経済団体の幹部は何時からそんなに偉くなったのだ

日本経団連や経済同友会の幹部が、国家予算の成立を妨げる議員は給料泥棒だとか、予算の成立に反対するのは無責任だとか、しきりに発言して、政治にくちばしを入れている。

この連中は、何時からそんなに偉くなったのだ。

全国的な経済団体の幹部といったって、しょせんは、企業家の集団に過ぎない。彼らの最大の関心は、自分たちの企業や業界の個別的かつ局所的な利害にあり、それ以上でもそれ以下でもない。

しかるに、国家予算の関わるところは、国民全体の福利であり、天下国家の行く末である。一企業家やその集団の利害関心を遙かに越えている。

主権者である国民は、その遙かに大きな問題の解決を、自らが選んだ国会議員に付託したのだ。来年度予算をどうするかは、国民の代表である議員に委ねられているわけで、早期成立を図るもよし、異議ありとして精査した結果、成立が遅れるもよし、である。遅速いずれにしても、国家予算は政治課題の中の政治課題であり、政治そのものである。

政治つまりは予算が、良いものなのか悪いものなのかは、国民が選挙において判断する。これが民主政治というものだ。

それを、経済団体の幹部が、上から目線で偉そうに説教を垂れる。いったい、何様のつもりか。企業家は、自分たちの商売に専心しておればよいのであって、そんな無駄口をたたく暇があったら、良い商品を少しでも安く供給できる努力をすべきである。それが彼らに天から与えられた役割なのだ。分をわきまえよ。

また、議員諸公は、このような分をわきまえない連中の不遜きわまりない発言には、大いに怒らなければならない。献金を受けているスポンサーだから、何にも言えないなんぞとは口が裂けても言ってはいけない。

海老蔵は未成年者か?

海老蔵が深夜、泥酔し、見知らぬ男たちに殴られ重傷を負ったという。

そこへ、実父の団十郎が記者会見し、息子の不始末を詫びる一幕。

事件の夜になにがあったのか、それをここで問題にしようとは思わない。そっちのほうはマスコミがいやというほどやってくれるだろう。

ブログ主が不思議に思うのは、未成年者じゃあるまいし、なんで息子の不始末に親を引っ張り出すのか、ということだ。

海老蔵はいくつだったか。30を越えていたのじゃあないか。女房もいるんだろう。ちゃんとした仕事もある一人前の男だ。大人だろう。

未成年者なら仕方がない。親には保護監督責任があるのだから、子どもに代わって「世間様」に頭を下げなければならないだろう。

だが、大の大人で女房もいる。本人が人前にでられないほど大変なことになっているなら、そんなときこそ奥方の出番なのではないか。取り込み中に、まあご苦労さんだがしょうがない、なにしろ江戸歌舞伎を背負って立つ市川宗家の御曹司の奥方でしかも素人じゃあないわけだから、その程度のことはすぱっとやりきらないと。

ところで、海老蔵の場合に限らず、大の大人であっても、なにかあると当の本人ではなく親が引き出され、詫びの一言を言わされることがままある。

いったいこれはどういうわけなのか。

つらつら考えるに、どうもわれわれの社会では、人がいくつになっても自立した個人として、つまり本当の大人として行動することを許さない風があるからのように思える。つまり、たとえ成人であっても、保護者の監督下にある未成年の子ども扱いなのだ。

そんなわけだから、人が、本当の大人として独立独歩の人生を歩もうとするときまってなんらかのブレーキがかかる。その多くは、「世間が許さない」とか「世間を騒がせてはいけない」とか「世間体が悪い」などという形をとる。

こんなことを子どものときから繰り返し刷り込まれていれば、ほとんどの人は、海老蔵の不始末に団十郎がでてきて「世間様をお騒がせして申し訳ない」と頭を下げてもなんとも思わなくなる。

それどころか、世間様の前で頭を下げないと「いったい団十郎はなにをしているんだ」と逆に非難するようにもなる。

これを政治の世界に移して考えると、本当は主権者(大人)のはずの国民は、いつまでも主権者(大人)扱いされずに、誰かの保護監督下にあるという不思議な現象にいきあたる。

国民が主権者として自前の判断と責任で行動しようとすると、その誰かさんから「待った」がかかる。日頃から、自分の判断で行動することにブレーキをかけられ続けている国民は、そういうものかなと妙に納得してその「待った」の声に深い疑問を持たない。

