いについて

役員会・常任幹事会は、私が、収支報告書の虚偽記載につき共謀したという容疑が真実であるか否かにかかわらず、単に起訴されたという事実をもって処分の根拠としていますが、今回の検察審査会による起訴を通常の起訴と同視することはできないと考えます。

一連の問題に関し、一年余にわたる東京地検特捜部の徹底した捜査により、多数の書類を押収され、秘書・元秘書は身柄を拘束された上で取り調べを受け、私自身も四回にわたって事情聴取に応じてきました。結果、私については不起訴処分、さらに、一回目の検察審査会の起訴相当議決後の再捜査でも再び不起訴処分となりました。検察審査会の議決にある通り、検察審査会制度は「国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度である」とのことです。検察審査会の議決による起訴は、検察の起訴のように有罪の確信があって行うのではなく、法廷で「白黒」をつけるために行う、つまり迷ったから裁判の手続きに乗せようと、当の検察審査会自身が述べているわけです。

また今回、検察官役を担われる指定弁護士も、記者会見において「有罪だと確信したから起訴したのではない。議決があったから起訴した」「私たちの職務は必ずしも有罪だと確信したから起訴するのではなく、法令上、起訴しない条件がなかったから起訴した」と述べたと聞いており、今回の起訴の性格を指定弁護士自身の発言が物語っております。

この点について、倫理委員会の皆さんは、検察審査会による起訴手続きと、検察による通常の起訴の違いについて、どのようにお考えになっているのか、お伺いします。

二.検察審査会の起訴議決が有効であるか否かについて

役員会・常任幹事会は、今回の検察審査会の起訴議決に基づく起訴が有効であることを前提に処分の判断を行っていますが、そもそも検察審査会の起訴議決自体に手続違反があります。

東京第五検察審査会の二度目の議決には、不起訴になった事実以外も議決の対象となっております。つまり一回目の議決と二回目の議決の内容が異なっているのです。被擬事実でもないことについて審査の対象となるのであれば、いかなる無辜の民であっても審査の対象となり、いわれなき容疑によって強制的に起訴されることとなりかねません。公人中の公人であり公選による衆議院議員にとっては尚更であり、到底認められません。

私は、検察審査会の議決の有効性についても行政訴訟により争ってまいりました。この点につき、最高裁は、「刑事裁判の中で主張しうる」との判断を示しており、今後の刑事裁判の中で起訴議決の有効性自体についても争ってゆくこととなります。

さらに、起訴議決に至った最大の証拠である石川議員の供述調書についても、再捜査の取調べの際に担当検事の誘導等があったことを示す録音が存在しており、この供述調書の任意性、信用性が否定されれば公訴取消しも十分にあり得ます。

また検察審査会自体、議事録も公開されておらず、第一回目の議決の際と第二回目の議決の際の構成委員の平均年齢が、本来入れ替わっているはずであるにもかかわらず三十四・五五歳と同じであって、そもそも一千万都民の中から無作為抽出によって委員を選任した場合に、平均年齢が三十四・五五歳となる確率はほとんどゼロであることに加え、二度の審査委員会委員の平均年齢が同じとなることなど、偶然にしてもあり得るはずもないこと、審査補助員の弁護士に支払われた旅費の日付が、報道による審査補助員就任時期以前のものまで含まれており、ルールに則った審査が行われたかどうか疑わしいこと、議決前には担当検事による不起訴理由の説明が必要ですが、ほんとうに担当検事が議決前に検察審査会に出席したかどうか定かではないことなど、その経過も内容もまったく公開されておらず、全て秘密のベールにつつまれております。一千万都民のなかから無作為で選ばれたとされる十一人の検察審査会委員の素性はもちろん、審査の過程も明らかにされていないのであります。果たして検察審査会による議決が、「国民の責任」といえるだけの正当性を有しているのか、はなはだ疑問であります。

倫理委員会の皆様は、検察審査会の起訴議決の有効性について、どのように判断されているのか、お伺いします。

三.元秘書3名が逮捕・起訴されたことについて

役員会・常任幹事会は、元秘書三名が逮捕・起訴されたことを処分の理由としていますが、これまでは秘書がその容疑を認めた場合がほとんどであり、しかも秘書の逮捕・起訴を処分の理由にした例はないと記憶しております。

