『暴君―シェイクスピアの政治学』とドナルド・トランプ

前回の記事『マザーレス・ブルックリン』に続いて、シェイクスピアの話題。副題に引かれて読んだのは、スティーブン・グリーンブラット 河合祥一郎訳『暴君―シェイクスピアの政治学』(岩波新書 2020年)。元本はStephen Greenblatt “TYRANT Shakespear on Politics” 2018。未見。奥付の略歴によると、著者は1943年生の米国の「シェイクスピア研究の世界的大家」だそう。訳文はこなれていて読みやすい。

この本のどこにも、ドナルド・トランプとかアメリカ合州国とかの、現代の人物・事物とつながる具体的なコトバは出てこない。が、しかし、巻末の謝辞で、近々の選挙結果について心配しているとか、食卓で、現在の政治世界にシェイクスピアは異様な関係性を持っているという話をするのを聞いて、家族がその話をまとめるよう勧めた、などと書いているところをみると、シェイクスピアの世界に仮託して、米国の現大統領と米国社会を批判的に分析あるいは風刺したものであることは間違いない。

たとえば、戯曲『ジュリアス・シーザー』に関連して

「古代ローマ人は、考える人よりもむしろ行動の人として偉大でありたいと願っていた。世界制覇を夢見るローマ人は、哲学的探求や、神経過敏な沈思黙考などはギリシア人に任せておけばよいと思っていた。しかし、シェイクスピアは、ローマの公的なレトリックの裏側に、何が正しい道なのかわからずに悩み、どうして行動に駆り立てられるのか半分も認識していないために困惑して葛藤する人々がいることを見抜いていた。しかも、ローマ人は世界という大舞台で動いているため、ますます危険は大きく、その秘められた個人的な動機には、公的な大惨事を惹き起こしかねない強い力があった。」196頁

などは、ローマ人を米国人と置き換えると、現代米国のありさまの説明としてそのまま通用する。「公的なレトリック」とは、イデオロギーのことだろう。つまり、米国社会のイデオロギーに疑うことなく從っている米国人(の多く)は自分たちの親イスラエル反パレスチナの姿勢やイラク戦争などの行動について半分も認識していないために、世界の多くがこうした行動に反発することに困惑して葛藤している。しかも、米国は世界を何回も破壊できる核軍事力を持ち、世界という大舞台で動いているため、大統領ドナルド・トランプの秘められた個人的な動機には、公的な大惨事を惹き起こしかねない力がある、とね。

また、戯曲『コリオレイナス』について

「文明化された国家では、指導者は少なくとも最低限の大人らしい自制心があるとみなされ、思いやりや、品位や、他者への敬意や、社会制度の尊重が期待される。コリオレイナスはそうではない。そうしたものがない代わりに、育ちすぎた子供のナルシシズム、不安定さ、残酷さ、愚かさがあり、それに歯止めをかける大人の監督も抑制もないのだ。この子が成熟するように助けるべきであった大人は完全に欠如していたか、もしいたとしても、この子の最悪の特質を強めてしまったのである。」216-17頁 

主人公コリオレイナスをドナルド・トランプに置き換える。そのまんま。ドナルド・トランプの親御さんあるいは周囲にいた大人たちがどういう方々かは存じませぬが、また人のあり方についてそれらの方々の責任をどこまで追求できるかは議論のあるところではありますが、そうだよな、その方々、いったい何をしてくれたの、あるいはしてくれなかったの、と思いたくはなる。

もうひとつ『コリオレイナス』で、ローマの執政官選挙における大衆的支持獲得の方策として選挙民への御愛想大盤振る舞いについて触れた後で

「政治ゲームにはよくある手だ。生まれついてあらゆる特権を持っていて、自分より下の連中を内心軽蔑していながら、選挙期間のあいだはポピュリズムのレトリックを口にして、選挙に勝ったとたんに手のひらを返すという、あれである。頭を撫で付けた政治家たちが建築現場での集会でヘルメットをかぶるのと同様に、ローマ人たちはこれを因習的な儀式としていたわけである。」223頁 

これなど、わが国を含め”民主主義”を標榜する国々で日常普段に見られる光景だ。

結部で、著者は

「シェイクスピアは、社会が崩壊するさまを、生涯を通して考察してきた。人間の性格を見抜く異様に鋭い感覚を持ち、デマゴーグも嫉妬するような言葉を操る技をもって、シェイクスピアは巧みに描いたのである―混乱の時代に頭角を現し、最も卑しい本能に訴え、同時代人の深い不安を利用する人物を。激しく派閥争いをする政党政治に支配された社会は、詐欺的ポピュリズムの餌食になりやすいとシェイクスピアは見ている。」243-44頁 