こんな調子では、国民が主権者(大人)として自立していることを大前提とする民主政治がうまくいくわけがない。

昨今のわが国の政治的混迷は、実のところ、われわれ国民が主権者(大人)として自立していない、自立させられていないというところに原因の一つがあるのではないか。

わが国に民主政治を根付かせるための肝は、主権者(大人)がちゃんとした主権者(大人)になることだ。

と、まあ、大見得を切りましたが、なにしろ、やがては市川宗家を継ごうかという海老蔵がことの発端ですからしてこうなるのも当然といえば当然か。

ブログ事始め

このたび、幾多の困難を乗り越えて、ブログをスタートさせることができました。独自ドメインの取得、レンタルサーバとの契約、WordPressのインストール、phpの勉強等々、まったくの素人にとっては非常に高いハードルでしたが、関連書籍やネットにおける諸先達のご教示に助けられてここまでたどり着くことができた次第です。まずもって貴重な情報を惜しみなく開示していただいた先達の皆様に感謝申し上げます。

それにつけても、ありがたい世の中になったものです。そこそこの性能のパソコンとネットで情報を検索する少しばかりの技能があれば、年間数千円で独自ドメインとサーバが確保できる時代なのです。中島みゆきではありませんが、まさに「時代はめぐる〜」であります。

WordPressのインストール画面に「世界で最も拡張的で強力なパーソナルパブリッシングプラットフォーム」とありますが、このパーソナルパブリッシングプラットフォームということ、意味深いものがあります。何千万人かが視聴する放送局、何百万部を発行する新聞社や、何万部を売りさばく出版社に比べれば、インターネットを舞台にしたデスクトップパブリッシングは圧倒的にコストが低く、内容が多くの人に支持されさえするなら、放送や新聞などのマスメディアに匹敵する受け手を見いだすことができます。

民主政治が成り立つためには、もろもろの争点に関し、人々が主権者としての判断を間違いなくするためのゆがみのない情報を過不足なく手にしていることが必要です。これまでは新聞や放送がそれらの情報を中立公正な立場から伝達し、世論を正しく導く役割を担っているとされてきました。すなわち「社会の木鐸」というわけです。

しかし、ここ数年、そのことにブログ主は疑問をもつようになりました。「本当にマスメディアはゆがみのない情報を過不足なく伝えているのだろうか」と。

この疑問が決定的になったのは昨年1月に起きた、当時の民主党代表小沢一郎氏に対するいわゆる「政治とカネ」問題です。来るべき総選挙において政権交代が起こりそうなタイミングにおいて、検察当局が野党第1党の党首の周辺に対して強制捜査を始める、すると新聞や放送が競い合うように「政治とカネ」を連呼して検察当局のリーク情報を報道する。その有様はまるで集団ヒステリーのようでした。

この有様を見て、新聞や放送などのマスメディアが、中立かつ公正な立場を捨てて、ある種の立場を取るようになった、その立場とは「反小沢」という立場なのだと、考えるようになったのです。

その後、インターネットを中心に様々な情報を調べるうちに、検察当局の捜査は、予断と偏見にもとづく政治的捜査と取られても致し方のないものであること、検察当局のリーク情報を垂れ流すマスメディアの行動はもはや「社会の木鐸」と呼ばれるようなものではなく政治的闘争における一方のプレーヤーとなったということを確信するにいたりました。

既成のマスメディアが、民主政治における国民の判断に資する報道ができないのであれば、それに代わるものが必要です。インターネット上のブログサイトでは、貴重な一次情報が流され、様々な立場の意見が主張されています。ブログ主も、それらの情報や主張に大いに目を開かされ啓発されてきました。

そうした数多くのブログサイトがあるにもかかわらず、ここに新たに拙ブログを始めるのはあたかも「屋上屋を架す」に等しいことかもしれません。が、民主政治とはそもそも「人々による支配」であるわけで、その人々が暴力によらず言論によって大いに意見を主張しあい「百家争鳴」する、その中から自ずと政治や社会の進むべき方向が見えてくることは結構なことではないか、というわけで身の程を顧みもせずこのブログを始めた次第です。

始めたきっかけは以上のことなのですが、タイトルの通り、ブログ主の想いや思いを、あれこれ気の向くまま、憶断的にして非論理かつ非実証の記事を連ねて参ります。