映画『天才作家の妻 40年目の真実』

英語原題The Wife、2017年製作、日本公開2019年。以上データはウィキペディア。

主題は、私見では、米国のノーベル賞受賞作家とその妻の共依存関係のようなものの描写。いちおうサスペンス映画という枠付のようなので、あらすじなどには触れない。評判などはウィキペディアやDVDのアマゾン評で。

出演の役者さんたち、グレン・クローズ、ジョナサン・プライス、クリスチャン・スレーター、ほか、脇役の皆さんも上手い。グレン・クローズ扮する作家の妻の若いときの役で本人の実子アニタ・スタークが、作家夫妻の成人した息子役でジェレミー・アイアンズの実子マックス・アイアンズが出ている。最近の映画企画にはリメイクが多いと思ったら、役者さんもリメイクか。

原作小説は読んでいないので、映画だけではわからない深い意味があるのかもしれないが、自分にとっておもしろかったのは、ノーベル賞授賞式典の舞台裏。そいうえばそうだったが、物理学賞などの他の受賞者と同時に並んで授与されるのですね。その中に経済学賞の受賞者も。

だいぶ前に、経済学賞について調べたことをまとめたことがある。この賞、正式名称は、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞という。この賞が始まるとき、アルフレッド・ノーベルの遺族はノーベル賞の意義に似合わしくないとして反対したそうだ。そりゃそうだよ。ダイナマイトは誰がなんと言おうとダイナマイトだけれど、経済学という社会科学は、誰がなんと言おうと科学であるというふうには科学であることはできない。数百年あるいは数千年後までも、日食の観察できる時間と場所を正確に予測できる物理学の意味で(もっともそれを観察する人間がその時に存在していればの話だが)、経済現象を予測することはこの”科学”にはできない。だってそうでしょう。たかだか数年先のリーマン・ショックすら予測できなかったんだから。それを予測したことを評価されてこの賞をもらった人っているんですか。

この映画の式典リハーサル場面を見ながら、そういうことを思い起こすと、この映画は別の主題、ノーベル賞について、なかでも文学賞とか経済学賞とかについて、それっていったいなんなのよという疑問を提出する映画とも見えてくる。監督さんはスウェーデンの人らしいからまさかとは思うが、ノーベル賞というもの自体、さらに言えばそもそも人間が人間を評価する賞というものについて、この監督さんは疑問を投げかけているのかもしれない、と思う。

ノーベル経済学賞という嘘

ノーベル経済学賞というものは嘘である。

物理や医学の分野のノーベル賞とは似て非なるものである。

少なくとも物理学や医学の分野では、授賞対象となった発見や発明は、検証可能であり、どこにおいても再現可能なものとされているはずだ。

しかし、経済学賞というものはどうか。授賞対象となった学者の仕事が、検証可能であり、どこにおいても再現可能なのか。授賞対象の経済理論が地球上のいかなる場所でもあまねく適用できるものなのか。

そんなことはあり得ないだろう。

そんなものに物理学や医学の分野と同じような名称の賞を与え騒ぎ回る。いったい何のため?

思うに、これは、経済学賞の授賞対象である近代経済学なる虚構に、あたかも物理学上の発見などと同等の普遍性を偽装したいがためのトリック、すなわち詐欺的行為である。

そんな詐欺にまんまと引っかかって、というか、この詐欺的行為のお先棒を担いで、お祭り騒ぎを繰り広げる日本のマスコミのバカさ加減。

ちなみに、ウィキペディアによると、この賞の正式名称は、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞というらしい。なるほど、銀行が出す賞ということですね、それならよく分かる。まさに名詮自性ですな。

 

 

近代経済学という虚構

近代経済学というものがある。

社会科学分野の中ではもっとも自然科学に近い、ということは数学化の進んだ分野であり、科学としての制度化が進んだ分野であるとされている。

確かに外見的には、アカデミズムの中に確固とした足場をもち(理科系単科大学以外のほとんどの大学には経済学ないしその関連学科の学部がおかれている)、標準的な教科書があり、多数の関連学会を擁し、専門誌への投稿の多寡などに基づく業績評価システムが確立しており、おまけにノーベル賞まである一大領域を形成しているように見える。

しかしこの近代経済学なるもの、物理学や化学、生物学などの自然科学と同様な意味での科学といえるものかどうか、はなはだ疑問だ。ブログ主の見るところ、それはせいぜい、経済事象を事後的に統計処理することで、あのとき起こっていたことはこんなことでした程度の解説がようやくできる講談のようなものでしかない。

量子力学のようなものはさておき、少なくともニュートン物理学に代表されるような自然科学であれば、いついかなる場合であっても妥当する法則を見いださなければならない。そのような法則であれば、日食がいつ起こるか正確に予測できるように、ある条件があればある結果が必ず起こることが予測できるはずだし、可能であれば(条件を変えることができれば)人間の望むとおりに結果を変えることができるはずである。

しかしながら、近代経済学なるもの、いかなる意味においてもそのような法則を発見したことはない。それが証拠に、リーマンショック以来、世界の大多数の人々は経済の混乱により塗炭の苦しみを受けているが、この混乱と苦しみを避けるための予測なり、予防策なりを何ら示すことができなかったではないか。

やっていることといえば、ことが終わった後で、あと知恵よろしくリーマンショックは斯々然々のプロセスで起こりました、はい、さようなら、という人をばかにしたようなことだ。

ところが、世間では、こんな講談まがいの近代経済学の専門家と称する連中がしたり顔で、財政健全化のためには増税するべしとか、市場の自由にまかせておけばうまくいくのだから万事放任がよろしいなどと世迷い言を繰り出す茶番。おまけに、世の人々はそれを、偉い学者先生の言うことだからと鵜呑みにして担ぎ回る始末だ。

経済学の経済とは、経世済民のことだと昔教わった記憶がある。であれば経済の学を名乗る以上、経世すなわち世を治め、済民すなわち民を安んずることを究めるのが任務のはずなのだろうが、どうもこの近代経済学なるもの、そんなことはとうの昔に忘れ果て、難しい数式を使ってなにやら科学をやったつもりになり、挙げ句の果てにノーベル賞なんぞというものをやったりとったりして自己満足にふけっている、困ったチャンたちの観念遊戯のようだ。

本日の結論。近代経済学者なる連中の言うことは、眉に唾して聞け。