デヴィッド・ヒュームあるいは付和雷同の不可なることについて

 ところで、デヴィッド・ヒュームDavid Humeという18世紀英国のというよりスコットランドの哲学者がいます。日本では『人間本性論』と訳される”A Treatise of Human Nature”が主著で、これは経験論哲学の体系的論述ですね。アダム・スミスやルソーと同時代の人物。スミスとは親しい友人で、ルソーの数少ない理解者でありヨーロッパ半島に居場所のなくなったルソーをブリテン島に招き庇護するも、ルソーの狷介さゆえに仲違いしてしまうというエピソードも。
 そのヒュームをなんでひっぱり出したかというと、昨今の世相をかんがみるに、この島の我が同胞のみなさんをはじめ、この惑星の多くのみなさんが、「多数者が少数者によりやすやすと支配されているあのたやすさと、ひとびとが、彼らの意見や情念をすなおに彼らの支配者のそれに従わせているあの一も二もない盲目的なすなおさ(implicit submission)ほど驚異的に思われるものは」ないと、この哲学者が慨嘆しているのが頭にあったからです。これ、主著とは別の『政治論集』(上の文は小松茂夫氏が原題の”Political discourses”を『市民の国について』と訳した岩波文庫版から引用、同書(上)226ページ)の一文。270年前の文章ですが、いま、この世界についての文章ですよと言われてもなんの違和感もないのではないでしょうか。
 で、みなさん、すなおに支配されて盲従する挙句の果てになにがおきるかといえば、語るも無惨なカタストロフィでしょう。「歴史は繰り返す」とか「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とか「災害は忘れた頃にやってくる」とか、この手の格言は掃いて捨てるほどありますが、ということは人間は開闢以来、同じことを何度でも繰り返す懲りない連中なんだという真理を言い当てているからなのでしょうね。もっとも、あの皮肉屋マルクスは「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とつけ加えるのを忘れませんでしたが…
 今日は梅雨前の貴重な晴れ間、洗濯物を干して清々しい気分になったところで、ああ、こういうなんでもないような日常が、やがてくるかもしれないカタストロフィの前では消し飛んでしまうのかと”妄想”したものですから、なんとも悲観的な言葉を連ねてしまいました。許されよ。