海老蔵は未成年者か?

海老蔵が深夜、泥酔し、見知らぬ男たちに殴られ重傷を負ったという。

そこへ、実父の団十郎が記者会見し、息子の不始末を詫びる一幕。

事件の夜になにがあったのか、それをここで問題にしようとは思わない。そっちのほうはマスコミがいやというほどやってくれるだろう。

ブログ主が不思議に思うのは、未成年者じゃあるまいし、なんで息子の不始末に親を引っ張り出すのか、ということだ。

海老蔵はいくつだったか。30を越えていたのじゃあないか。女房もいるんだろう。ちゃんとした仕事もある一人前の男だ。大人だろう。

未成年者なら仕方がない。親には保護監督責任があるのだから、子どもに代わって「世間様」に頭を下げなければならないだろう。

だが、大の大人で女房もいる。本人が人前にでられないほど大変なことになっているなら、そんなときこそ奥方の出番なのではないか。取り込み中に、まあご苦労さんだがしょうがない、なにしろ江戸歌舞伎を背負って立つ市川宗家の御曹司の奥方でしかも素人じゃあないわけだから、その程度のことはすぱっとやりきらないと。

ところで、海老蔵の場合に限らず、大の大人であっても、なにかあると当の本人ではなく親が引き出され、詫びの一言を言わされることがままある。

いったいこれはどういうわけなのか。

つらつら考えるに、どうもわれわれの社会では、人がいくつになっても自立した個人として、つまり本当の大人として行動することを許さない風があるからのように思える。つまり、たとえ成人であっても、保護者の監督下にある未成年の子ども扱いなのだ。

そんなわけだから、人が、本当の大人として独立独歩の人生を歩もうとするときまってなんらかのブレーキがかかる。その多くは、「世間が許さない」とか「世間を騒がせてはいけない」とか「世間体が悪い」などという形をとる。

こんなことを子どものときから繰り返し刷り込まれていれば、ほとんどの人は、海老蔵の不始末に団十郎がでてきて「世間様をお騒がせして申し訳ない」と頭を下げてもなんとも思わなくなる。

それどころか、世間様の前で頭を下げないと「いったい団十郎はなにをしているんだ」と逆に非難するようにもなる。

これを政治の世界に移して考えると、本当は主権者(大人)のはずの国民は、いつまでも主権者(大人)扱いされずに、誰かの保護監督下にあるという不思議な現象にいきあたる。

国民が主権者として自前の判断と責任で行動しようとすると、その誰かさんから「待った」がかかる。日頃から、自分の判断で行動することにブレーキをかけられ続けている国民は、そういうものかなと妙に納得してその「待った」の声に深い疑問を持たない。

こんな調子では、国民が主権者(大人)として自立していることを大前提とする民主政治がうまくいくわけがない。

昨今のわが国の政治的混迷は、実のところ、われわれ国民が主権者(大人)として自立していない、自立させられていないというところに原因の一つがあるのではないか。

わが国に民主政治を根付かせるための肝は、主権者(大人)がちゃんとした主権者(大人)になることだ。

と、まあ、大見得を切りましたが、なにしろ、やがては市川宗家を継ごうかという海老蔵がことの発端ですからしてこうなるのも当然といえば当然か。

役人と学者

日曜日の朝、気象情報を確認しようとNHKを見たら、「日曜討論」をやっていた。テーマは半島情勢らしい。

外務省の役人上がりの外交評論家、自衛官から外務省に出向してそのまま役人になった人物、それに大学の先生の3人の顔が見えた。その他にもいたかもしれないが、すぐにデータ放送に切り替えそのままスイッチを切ったので詳細はわからない。

役人に先生。まじめな人たちなのだろう。まじめなのだろうが、しかし、自分の名前で最終的な責任をとる経験をしたことのない元役人と、まあ、失礼ながら浮き世離れした研究の世界の住人の学者先生。その彼らが、すぐ隣の二つの国家が砲火を交えて対峙しているというこの緊迫した状況の中で、半島情勢をなにやら「討論」し、それを国営放送が全国放送する。

戦争に負けてから60年余。すっかり独立国としての矜持を失ったわが太平の日本国。隣国の不幸に際して、内閣総理大臣は自己の不始末を糊塗する千載一遇の好機とはしゃぎ、国営放送は元役人と学者先生の長閑なことば遊びを垂れ流す。

ナイーブというかウブというか免疫がないというか、いわゆる指導層がこんなていたらくでは、一般国民はどうしたらよいというのだろうか。こんなところへ、隣国に砲煙が上がったことをいいことに排外的で偏狭なナショナリズムを煽るような人物が現れたらどうなるか。国家の進路が危うくなるような流れにならないとも限らないではないか。

こんなときには、小学生の避難訓練の合い言葉「おかし(押さない駈けない喋らない)」ではないが、いたずらに危機感を煽る動きを、押し進めない、関わらない、シカとするというのを肝に銘じるのがよろしいのではないだろうか。

内閣総理大臣と国営放送の幹部諸氏よ、小学生に学ぼうではないか。

菅伸子氏の演じた茶番

先の、民主党代表選最中のこと.

菅直人氏の配偶者である菅伸子氏は、「首相になって、まだ、たったの3ヶ月ですよ。もう少しやらせてくださいよ。駄目だったら、私が辞めさせますから。」と言いながら、永田町の議員会館を回り、支持を訴えたそうな。

こういうのを茶番といいます。

一国の最高責任者の進退を、その配偶者が決める?

