近代経済学というものがある。
社会科学分野の中ではもっとも自然科学に近い、ということは数学化の進んだ分野であり、科学としての制度化が進んだ分野であるとされている。
確かに外見的には、アカデミズムの中に確固とした足場をもち(理科系単科大学以外のほとんどの大学には経済学ないしその関連学科の学部がおかれている)、標準的な教科書があり、多数の関連学会を擁し、専門誌への投稿の多寡などに基づく業績評価システムが確立しており、おまけにノーベル賞まである一大領域を形成しているように見える。
しかしこの近代経済学なるもの、物理学や化学、生物学などの自然科学と同様な意味での科学といえるものかどうか、はなはだ疑問だ。ブログ主の見るところ、それはせいぜい、経済事象を事後的に統計処理することで、あのとき起こっていたことはこんなことでした程度の解説がようやくできる講談のようなものでしかない。
量子力学のようなものはさておき、少なくともニュートン物理学に代表されるような自然科学であれば、いついかなる場合であっても妥当する法則を見いださなければならない。そのような法則であれば、日食がいつ起こるか正確に予測できるように、ある条件があればある結果が必ず起こることが予測できるはずだし、可能であれば(条件を変えることができれば)人間の望むとおりに結果を変えることができるはずである。
しかしながら、近代経済学なるもの、いかなる意味においてもそのような法則を発見したことはない。それが証拠に、リーマンショック以来、世界の大多数の人々は経済の混乱により塗炭の苦しみを受けているが、この混乱と苦しみを避けるための予測なり、予防策なりを何ら示すことができなかったではないか。
やっていることといえば、ことが終わった後で、あと知恵よろしくリーマンショックは斯々然々のプロセスで起こりました、はい、さようなら、という人をばかにしたようなことだ。
ところが、世間では、こんな講談まがいの近代経済学の専門家と称する連中がしたり顔で、財政健全化のためには増税するべしとか、市場の自由にまかせておけばうまくいくのだから万事放任がよろしいなどと世迷い言を繰り出す茶番。おまけに、世の人々はそれを、偉い学者先生の言うことだからと鵜呑みにして担ぎ回る始末だ。
経済学の経済とは、経世済民のことだと昔教わった記憶がある。であれば経済の学を名乗る以上、経世すなわち世を治め、済民すなわち民を安んずることを究めるのが任務のはずなのだろうが、どうもこの近代経済学なるもの、そんなことはとうの昔に忘れ果て、難しい数式を使ってなにやら科学をやったつもりになり、挙げ句の果てにノーベル賞なんぞというものをやったりとったりして自己満足にふけっている、困ったチャンたちの観念遊戯のようだ。
本日の結論。近代経済学者なる連中の言うことは、眉に唾して聞け。