ニュージーランド地震と言論の自由

どこの人間社会にも程度の差はあれ、流れや、空気といったものができあがると、その流れや空気に異を唱える人々を、時には暴力を使ってでも排除しようとする、全体主義的とでも集団主義的とでも呼べるような傾向がある。異を唱えることは、社会の秩序を壊すウィルスだから即刻、排除しなければならないというわけなのだ。

わが日本社会はその傾向が強いのだろうか、大きなイベントや事件・事故が起こると、一億一心火の玉になってしまい、いささかでもそのことに疑問を呈すると、非国民扱いが始まる。近頃は、個人主義が浸透してきたせいか、一時ほどではないが、まだそのことは色濃くあるように思う。

このたびのニュージーランド地震に関連して、一部政治家の言動や、新聞・TVの物言いに、このことをあらためて強く感じた。

例えば、民主党の松木健公氏が農水政務官を辞任するに際して、官房長官の枝野某の「地震対応に政府一体で取り組む中で大変遺憾で残念だ」(日経)という発言、自民党幹事長の石原某の「ニュージーランドで邦人も含めて、多くの方々の生死が取りざたされている中で、うちわもめをしている余裕はなく、世界に対しても恥ずかしいことだ」(NHK)という発言。

これらの発言は、先の戦争中、「この非常時にパーマをかけるとはけしからん。非国民!」などと言い募り、どんなときでもお洒落を忘れない女性の鏡のような女性を辱めた世の中の全体主義的な風潮と五十歩百歩ではないかと思う。

地震で被災された方々には同情するし、被害にあったわが同胞が一刻も早く救出されることを願うが、しかし、遠く離れた日本で、官民ともできることは限られている。日本政府としても救助隊派遣などできることとやるべきことをしながらも、それはそれとして、その他もろもろの内政外交課題に取り組まなければならないのは自明の理である。

そうした自明のことをわきまえず、かの地の地震と、この地の内政課題を一緒くたにして、松木氏の正当な政治的行動をおとしめようとする政治家と、その発言を無批判かつ肯定的に伝えるマスコミの振る舞いは、他国の地震災害への同情に名を借りた言論封殺と同じであり、人間社会の悪い癖である全体主義的・集団主義的風潮を助長するものだ。

[追記]

ニュージーランドは、日本と同様の島国で、火山もある地震国だったと思うが、それなのに耐震性ゼロのレンガ造りの建物があったとは驚きである。ニュージーランド政府は、暴力的な反捕鯨活動を実行しているシーシェパードなる団体の船舶の同国寄港を認めていたと思うが、クジラの命は大切にするも、人間の命は大切にしないのか。わからない国だ。