「絆」「支えあい」と「一億総懺悔」

もうすぐ、大震災から1年。その1年が過ぎようとしているこの国で、「絆」と「支えあい」が、はやり言葉になっている。「がんばろう、東北」とか「がんばろう、日本」とかいう言葉もよく聞く。

たしかに、未曾有の災害を経験して、人々が、人間自然の感情の発露にしたがい、「絆」を再確認したり、「支えあ」うのは当然であるし、「がんばる」ことが必要な場面もあるとは思う。

だが、これらの言葉が、あの大震災の経験を、天から降ってきた、誰にも責任のない、不可抗力の運命であり、したがって誰の責任を問うことできず、甘受するしかないものであるので、だから人は皆助け合わねばならないのだという文脈で使われるのなら、話が違う。

地震と津波は天災だったが、福島原発は人災である。「原発安全神話」をばらまいてきた人々、地震と津波の常襲地帯の海岸に無造作に原発を立地した人々、事故発生後に事故が大したことのないように嘘をつき続けた人々、これらの人々による災害、すなわち人災である。加えるに、復興が遅々として進まないことも人災である。

これら人災の責任の所在を明らかにせず、有責者に償いをさせないままであると、この人々は懲りることなく再び同じ過ちを繰り返すことになるに違いない。

こうしたことを考えることなく、すべての人が等しく「絆」を確認したり「支えあい」をすべきであり、「がんばる」べきであるというなら、そういうことは、大震災の人災としての側面を曖昧にし、無責任な振る舞いによって甚大な被害をもたらした人々の責任をうやむやにすることになるのであり、ひいては、このたびと同様の災厄を将来にわたって繰り返すことを防げないだろうと言わざるを得ない。

そういえば、われわれは、敗戦直後、「一億総懺悔」という言葉によって、あの無謀な戦争の責任の所在を曖昧にしたまま今日に至っているのだった。

「災害は忘れた頃にやってくる。」

災害は、天災と人災だけではない。戦争も、また災害である。