他方、私の元秘書三名は、一貫して無罪を主張して参りました。無罪を主張しているからこそ、他の秘書の件とは異なり、強制捜査の対象となり、現在は公判廷において無罪を争っているのであります。この中で先にも申し述べた通り、取調べの際に担当検事の誘導等があったことを示す録音が証拠として採用され、証拠をねつ造したとされる検事による調書の証拠採用が見送られるなど、裁判の今後の成り行きが注目される中、自らの罪を認めた秘書の事例と同列に私の問題を論ずることには違和感を憶えざるを得ません。

この点についての倫理委員会の皆さんのご所見をお伺いいたします。

四.衆議院政治倫理審査会への出席について

私は、昨年十二月末に政治倫理審査会への出席を言明いたしました。

私の弁護団は、刑事裁判中に政倫審に出席して自己に不利益な供述を求められることは、場合によっては裁判において不利益を被りかねず、憲法の人権保障の趣旨に反するとの意見でしたが、私は、国民生活に不可欠な予算の成立に必要であれば、党のために政治倫理審査会に出席すると申し上げたところであります。出席を拒否してはおりません。

政治倫理審査会が未だに開催されていないのは、国会運営上の都合によるものと思います。

倫理委員会の皆さんのご所見をうかがいます。

五.党員資格停止の不利益遡及について

私はもとより処分を受けるいわれはありませんが、今回の党員資格停止処分の期間について、「党員資格停止期間中の権利制限等の指針」によれば、最長六ヶ月とされているものを、一般職公務員の起訴休職を類推して「判決確定までの間」とされている点についても、前例はなく理解に苦しむところであります。党において規約や指針があるにもかかわらず、定められた以上に不利益を適用することは、法治国家のあり方からしても、また民主主義の国の政党のあり方としても、著しく不穏当であります。これでは規則や指針を定めている意味がありません。

倫理委員会の皆さんはこの点についてもどのようにお考えか、お聞かせください。

以上申し述べて参りました通り、私に対して発議されている今回の処分はいずれも前例がなく、なぜ私だけがこのような処分を受けるのか、合理的な理由は見当たりません。

倫理委員会におかれましては、ただ今申し上げました私の主張について、書面によりご回答下さいますようお願い申し上げます。

今後私は、全国民に開かれた法廷の場において、これまで通り真実を述べて参ります。

そして、何よりも、従来から様々な機会で申し上げてきたとおり、何一つ私自身やましいことはありません。これからの裁判において、私が無実であることは自ずと明らかになります。

私は、この二十年間、一貫して政権交代の必要性を主張してまいりました。そして国民の皆様のお力で、ついに民主党政権が誕生しました。しかしながら、「国民の生活が第一。」の政治は未だ実現しておらず、何千万もの国民の皆様とのお約束を中途半端にすることはできません。

今後は、弘中惇一郎弁護士を始めとする弁護団とともに、一刻も早く無罪判決を獲得して参ります。そして、引き続き民主党の国会議員として、「国民の生活が第一。」の政治を実現すべく、私の座右の銘である「百術は一誠に如かず」の言葉の通り、誠心誠意取り組んで行く決意であります。

何卒倫理委員会の皆様のご理解を賜りますようお願い申し上げます。

以上

予算を議論しない衆議院予算委員会の怪

衆議院予算委員会のラジオ中継を聞いていたら、質問者が延々と、政治家と政治資金の関係について議論を繰り広げていた。

予算委員会の、こういう見当違いの議論を聞いていると、いわゆる「政治とカネ」という問題の問題性がいよいよ明らかになってくる。

当ブログが、これまで繰り返し主張してきたように、政治にカネがかかるのは当たり前、むしろより多くの金を集められる政治家はそれだけ周りが期待する実力のある人、大事なことは、誰から、いくら貰って、何に使ったかをすべてオープンにして、それがいいか悪いかは、国民が選挙における投票を通じて判断すればよいことだ。本来、国家予算について議論すべき「予算」委員会で、騒ぐことではない。