ここには、トランプの”ト”の字も出てこない。でもちゃんと読めばわかるという書き方。著者がこの本の冒頭で述べているように、シェイクスピアの時代、体制批判、国王批判は刑罰に直結した。シェイクスピアも、遠いローマや異国に舞台を求めて、同時代の問題を扱っているとは一見してわからないような筆法を駆使した。著者もこのことにならったのかもしれない。だから、現在進行形の政治・社会問題を扱っているキワモノ的な著作にもかかわらず、そういうことを離れて、シェイクスピアのいくつかの戯曲の、ちょっと変化球的な解説本としても読むことができる。うまいものだ。さすが「世界的大家」だけのことはある。

『枕草子』筆者の無神経について

常は客観を宗とする学者・研究者が書く、専門家向けの論文ではない一般向け入門書を読んでいると、時に、その人の本音らしき、ということは客観ではなく主観の文章に遭遇して思わず共感、膝を打つことがある。

さいきん読んだ例一つ。

高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(平凡社 2018年)。日本中世から近世への移行期、おもに庶民が使う小額貨幣の銭に注目して、通貨の使用実態を解き明かした好著。教えられること多し。

で、本題。

近世以前、しばしば銭の流通量が不足して人びとが困ることがあった。そのようなときには、銭に変わるものを工夫して使った。たとえば紙。平安時代にすでに紙媒体を交換手段のように使うことがあったという文脈で『枕草子』294段が登場する(同書53頁)。 

もらい火で自宅を焼失した貴人ではない男、すなわち庶民がその悲惨を愚痴った言葉尻を捉えて、『枕草子』筆者を含む官女たちがからかう。『枕草子』筆者はその言葉尻を、自慢気に掛詞などを駆使した歌に仕上げ短冊に書いて男に投げ渡す。男は文字が読めないので、これでなにかもらえるのかと尋ねる。「教養エリートならではの差別意識がうかがえる…このエピソードは、縦長の長方形の紙片といえば、なんらかの財と交換できる証券であることを、文字を読めず、和歌を理解する能力を持たない人でも知っていたことを示している。いいかえれば、せせら笑う清少納言の態度とは裏腹に、短冊型の紙片はどういう用途で使うものなのかを広く庶民が知っていたことを、私たちに教えてくれる。」

火事という災厄にあって嘆いている庶民の男に同情するどころか、些細な言葉尻をあげつらってからかいの対象にし、あまつさえ姑息な技巧の作歌をひけらかす『枕草子』筆者およびその所属階級の無神経や傲慢さに対するこの本の著者の憤りが伝わってくる一節だ。庶民である自分もこの憤りを共有するし、つくづくこんな時代に生きていなくてよかったと思う。ついでに言っておくと、この『枕草子』というモノ、古典として教科書にはかならず載っているけど、こんな小賢しい無神経な人物の文章をこうなってはいけないという反面教師としてならいざ知らず、学校教育で随筆文学の白眉だなどとマジに取り上げるのはいかがなものか。

兵站、あるいは舞台裏の準備の大切さについて

村井章介『分裂から天下統一へ シリーズ日本中世史④』(岩波新書 2016年)を読んでいたら、秀吉の小田原攻めについて以下のような言及があった。「小田原陣における秀吉軍の勝利は、動員した兵力の差もさることながら、その兵力を支える物資の徴発と輸送、すなわち兵站の能力の圧倒的な差によるところが大きい。」(118頁)

これで、勝海舟(官職名が安房守)の談話速記『氷川清話』(江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫 2000年)のなかに、この当時のエピソードがあることを思い出した。(227-228頁)

