67回目の敗戦記念日

きょう、わが国では67回目の敗戦記念日。

この戦争で命を落とした幾千万の人を思い、戦場に赴くこともなく、空襲の中を逃げまどうこともなく生きてこられた自分のありがたさをかみしめるとともに、世界中で今もなお、戦火に倒れる人が絶えないことを悲しむ。

戦争はなぜ起こるのか。その原因は、煎じ詰めれば、戦争によってどんな悲惨なことが起こるのか、自分及び自分の周囲の人々がどれほど不幸な状況に陥るのかについての想像力の欠如に帰する。もしも、自分や自分の大切な人の頭の上に爆弾が雨あられのごとく落ちてくることを想像できるなら誰も戦争などを始めないだろう。

爆弾を落とす人も、その爆弾が破裂した先でなにが起こるかを精細に想像できるなら落とすことを躊躇するだろう。多くの人がそういうことを想像する力を持たなくなると、戦争は近い。

「汝の欲せざるところを人に施すなかれ」とは至言であるし、人々がこのことを不断に意識し続けるなら、「絶えてこの世に争いのおこるまじきものを」なのであるが、しかし……

 

 

私家版 昭和平成史 世相篇1 「3月11日の黙祷」

平成24年3月11日午後、東京郊外のショッピングモールにいたら、店内アナウンスがあって、1年前の大震災発生時刻になるので黙祷をお願いします、とのこと。

「黙祷」のアナウンスとともに、ざわめきがやや静かになった。少なからぬ人が、そのアナウンスに従ったようだ。

この黙祷を呼びかけるアナウンスは、その施設独自の判断によるものなのか、あるいは、その筋からのお達しに従ったものなのかは不明。

毎年夏の終戦記念日(と大方の人は言うが、本当は敗戦記念日)の正午頃、甲子園の高校野球会場では、場内放送に従って試合を中断し黙祷をしているが、、あのときも、デパートなど人の集まるところでは、店内放送で黙祷を呼びかけているのか。その時分は、旧盆なので、筆者はたいてい自宅におり、繁華街にいた経験がないのでどのようになっているのか知らないのだが。

3月11日の黙祷呼びかけは、今年限りのことなのか、それとも来年以降もずーっと続けるのか。どうなのだろう。

ちなみに、筆者は、その場では黙祷に加わらなかった。どこの誰とも分からぬ人に放送で指示されて、一斉に黙祷するなど、自分の感性ではできない。大震災で非業の死を遂げられた方々のご冥福を祈るのは、自分なりの工夫で臨みたいと考えている。