その問題にならない「政治とカネ」問題が、国会の予算委員会で、かくまで大げさに問題となるのは、財務省製の官僚主導予算をきちんと議論されると、大いに困る勢力があるからだ。

それは、言わずと知れた、高級官僚の諸君である。予算を微に入り細に渡り議論し、検討されると、予算の処々方々に仕込んだ官僚既得権益が明るみに出てしまう。

いくら、国民がお人好しであっても、国会の場で、延々と税金の高級官僚による私物化の実体を見せつけられれば、怒るだろう。国民が怒って、主権者すなわち納税者として、税金の使途について真剣に考えるようになれば、それは、官僚主導政治を掘り崩す大きな一歩になることは間違いない。

それは、高級官僚の諸君にとって、絶対に避けたいことだ。だから、そうならないように、「予算」委員会で、「予算」が議論の対象にならないような工夫が必要になる。その工夫が、いわゆる「政治とカネ」というわけなのだ。

これも、当ブログで指摘したように、小沢さんの、いわゆる「政治とカネ」なる問題は、高級官僚の代表選手である特捜検察が、こういう工夫の一つとして創作したファンタジーに類するものだ。

せっかくの予算委員会で、予算を議論せずに、問題にもならない「政治とカネ」の問題ににうつつを抜かしている議員諸公は、高級官僚の手のひらで踊らされている哀れなピエロである。

国益とは何か

新聞・TVの社員ジャーナリストは、「首相をころころ変えるのは国益に反する」などと言う。

ころころ変わるのは、なんのためかといえば、彼らが愚にもつかない「世論調査」で、「空気」をつくり、ころころ「変える」からだろう。

バカを言っちゃあいけない。自分たちで原因を作っておいて、その結果を「国益」に反するだなどというのは、天に唾するようなものだ。

「国益」もかわいそうなものだ。新聞・TVの社員ジャーナリスト風情が、自分たちの不始末をゴマカすために使われるとは。

「国益」などという大事な言葉は、彼らのように間違って使ってはいけない。

本当に使うべきは、例えば、次のような文脈においてである。

この極東の島国で、1億2000万人余が、平和で幸福に、誇りを持って暮らしていくためには何が大切か。すなわち、何が、日本国民にとっての利益になるのか、つまり国民益=国益になるのか。

高級官僚や新聞・TV、菅直人や自民党が「日米同盟関係が最重要」言い募るように、混乱して沈みかけている米国を唯一のパートナーとして、あたかも下駄の雪のごとくに付き従っていくことが国益なのか。

それとも、この、ユーラシア大陸の東端に位置する島国と言う地理的条件をふまえ、真に独立した主権国家として、中国、ロシア、韓国、東南アジア諸国、そして太平洋を挟んでの隣国である米国と、対等にして友好的な国家関係を作っていくことが、国益なのか。

ブログ主は、もちろん、後者が真の国益を実現する立場だと思っている。

ところが、現状はと言えば、この日本列島に、米国の軍隊が基地を置き、治外法権状態のまま、勝手気ままに使いたい放題などという、わが国開闢以来、絶えてなかったことがまかり通っている。これは、第二次世界大戦終結後も、事実上の米国による日本占領が続いている国辱的状態であり、日本国民が主権を行使できないでいるという、およそ国民の利益に反する状態である。

第二次世界大戦の終結後、先輩たちは、経済復興を最優先に働いてきた。おかげさまで、私たちは今、開闢以来、未だかつてなかったような繁栄の中にある。戦争直後の国民共通の夢だった「銀シャリをお腹いっぱい食べる」は、まさに日常茶飯のことになった。

しかしながら、「人はパンのみにて生くるものにあらず」、その志によっても生きるものである。「一寸の虫にも五分の魂」とも「匹夫もその志を奪うべからざるなり」とも言うではないか。おかげさまにて、衣食足りた今、私たちは、独立国家の主権者としての誇りを取り戻すときがきたのではないか。

であれば、その第一歩は、現行の日米安全保障条約を改定して友好平和条約のようなものに変え、日本国内にある米軍基地を即刻撤去し、第二次世界大戦終結以来続いている事実上の米国による日本占領を、一刻も早く終結させることである。

