「桜田門外の変」異聞

ご存じ「桜田門外の変」とは、西暦1860年3月24日、日米修好通商条約調印の日本側責任者、井伊大老が水戸藩の脱藩者たちに暗殺された事件。

最近知ったのだが、水戸の脱藩者たちは暗殺にピストルを使ったのだそうだ。

しかも、そのピストルはといえば、かの黒船のペリーが幕府に贈った米国コルト社製の回転式のものを、水戸藩がそっくりコピーして作ったものだという。

攘夷の急先鋒、「皇国の神州たる所以」明らかにすると称する水戸学の信奉者、すなわち水戸の脱藩者たちが、「飛び道具」であるピストルを暗殺の道具にし、しかも、それが「夷狄」と軽侮する当のアメリカ人からの貰いものをそっくり真似したものだったとは!

彼らには、「夷狄」の真似をすることや、ピストルという「飛び道具」使う、「神州の武士」としては誉められたことではない、いや、はっきり言えば「汚い」手段を使うことに葛藤はなかったのか。

時代は遙かに下った昭和の子どものチャンバラごっこでさえ、飛び道具を使うことは卑怯なことであり、御法度の禁じ手とされたものだが…。

彼ら水戸の脱藩者たちは、「夷狄」に譲歩した井伊大老を暗殺するという目的が正しいので、手段として何を使っても許されるとでも考えたのだろうか。「目的は手段を正当化する」というわけか。

しかし、それは嘘である。なんとなれば、いかなる場合であっても目的は目的、手段は手段であって、目的と手段は別のものだ。「目的は手段を正当化する」なんてことになったら、歴史上のすべての戦争は正しいことになってしまう。なぜなら、歴史上のすべての戦争は目的をもっているから。

ところで、明治維新の政治過程には、水戸の脱藩者の振る舞いに範をとったのか、「目的は手段を正当化する」の類の暗殺やら陰謀やらがゴマンと出てくる。その最たるものは、西暦1868年1月3日、「王政復古の大号令」とやらが出てくる直前の薩長の連中の動きだろう。詳しくは歴史書にゆずるとして、これなどまさに陰謀中の陰謀、陰謀の典型だ。

こう見てくると、「目的は手段を正当化する」の勢いで作り出された明治国家とは一体何者なのか、その正統性の根拠は何かということになってくる。少なくとも、純粋な志をもった志士たちが、日本の将来を憂えて縦横に活躍した結果、成ったのが明治維新だなどという広く流布しているストーリーについては眉に唾をつけなければならないと思う。

たかがピストルされどピストル、ことは井伊大老暗殺の一件にまつわる些事だが、ただの些事ではない。