「右手のすることを左手に知らせない」

小沢一郎氏が、年の始めに、地元岩手民主党の会合で、「政治家の仕事は震災被災地のお見舞いに回ることではない。もっと他にやることがあるはずだ」旨の発言をしたという。

TVカメラの前で、被災者を激励するパフォーマンスなんかしている暇があったら、復興のための条件整備、しかも大災害時だからこそ必要な抜本的な条件整備に尽力するのが政治家たる者の務めだろうというわけだ。正論である。いつものことだが、正論を堂々と主張するから、この人は、後ろめたいことをしている一部の政治家や高級官僚、大手マスコミ幹部に嫌われるのだろう。良薬口に苦し。

古来、お見舞い、援助に寄付、支援だボランティアだなどというのは人知れず静かにやるものだと相場が決まっていた。(「陰徳を積む」) それが、近頃では、政治家に限らず、有名人という人種が鳴り物入りで支援だボランティアだとはしゃいでいる。

そんな有様をみていると、「右手のすることを左手に知らせない」という言葉が浮かんできた。ご存じ、キリスト教の『新約聖書』中の言葉だ。

この「右手云々」の前後はこうなっている。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイによる福音書)」

「天にいます父」を、日本風に「お天道様」、中国風に「天」、あるいはインド風に「お釈迦様」としても、そのまま通用するだろう。つまり、善行は、密かに行われるから善行なのであって、「これから善行をやりますよ」と鐘と太鼓でふれ回るものではない。そんなことなら、それは善行ではなく、ただの売名行為、すなわち偽善だ。

災害があると、いっとき支援やボランティアが集中する。しかし、それも半年一年と経つとだんだん減ってくる。災害の教訓も数年は語り継がれる。だが、十年二十年経つと、あったことさえ忘れられるようになる。人の気は熱しやすく冷めやすい。だから、「災害は忘れた頃にやってくる」のだろう。

風水害に地震の常襲地帯にあるこの国で、偽善ではない支援、災害を忘れない教訓は、どうしたら成り立つのか。平凡なようだが、小沢氏の言うごとく、それぞれの人がそれぞれの持ち場でそれぞれの務めをきちんと果たすこと以外にないのだろう。

 

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの『トップ・ハット』の一場面が使われているというので『グリーンマイル』と『カイロの紫のバラ』をDVDで見た。

両方とも、アステアが歌う Cheek to Cheek に合わせて二人が踊るシーンを使っている。Cheek to Cheek は、ご存じ、あの ~Heaven, I’m in heavenで始まる、アーヴィング・バーリン詞・曲の名曲。

『グリーンマイル』は面白かった。

Cheek to Cheekの歌詞そのままに、『トップ・ハット』を天国的な雰囲気をもつ映画として扱い、無実でありながら電気イスによる処刑を目前にした死刑囚にこの場面を見せることで、彼の魂の救済を、ということはつまり映画の観客の魂の救済を図っているようだ。

『トップ・ハット』の製作関係者が(存命なら)この映画を見て、自分たちの製作意図がきちんと理解されたことを納得するだろう。『グリーンマイル』からは、60年も前に作られたこの映画に対する敬意のようなものも感じられる。

『カイロの紫のバラ』はそうではない。

映画のラストで、不器用で夢見がちな、生活に行き詰まった、映画ファンの人妻である女主人公が、夢破れて希望を失いながら入った映画館で見るのがこの場面。はじめはうなだれて沈んだ表情だったものが、流れる音楽に顔を上げ、やがて画面を見つめる瞳に喜びが浮かんでくるという決定的な場面でこの場面が使われているのだが、その使われ方はシニカルだ。映画なんぞという絵空事、すなわち『トップ・ハット』を見て、いっとき、厳しい現実を忘れたって、映画館を一歩外に出ればたちまち元に戻るのだと宣告しているようなのだ。

なんだか、ラストまでつきあった観客、すなわち自分にざーっと冷水を浴びせられた気分である。後味が悪い。『トップ・ハット』をそんな風に使わないでくれと言いたくなる。

そんな風に使わないでくれといえば、『時計じかけのオレンジ』でも、暴行犯人が 『雨に唄えば』の Singin’ in the Rain を口ずさみながら行為に及ぶ場面があったが、あれもいけない。あれを見て以来、Singin’ in the Rainを口ずさむたびに、『時計じかけのオレンジ』のこの場面を思い出してしまう。

ああ、いやだ。

 

『文藝春秋』という骨董品

『文藝春秋』が電車に中吊り広告を出していた。

まだ、こんな雑誌が発行されている(ということは買う人もいる)ということは驚きである。すでにして骨董品のようなものだろう。今、買っておくと、将来値打ちが出るかもしれない。「昔々、2012年という時に、こんな時代錯誤を堂々とやらかしていた雑誌がありましたとさ」とね。(二束三文、「尻の穴を拭くにも使えねえ」と尻を持ち込まれても責任はとれません。悪しからず。)

しかも、そのタイトルがスゴい。いくつかを以下に。

「昭和の終わりと平成の次の世」  「安倍晋三 民主党に皇室典範改正は任せられない」 「嗚呼「同級生」たかが同い年されど同い年」 「公開質問 小沢一郎「全財産目録」」

いいのかね「平成の次の世」なんて言っちゃって。なんだか、平成よ、早く終われと言っているようにも見えるが。そう言われた当事者はどう思うかな。「安倍晋三」。自分になら任せてよとでも言いたいのか、あの無責任ぶりで世界に恥をさらした当人が。ちっとは恥ずかしくないのかね。「同級生」。年齢的なではなく精神的な年寄り向け懐古趣味。「公開質問」とやらは、アノ「田中角栄研究」の柳の下をねらっているのか。古い。2匹目はいないと相場は決まっているのだが。

誰の文章だったか、『文藝春秋』の創始者・菊池寛の不作法な食事ぶりに辟易する場面が出てくるの思い出したが、人が人なら雑誌も雑誌、下品なものはどこまでも下品である。

朝日新聞あるいは新聞・TVの「小沢恐怖症」について

1月9日の朝日新聞社説がネットで話題になっている。

10日にある小沢氏の裁判に関連したものらしいが、ネットの引用をちらりと見る限りでは、あいもかわらぬ「小沢憎し」の一本調子で塗りつぶした文章のようである。

この新聞が、小沢氏をわざわざ社説で狙い討つのは、よほど小沢氏が気になるからに違いない。そうでなければこの新聞が、通常は名もなきものに対してそうしているように鼻も引っかけないだろう。

なぜそれほど気になるのか。

思うに、この新聞は小沢氏なる政治家が一体全体いかなるものであるのかさっぱり分からないのだろう。分からないから気になるし怖い、怖いから闇雲に突っかかる。いや、実のところ、この新聞は小沢氏のことを含め、この世界のことについてなんにも分かっちゃいないのだが、なんについても分かっている振りをするのが習い性となっているので、分からないことについて、分かりませんと素直に謝ることができない。だから、その座りの悪さ、あるいは自信のなさを隠すために、ああも執拗に小沢攻撃に走るという訳なのだろう。

弱い犬がやたらに周囲に吠えかかるのと同じ理屈だ。いや、犬だけではない、人間も同じ。自信のない小心者ほど居丈高になるというのはよくある話だ。

こんな新聞が、何百万部も売れているというのだから、おめでたいというかなんというか。だから、この世の中、いつまでもこんな有様なのだろう。

さて、以上は、たまたま目に付いた朝日新聞についての感想だが、言うまでもなく、他の新聞・TVについても事情は同様である。