しきりに「国益」を口にする、高級官僚や新聞・TV、菅直人や自民党の諸君に、はたして、このことの自覚のありやなしや。

この国の癌は新聞・TV

ようやく、菅直人の政治家としての命脈が尽きそうである。

あの、サバの腐ったような目つきの菅直人とそのバカ女房が、表舞台から消えてくれることは日本国民と日本国にとって慶賀の至りである。

しかし、昨年9月の代表選で、小沢さんという最良の選択肢がありながら、このような最低の人物に投票し代表に選んだ民主党の国会議員、地方議員、党員・サポーターの責任は重大きわまりない。全員、頭を丸め、滝にでも打たれて、おのれの罪を悔いよ。

しかし、もっと罪が深いのは、「政治とカネ」のバカの一つ覚えを垂れ流し、国民を欺き続けているこの国の新聞・TVである。

本来、人々の曇りなき目となり耳とならなければならないマスメディアが、逆に、人々の目を塞ぎ耳を詰まらせ、小沢さんに関するありもしないデマ情報を刷り込む。

不正な報道を繰り返す新聞・TVは、人々が社会や政治に関して判断する際の材料に歪みを与えることにより、人々の正しい判断を妨げ、結果として、社会や国家のあり方を誤るものである。

このような新聞・TVは、いつの間にか体内に発生し、やがては本体を滅ぼす癌細胞のごときものだ。これを放置すれば、社会や国家が危うい。

不正な報道を繰り返す新聞・TVに対しての治療法は、見ない、読まない、聞かない、の「3ない」が一番効果的だ。

誰も見向きもしなくなれば、彼らも自分たちのしていることがいかに間違ったものであることに気付くことも、あるいはあるかもしれない。癌細胞が自ら萎縮していくことも可能性としてないことはない。

ブログ主は、わが国の新聞・TVが、社会や国家の健全な発展のために尽くすというジャーナリズム本来の役割に目覚め、本道に立ち返るべく、自ら、癌細胞を萎縮させる力を発揮することを願うものである。

久しぶりに筋の通った政治的文書が現れた

17日、民主党の比例代表単独選出の衆議院議員16名が、民主党籍のまま、民主党の院内会派「民主党・無所属クラブ」を退会し、新たに衆議院の院内会派「民主党政権交代に責任を持つ会」、通称「民主党国民の声」を立ち上げた。

16名が、「民主党・衆議院比例代表単独議員有志一同」の名で出した『約束を果たす民主党への回帰宣言』(後掲)は、ブログ主の思いと一致する。したがって、ブログ主は、この宣言に賛意を表明し、この行動に出た有志議員を支持する。

宣言の内容は、簡にして要を得ているので、一読了解可能、誤読の余地はないと思われる。だから、余計な解説は付け加えない。

以上で、本論は終わり。以下、感想を少々。

この16名の議員さんの大半は、2009年総選挙で初めて当選した人たちだという。年齢や当選以前の経験はさまざまなようだが、代議士1年生だからこその、意表を突く新鮮な、しかし、代議制民主政治の本筋をとらえた行動ができたのだろう。ブログ主が、主権者・国民の代表である議員さんに期待するのは、小泉某がやったような中身のない空疎なパフォーマンスではなく、まさに、この宣言のような、論理的に筋の通った確固とした主張であり、新しい集団を創る行動なのだ。

久しぶりに、筋の通った明快な政治的主張に接して、ブログ主は単純に喜んでいる。

『約束を果たす民主党への回帰宣言』全文

「今の菅政権は、国民との約束を果たす本来の民主党政権ではない」 今、民主党議員の多くが強くそう感じている。「国民の生活が第一」の政治理念は、おととしの衆議院総選挙での、民主党と国民との最大の約束だった。しかし今の菅政権ではどんな事態が進行しているだろうか。

総選挙では、予算のムダを徹底的に削り、新たな政策の財源に充てるとしたマニフェストを掲げ、政権交代を実現した。しかし、「予算の総組み替えなどを行う」と主張していたのに、ほぼ手つかずの一方で、先週、菅総理大臣は、「衆議院の任期中上げない」としていた消費税については、「来年度末までに法的な対応をしなければいけない」と発言し、増税への意欲をあらわにした。