江戸城無血開城後、旧旗本8万人を静岡に移すことになった。1万2千戸しかないところにその人数なので、勝自身も農家の間を奔走し、ひとまず「みなのものに尻を据ゑさせた」。このとき、「沼津の山間で家作もずいぶん大きい旧家があったが、そこへ五十人ばかり宿(とま)らせて」、勝もともに一泊した。すると、その家の七十歳あまりの主人が挨拶に出て、じぶんのところは旧家だが、貴人を泊めるのはこれで二度目だと。勝が仔細を尋ねると、一度目は「本多佐渡守様」で、「太閤様小田原征伐の一年前で、明年こゝへ十万の兵が来るから、あらかじめ糧米や馬秣(まぐさ)を用意をするために小吏では事の運ばぬを恐れてか、本多様は自分でこゝへ御出になったのだといふ」と。これがあったので、周辺の者が十分に米を貯えておいたため、十万の兵が来てかえって米価が下がった。さらに、このあたりの海岸は常は波が荒いのだが、糧米を陸揚げする日は天気もよく波も穏やかで、以来、当地では風波の平穏なのを「上様日和」というようになったとも。

この本多佐渡守、三河の一向一揆の際、一揆側に組みして家康に敵対、一揆敗北後、諸国流浪を経て帰参、草創期徳川幕府の重役(年寄、のちの老中)に抜擢された、あの本多正信その人。舞台裏で、要所要所を、然るべき人物が然るべく押さえてはじめてイベントは無事成就するという教訓話。

75年目の天皇の国民向け敗戦告知ラジオ演説の日

「玉音放送」などと呼ばれている、天皇の国民向け敗戦告知ラジオ演説が行われて今年で75年。おこなわれるであろう関連式典のTV中継など見る気は寸毫もないし、関連”ニュース”番組なども見ないので、ここから先は推測。

また、例によって、総理大臣が平和と繁栄はあなた方のおかげですという内容の式辞とやらを述べるのだろう。

それって、あの戦争で亡くなった人々への侮辱だよ。

無数の死者、敗北、その結果生まれた現憲法。押し付けだろうとなんだろうと、この憲法があってはじめて平和と繁栄があったのだよ。ところが、現行憲法を毛嫌いして、明治憲法のようなものに変えたがっている勢力代表の総理大臣が、その明治憲法体制下で行われたあげくに負けた戦争の犠牲者に哀悼の意を捧げる資格なんてあるのかよ。

あるわけないだろう! 

誇り高き人々

金文京『漢文と東アジア』(岩波新書 2010年)を読んでいて教えられることがあった。

中国を指す「震旦」ということばは、古代インドのことばのCina-sthana(iと2番めのaは長音記号付き)の音訳で、Cinaは秦帝国の秦、sthanaは場所の意だという(同書140頁)。

これでもじゅうぶん教えられたのだけれども、もっと教えられたのが次のこと。

「震旦」という漢字が当てられたについて、唐代になってから、「震」は『易』の八卦では東に当たり、「旦」は朝だから、インドから見て朝日の登る東の方、すなわち中国のことだという「一種のこじつけ」がおこなわれるようになった。ふーん、なるほど。

さらに、朝鮮では、その中国より東にあり、しかも震旦の旦は朝だから、朝の字を含む朝鮮のほうが震旦にふさわしいという超こじつけが行われるようになったというのだ。うーむ。

これを、身のほどを知らない狭量な精神の発現と笑うことはたやすいが、しかし、自分は違う考えを持った。

巨大な文明のすぐ近くに、しかも地続きで、連綿と共同体を維持し続けてきた人々が、自分たちが自分たちであるという自己同一性(英語で言うアイデンティティですな)を保つにはどうすればいいか。役に立つなら、猫の手でも借りたいということではないか。そういう必死な保身の流れのなかで、「震旦」は朝鮮なりというこじつけをしたとしても、誰がそれを笑うことができよう。

自己同一性を保つ努力のことを、誇りを保つことと言い換えてもいいかもしれない。つまり、かの半島の人々は、これほどにも誇り高い人々であるということだ。

その誇り高い人々に、近い過去、日本列島弧に住むわれわれは、「創氏改名」などというとんでもないことをしてしまったことを忘れてはいけない。

第二次世界大戦の敗戦後、われわれを軍事占領下に置いた勝者である連合諸国が、創氏改名を押し付けていたとしたらどうだっただろうか。田中一郎ではなくてBob Fieldsとか、鈴木太郎ではなくJohn Bellsと。屈辱ととらえて雪辱を誓ったのか、それとも、現下のコロナウィルス禍における振る舞いのように、進んで同調し受け入れて、従わない人を自粛警察と称して迫害したのだろうか。

米国憲法前文の精神

直前の記事で、現職の米国大統領が、国民間の分断も辞さないという強硬な言動を重ねていると書いた。分断とくれば団結とか統一。そうだ、米国の憲法に統一がどうしたとかの文言があったな。調べた結果が下記。前文にそれがあった。

