旧約聖書「出エジプト記」は、人間ドラマに満ちている。これを読んでいると、有史以来、数千年にわたって、人間は変わっていないということが分かる。
「出エジプト記」は、モーゼが、エホバの召命を受けて、エジプトに捕らわれていたユダヤ人をパレスチナに連れ戻す話だ。
というと、話は簡単だが、読んでいくと一筋縄ではいかないややこしい話に満ちている。例えば、「モーゼがエホバの召命を受けて」と書いたが、召命を受けてモーゼが実際に動き出すまでがさあ大変だ。モーゼは、最初は騙されているのではないかと疑い、騙されているのではないと分かってからも、困難な役割に尻込みし、ためらう。
やっと重い尻を上げて動き出し、エジプトに着いたものの、肝心のユダヤ人はモーゼのいうことを信用しない、やっとのことで説得し、連れ出すことに成功したはいいが。こんどは脱出行の途中で、まあ、平たく言えば、やれお腹がすいただの、喉が渇いたからジュースをよこせだの、文句たらたら、挙げ句の果てに、モーゼがちょっと目を離した隙に、エホバならぬ金でできた羊(だったと思いますが、間違っていたらご免)を拝み始める始末。
つまり、旧約聖書では、モーゼにしても、いわゆる毅然として揺らぐことのないリーダー像とはほど遠い、悩み多き迷える人物だし、一般民衆も、目先のことしか考えず、得になることには真っ先に飛びつくが、得にならないことには目もくれない、エゴイズムむき出しの浅薄な存在として描かれている。
昨今の日本の社会と国家の有様を見ていると、いろいろなことが「出エジプト記」の各場面とダブってくるのだが、日本版「出エジプト記」は、はたしてどんな内容になるのだろうか。