菅政権は国民との約束、マニフェストを捨てたのである。

また、政治家主導で日本を立て直すはずが、目玉とされた国家戦略局の設置法案は実現せず、公務員制度改革も反古にされている。官僚に頼り放しだが、尖閣問題や北方領土問題など、もっとも政治主導であるべき案件で失敗すると官僚のせいにする。

菅政権は政治主導の御旗も捨てたのである。

菅政権は、民主党の理念、そして「国民の生活が第一」という国民の皆様への約束をも捨て去ったのである。

菅政権が本来の民主党の政策を捨て、本来の民主党の政治主導を捨て、本来の民主党の国民への約束を捨て去って省みないならば、それは国民が願いをかけた本来の民主党そのものを捨て去ることになる。

そして、このことは、本来の民主党への支持の上に比例代表で当選した我々の存在意義すらも打ち消すことになる。

我々は民主党と国民との約束の上に存在する比例代表の議員だからこそ、本来の民主党の姿とはかけ離れた今の菅政権にはもう黙ってはいられない。みすみす旧来からのしがらみにはまり込み、無原則に政策の修正を繰り返す菅政権に正当性はない。我々は今こそ「国民の生活が第一」の政策を発信し、国民の信頼を取り戻していかなければならない。

しかし、我々は、民主党に対する信頼が地に落ちた今となっても民主党を捨てるつもりはない。歯を食いしばっても、国民との約束であるマニフェストの実現に取り組む我々こそが、本来の、そして真の民主党であるからだ。

従って、我々は、国民との約束を果たす議員集団であることを、改めて国民の皆様に行動で示すために、衆議院での民主党・無所属クラブとは分かれ、新たに院内会派を設立する。そして同志一同が結束して、「国民の生活が第一」の政策を実行すべく今後、行動を展開していくこととする。

2月17日 民主党・衆議院比例代表単独議員有志一同

小沢さんを何がなんでも民主党から追放したい新聞・TV

新聞・TVは、小沢さんを、民主党から追放しようと懸命です。

いわく、党員資格停止では生ぬるい、除名しろだのなんだのと、毎日うるさいことといったらありません。

そんなことをして何がおもしろいのか、さっぱりわかりません。第一、そんなことは、民主党内部のことでしょう。新聞・TVは、なんの資格や権限があって、人様のことに首を突っ込めるのでしょう。不思議です。

新聞・TVの、この有り様を見ていると、その先が断崖絶壁で、そのまま突っ込めば、全員墜落死確実なのに、かまわず破滅へ向かって突進する無知な羊の群れをイメージします。

何をかいわんやであります。ごくろうさま、合掌。

鳩山前首相インタビュー再論

一昨日(2月14日)のブログ記事「素人の政治家」で、鳩山前首相の共同通信によるインタビューを批判的に取り扱った。

だが、このインタビュー、最高権力者の地位を離れたばかりの人物が、すこぶる簡略ながら、一種の回想を世に問うたものと見ることもできる。(本人がどういう動機でインタビューに応じたかは別として。)

わが国の政治家は、回想録や日記の類を生前に、あるいは死後になっても、公開することが少ない。過去のことは水に流すことを良しとする風潮や、沈黙は金とする価値観からか、公職を引退後も、多くの政治家は自らが関わった政治プロセスについてなにも語らず、秘密を墓場までもっていくことがしばしばだ。

ブログ主は、このことをかねてから残念に思っている。公職にあった政治家の回想録や日記の類は、その政治家が関わった政治プロセスについての証言であり、当代および後世の国民がその当否を判断する材料になるので、そういうものがあれば、似たような問題が発生したとき、それらを参考にすることで同じ失敗を繰り返さなくとも済む可能性が高まるからだ。

少数の例外がある。平民宰相こと原敬(1856-1921)の『原敬日記』、最後の元老・西園寺公望(1849-1940)の私設秘書、原田熊雄(1888-1946)の『西園寺公と政局』など。

そう考えると、このインタビューは、歴史的な政権交代によって誕生した初の民主党内閣の実相を当事者の証言から知ることができるものであり、今の政治を考える手がかりになる貴重なものだということになる。