We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America. (米国National ArchivesのWebページからコピー)
われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に 備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。(AMERICAN CENTER JAPANのWebページからコピー)

注目は”to form a more perfect Union”のところ。”Union”が大文字で始まっているので特別な意味があるとして日本語では”連邦”としたのか。しかし、小文字で始まる普通名詞の”union”は結合、団結、一致、調和となる。つまり、大胆に解釈すれば、団結一致のために憲法を制定した。しかも、独立戦争という多大の犠牲を払って、ということ。そう考えると、憲法の精神に反するような分断をあおる行為を重ねる大統領というのはそもそもなんなのかということになる。しかも、大統領はもちろんのこと、米国で公職に就く人はすべて、憲法を擁護する旨の宣誓をしているはずだから、憲法擁護義務違反ということにもなる。大統領が憲法違反?!

してみると、今現在、太平洋の東はるかの国で起こっていることは、前代未聞、空前(絶後になるかどうかはわからない)の異常事態と考えねばならない。なにしろ彼の国は、国力全般については全盛期に比べれば力が落ちたといえ、いまなお史上最大の破壊力を装備した軍隊を持っている。その破壊力が、混乱状態の中でひょっとしてひょっとしてしまったら… クワバラクワバラ。この上は、彼の国の混迷が、地球規模の騒乱の引き金にならないことを願うのみ。

米国は第2次南北戦争状態?

現在の米国大統領は、伝えられるもろもろのふるまいからして、ほとんどもっぱら、地理的に中部南部の、所得階層的に中層以下の、人種的に白色系の、宗教的にキリスト教プロテスタント保守派の、必ず投票に出かけ自分に投票するという意味での強固な忠誠心を持つと彼が考える米国民に向けてのみ、語りかけているように見える。

これは、分断をも辞さないという意志の現れと判断して差し支えなかろう(他国の元首に対してはなはだ失礼ながら、彼が、そもそも、まとまった意思というものを持っているとして)。すると、彼は、日本語では南北戦争、米語ではAmerican Civil WarもしくはThe Civil War、つまりは市民どうしの戦いすなわち内戦の引き金を自ら引くことを想定しているのだろうか。

前回の内戦勃発時の大統領は、リンカーン。名分は奴隷解放。今回、それが起こるとして、大統領はあの人。そして名分は?

78年目の対米・英開戦の日

先日、この日を意識しないでたまたま、映画「トラ・トラ・トラ!」を見た。

黒澤明もかかわった脚本は、真珠湾攻撃に至る過程を、細かいエピソードを重ねて、順に追っている。20世紀フォックス制作、ということはハリウッド映画だが、日本側の不意打ちというより、むしろ、米国側の対日軽視からの油断を攻撃成功の要因として描いている。だから、米国では観客動員が伸びなかったのだろう。米国民にとって、卑怯なだまし討のジャップではなく、突然目の前に現れた日本軍機の攻撃の前にぼうぜんとする米軍最高指揮官を見せられてはいい気持ちはしまい。

真珠湾の米海軍根拠地を破壊するというような目的が明確で限定的であるような場合には、わが同胞は素晴らしい団結力と創造力を発揮する。

しかし、世界史的な大状況の中で、それらの目標の追求が、われら日本国民の幸福と安全にどのような意味と効果を持つかというようなことについては、理解し制御するのが不得手であるように見える。

たとえば、開戦後数ヶ月間のいくつかの局面においては戦術的成功すなわち勝利を収めたが、数年後にはそんな勝利をはるかに上回る戦略的な大敗を喫した。その上、有史以来の外国軍による長期間の占領、その後現在に至るまで続く不平等条約状態(在日米軍基地をめぐる日米地位協定)の存続までがついてきた。また、戦後復興から高度成長を経て、1980年代の”経済大国”への到達するまでは、誰もその目標を疑うことなく創意工夫を重ねて ”Japan as Number One” とまで言われるようになった。しかしそれもつかの間、80年代が終わる頃から、目標を見失ったというか、手にした富をどうしたらいいのか途方に暮れとでもいうのか、埒もない米国の不動産などを高値でつかまされ、挙句の果てにバブル崩壊と今に続く低迷というか自信喪失状態。