あり得ないことです。

この話、夫と妻を入れ替えると滑稽さがよくわかります。

例えば、イギリスのサッチャー氏とその配偶者。

夫のデニス氏が、保守党党首選で、「うちのマーガレットが不始末をしたら私が辞めさせる。」と言ったらどうなるか。

かの国では、後の世まで末永く語り継がれる笑い話となることは間違いないです。

現下のわが国の最高責任者は、こうした茶番劇のあげくにその地位を得たわけです。

しかも、いと見識高き、わが大新聞の論説者並びにTVコメンテーターがこれを問題にしない。

困ったものです。

アナウンサーの品性

データ放送で天気予報を確かめるため偶々見た、今朝のNHKニュース番組、大リーグ情報を扱ったコーナー。

折れたバットが胸に当たり怪我をした選手が苦痛に顔をゆがめている映像にかぶせて、アナウンサーがそれを茶化す駄洒落を口にして相方のアナウンサーと楽しそうに笑った。

人が痛い思いをしているのに、同情するどころか、笑いものにする無神経。

どういう育ち方をしたのだろうか。親の顔が見たいものだ。

人気稼業のアナウンサーのことだから、それなりの学校を出ているのだろうが、いったい何を学んできたのか。

この人たちは人生をもう一度最初からやりなおした方がよい。

日本の刑事裁判の不思議

先日、保護責任者遺棄致死罪に問われた某芸能人に対する一審判決がでました。

判決内容については言及しませんが、ブログ主が、またかと思ったのは判決文の次の一節です。いわく「微塵も反省の情が見られない。」

思わず噴き出してしまいました。裁判官は刑事裁判がどういうものか分かっているのでしょうか。

裁判では告発人(刑事裁判の場合は国家でその代理を検察官が務める)と被告発人(刑事裁判の場合は被告人)は対等の立場で、事実の認定(及びその事実の認定の根拠となる証拠の証明力)をめぐり争います。あくまで両者は対等なのです。そして、言うまでもなく有罪判決が確定するまでは無罪なのです。ですから、被告人の側が争われている事実に関して多少なりとも異議があれば、抗弁するのは当たり前なのです。

その、被告発人として当然の防御権を行使することをとらえて、反省のかけらもない、などとお説教され、あまつさえ量刑の情状酌量で不利にカウントされるのではたまったものではありません。このことを大メディアをはじめ誰も問題にしようとしないのは摩訶不思議と言うほかありません。

判決は認定された事実に基づいて相当とされる刑罰を言い渡せばよいのであって、公判の過程に於ける被告人の対応 について道徳的お説教をする必要はまったくありません。いわんやそれを情状と称して量刑に組み入れるなどもってのほかです。

思うに、裁判官のこの発想は、江戸の昔のお白洲裁きから少しも変わっていないのかもしれません。法廷に引き出されて来たのは、すでに町方役人による拷問ありのキツーイ取り調べで「おそれいりやした。」と自白済みの極悪人、有罪の結論は見えており、後はどう懲らしめるかが問題なだけ、というあのTVでおなじみの大岡越前あるいは遠山の金さんをなぞっているだけという感じがしないでもありません。

とにかく司直の追究対象になったら、 もうそれだけで有罪確定扱い、「恐れ入りました」とたとえやっていなくとも素直に謝らなければ、どこまでも「説明責任」とやらを振りかざして叩き続ける何処かの国のマスコミと、日本国の裁判官諸氏は、こりゃ~、気脈を通じているんでしょうかいネ~。オット、お後がよろしいようで…

厚労省元局長への無罪判決と新聞の終焉

昨日、大阪地裁で、厚労省元局長に対する郵便不正事件の判決公判があり、大方の予想通り無罪判決が出ました。ネットでも、従来の大手メディアでも報道、評論が盛んです。

ところで噴飯ものなのは、今日付けの朝日新聞の社説です。

「特捜検察はかつてロッキード事件やリクルート事件などで、自民党長期政権の暗部を摘発した。政権交代が可能になったいまでも、権力の腐敗に目を凝らす役割に変わりはない。

冤罪史は「自白」の強要と偏重の歴史である。今回の事件もその列に加わりかねなかった。

検察は、これを危機ととらえねばならない。弁護士や学識経験者も加えた第三者委員会をつくって検証し、取り調べの可視化などの対策を打つべきだ。それと ともに報道する側も、より客観的で冷静なあり方を考えたい。」

「政権交代が可能になったいまでも、権力の腐敗に目を凝らす役割に変わりはない。」という認識は間違っています。特捜検察が政治家案件を扱う意味が多少なりともあったのは、お説の通り、長期間政権交代がなかったという特殊事情下においてのみであり、まさに、政権交代が可能となった現在では、政治家の有り様を含めて政治の有り様を決めたり権力の腐敗を監視するのは検察当局ではなく、主権者国民と、選挙におけるその投票行動です。いまだに特捜検察に権力の監視役を求める朝日新聞社説の発想は時代遅れといわざるを得ません。

また、「冤罪史は「自白」の強要と偏重の歴史である。」というその歴史に加担してきたのはどなたでしょう。検察当局のリークに頼り、検察の捜査対象はすなわち有罪であると決めつけるかのような報道を繰り返してきたのは、朝日新聞をはじめ既成のマスメディアの皆さんではないのでしょうか。

「検察は、これを危機ととらえねばならない。」とおっしゃるが、ここは「検察」ではなく、「朝日新聞」としたほうがよろしいのではありませんか。朝日新聞を含めて、従来の大手メディアが陥っている、予断や憶測を交え、事実に脚色を加えるという取材・報道の基礎を忘れたかのような振る舞いを自分たちの危機ととらえられないのは、もはや民主社会における報道機関としての新聞の末期症状かもしれません。

田中正造は「危機を危機ととらえられない、これを危機という。」という趣旨のことを述べていたと思いますが、朝日に限らず、大手メディアはまさに危機を通り越して崩壊状態にありますね。