そういう目で見直すと、このインタビューのポイントは、鳩山氏の日米関係に対する見通しの甘さや(2月14日付ブログ記事「素人の政治家」で既述)、初の民主党内閣における首相と他の閣僚との無関係のような関係であったり、その関係の有り様から見えてくる民主党そのものの問題性を明らかにしているところにあると思う。

例によって、新聞・TVは、沖縄のアメリカ海兵隊を抑止力とするのは方便だという趣旨の発言だけをクローズアップして、本当は沖縄県民が気の毒だなどとは毛ほども思っていないくせに、沖縄県民に謝罪しろなどのお為ごかしの大騒ぎをやらかしているが、毎度のこととはいえ、困ったものである。

まず、首相と他の閣僚との関係から。鳩山内閣当時、「閣僚の発言はバラバラだった」と聞かれての返答。

「岡田(克也)君は外相当時、マニフェスト(政権公約)に『県外』とまで書かなかったと話したが、民主党が圧倒的な国民の支持を得て政権を中心的につくらせてもらったのだから、党のビジョンはしっかり打ち出すべきだと思った。一致して行動していただきたいという思いはあった。」

「北沢俊美防衛相は、政権交代後、どこまで防衛省の考え方を超えられるか、新しい発想を主張していくかということが本当はもっと勝負だった気がする。」

第1の疑問。

鳩山氏は首相としての指導力をどう考えていたのか。鳩山氏の言葉からうかがわれるのは、一国の最高責任者である総理大臣というより、自分の思い通りに動いてくれない閣僚に対して強く指導するでもなく、こうしてほしいと思ったとか、もっと勝負してもらいたかったとか、まるで他人事のような感想をもらすだけの、なんとも無責任な傍観者の姿だ。

日本国憲法は、衆議院の解散権や国務大臣の任命・罷免権など最高級の人事権と、行政の各部門に対する指揮監督権を内閣総理大臣に与えており、その地位についた人物の政治的力量によっては、強力なリーダーシップを振るえる強い総理大臣を想定していると考えられる。

最近の例では、あの強力なというか強引なというか、そのようなリーダーシップを発揮した人物に小泉某がいる。そのリーダーシップによって実行された新自由主義的な施策は、日本の社会に分裂と格差をもたらした元凶以外の何者でもなかったと、ブログ主は考えているが、日本の首相もやればできるんだということを実証して見せたことは認めなくてはならない。

ところが、鳩山氏は、総選挙での圧倒的な勝利により、首相の座に就いたにもかかわらず、この強力な権限を適切に使った様子が見えない。それが証拠に、彼の言葉からは、一国の最高責任者として国民のために善かれと思ったことを、万難を排して、それこそ首相としての権限を最大限に使ってでも、断固やり抜くという強い意志が感じられない。

普天間移設問題に関しての「反省点は」と聞かれての答え。

「相手は沖縄というより米国だった。最初から私自身が乗り込んでいかなきゃいけなかった。これしかあり得ないという押し込んでいく努力が必要だった。」

なぜ、首相在任当時に、その努力をしなかったのか、今さら、そんな感想を言われても困るのだが。

また、他の閣僚たちも、副首相だった菅直人や、ここに名前の挙がった二人を代表格に、首相に積極的に協力しようとしないばかりか、むしろ、自分が担当する省庁の既得権を損ねないように行動していたとしか見えない動き方をしている。

「外務、防衛両省に新しい発想を受け入れない土壌があったのでは」と尋ねられての返答。

「本当に強くあった。私のようなアイデアは一笑に付されていたところはあるのではないか。本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国との間のベース(県内移設)を大事にしたかった。官邸に両省の幹部2人ずつを呼んで、このメンバーで戦って行くから情報の機密性を大事にしようと言った翌日に、そのことが新聞記事になった。極めて切ない思いになった。誰を信じて議論を進めればいいんだと。」

本人の切ない思いはともかくとして、外務省、防衛省がこのような「政治主導」の「せ」の字もないような体たらくなことについては、一義的には、このような状態を指導改善できなかった、その省のナンバーワンである岡田外務大臣、北沢防衛大臣に責任がある。