今、好むと好まざるとにかかわらず、東アジアの覇者は、中国であって日本ではない。かつて”Japan as Number One”と持ち上げられた状態から、昨今の、相対的な地位低下を迎えつつある先の見通しの立ち難い状況にあって、わが同胞は漠然とした不安と、この、急成長を遂げた隣の超大国への嫉妬と嫌悪のないまぜになった感情を抱きつつあるように見える。”嫉妬”は自他を滅ぼすこともあるやっかいな感情だ。このすこぶる付きの手強い感情をわれら日本国民は上手にコントロールして、それなりの繁栄を、隣の国々との平和な関係を築きながら、維持していけるだろうか。そうではなく、米国に強度に依存することによってのみ、現在の状態を維持し続けようとするのだろうか。わが同胞の多くは、自公政権に多数議席を与えることによって後者の選択を支持しているように見える。だが、その選択が、78年前のそれのように、狭い範囲の戦術的成功ではあるが(それすらも怪しいものだ思うが)、大きな状況の中での戦略的失敗にならないとは限らないことをどれだけの人が理解しているだろうか。

2019年10月22日のNHK・BS番組

NHK・BSで1998年の映画「仮面の男」をやっていた。

元ネタはデュマの『ダルタニアン物語』。
ルイ14世、実はダルタニアンと前王の王妃との間にできた双子の一人で、鉄仮面はその弟というブルボン王家のゴタゴタ話。
『王子と乞食』のような取替っ子の話でもあり、王家の道徳的堕落(表向きは”姦淫禁止”の十戒が基本戒律の(はずの)カトリック教守護者を任じながら、実は…。)の話でもあり、訓練しだいで王のフリをすることは難しくないという話でもあり、王制の非合理を皮肉っているとも解釈できる映画。

つづいてBSの街歩き番組。
パリの13区、ビュット・オ・カイユla Butte-aux-Cailles、パリ・コミューンの故地の紹介。そこにはパリ・コミューン広場もある。ちらっと見せていた。歩道のカフェで、作詞者によってコミューン当時の同志の女性に捧げられた「さくらんぼの実る頃」を歌う老人男女カップル二組、その一人の男性が「恋と革命はいつも敗れるのさ…」と。彼らはコミューンの記憶を留めている。
壊れた家電製品を再生することを学んで、ドロップ・アウトした高校生を再度軌道に乗せる 都立高校のエンカレッジスクールみたいな 学校が出てきた。この手の問題解決への模索は洋の東西を問わないな。

日本王家の めでたかるべき 代替わり式典当日に、王制への皮肉とパリ・コミューンにかかわる番組を放映する”みなさまの公共放送”NHK。少数派であろう王制を支持しない国民に配慮して、代替わり祝賀一辺倒ではなく、あえてそのような編成にしたのか。まさかね。

70年目の東京大空襲

70年前の今日、1945年3月9日の深夜から翌10日未明にかけて、現在の墨田区・江東区・台東区・中央区を中心に、当時の敵国・アメリカ合衆国軍の爆撃機編隊が大量の焼夷弾を投下した。これによって当該地域では大火災が発生し、非戦闘員である一般市民約10万人が亡くなった。いわゆる東京大空襲である。

亡くなった方々の大半は、なぜ自分たちがそのような死を迎えなければならないのか理由がわからないまま亡くなったに違いない。非業の死である。無念思うべし。

とくに子どもたち。戦争がはじまり、爆弾が空から雨あられのように降ってくる事態に立ち至ったについては、まったくもって責任がない彼らの非業の死の責任はだれがとるべきなのか。

誰が、どんな理屈をつけようが、ほとんど一瞬にしてそのような責任のない子どもたちを含む10万人にも及ぶ非戦闘員の死者をだすような戦争を始めることを正当化することはできない。

いや、死者の数は問題ではない。およそ戦争なるものは決して正当化できるものではない。誰か戦争を正当化しようとする人がいるならば、その人は、戦争によって利益を受ける輩なのであるか、あるいは無知蒙昧の輩であるのかのいずれかであろう。

この世に正しい戦争も正しくない戦争もない。戦争は理由の如何にかかわらず悪である。あの夜、無念の死を死ななければならなかった人々のことを思うならば、今、生を享けているものは皆、すべての戦争に反対し戦争への動きに抵抗しなければならないはずである。

この自戒および他戒の念を、70年前の今日、無念のうちに亡くなった人々へのせめてもの手向けとして書き記す。