結局、「政治主導」をスローガンに掲げた初の民主党内閣自体が、このようなバラバラ状態では、積年の病弊である「官僚主導」を打破することなど、とうていできない相談だったということだ。

そこで、第2の疑問がわく。

歴史的政権交代による初の内閣でありながら、首相は首相で自分が選挙戦で訴えたことを死にものぐるいで実現しようとの気構えをもたず、閣僚は閣僚で首相のいうことなどには鼻もひっかけない有り様であるような、つまりは、基本的な政策について認識の共有ができていない状態の、バラバラでお粗末な内閣しか作れなかった民主党とは、いったい何なのか。

この疑問は、現在進行中の、菅直人は、なぜ「小沢切り」に夢中になるのかという疑問と重なる。

この疑問に対するブログ主の解答は次のようなものだ。

民主党は、「国民の生活が第一」の小沢支持グループと、「金権打破」「カネにクリーンな政治」が大好きなオリジナル民主党グループとの、水と油のごとき異質な集団が、「呉越同舟」する、もともとバラバラな政党だったのだ。野党時代は、政権奪取という目標が、かろうじて両者をつなぎとめていたのだが、政権を獲得した途端に、両者の亀裂があらわになったというわけなのだ。両者は、茶碗の持ち方から箸の上げ下ろしに至るまで、正反対の政治作法の持ち主であり、とくに、オリジナル民主党を標榜するグループは、小沢さんを、カネに汚い政治家が合流してきたが、選挙に勝つまでの我慢、選挙が終わったら、小沢の主張する「国民の生活が第一」なんぞはかなぐり捨てて、あるいは小泉流の新自由主義、あるいはアメリカべったりの奴隷外交など自分たちの好き放題にやろうと考えていたのだ。

「カネにクリーン」、などとはまったく意味のない言葉で、政治にだってカネはかかる。当たり前の話だ。大事なことは、小沢さんが言うように、誰から貰って、何に使ったかをすべて公開して、その善し悪しについては国民の判断にまかせることで、それが「政治とカネ」についての正しい考え方だ。

こう見てくると、鳩山氏のいわば簡易回想録が、はしなくもかいま見せた民主党初内閣の無惨な状況は、偶然でも何でもなく、起こるべくして起こった、いわば必然的な状況だったといえよう。

今現在の「小沢切り」の行方については、この水と油の二つの集団が、やがて別々の二つの政党に分れることになり、さらにそれが、諸政党の再編成を促して、ようやく、それぞれ論理的な整合性をもった主張を掲げる二つの政党の対立関係という、小沢さん年来の主張に近いかたちになると見るのが正解ということになろう。

春秋の筆法に倣えば、鳩山民主党内閣の無惨は、政界再編成の呼び水になることによって、日本に正しい二大政党制をもたらすことになる、ということだろうか。

小沢さんの「処分」を言い募る民主党の恩知らずたち

民主党執行部を牛耳る菅・仙谷・岡田一派が、小沢さんの「処分」を機関決定しようとしている。

小沢さんは、言わずと知れた政権交代の立役者であり、民主党が、今日、政権の座にあるのは小沢さんのおかげである。小沢さんは、前原某が代表をしていたとき、偽メール事件で地に落ちた党勢を盛り返し、民主党の今日を築いた恩人だ。

その、大功績ありの大恩人である小沢さんを、根も葉もないでっち上げの陰謀事件を口実に「処分」し、おとしめようとする恩知らずを、当たり前の感覚をもつふつうの人間は受け入れない。子どもだって、そんなことは分かる。

それなのに、なにを血迷ったのか、菅・仙谷・岡田一派のやりようは理解に苦しむ。このような、人非人の仕業は、早晩、人々の支持を失うことになるので、彼らは自ら墓穴を掘っているようなものなのだが。

朝日新聞を始め大手マスコミが、けしかけてくれることが頼みなのだろうか。そんなものは、鳥の毛ほどに軽く、当てになんかならないのに、バカな連中だ。

さてさて、次の選挙が楽しみになってきた。待ってろよ、菅に仙谷に岡田。