『マザーレス・ブルックリン』

『マザーレス・ブルックリン』、2019年の米国映画、日本公開は2020年1月。監督・製作・脚本・主演をエドワード・ノートンEdward Harrison Norton(1969-)が一人でやっている。今月になってビデオ鑑賞。”マザーレス・ブルックリン”とは、主人公の自称私立探偵にそのボスがつけたあだ名。孤児でニューヨークはブルックリン育ちだから”母親のいないブルックリン”というわけ。

原作は、ジョナサン・レセムJonathan Allen Lethem(1964-)の同名小説”Motherless Brooklyn” 1999年。全米批評家協会賞などを受賞。これも映画を見てから翻訳(佐々田雅子訳『マザーレス・ブルックリン』 ミステリアス・プレス文庫 早川書房 2000年)で読んだ。

映画冒頭に”Oh, it is excellent to have a giant’s strength, but it is tyrannous to use it like a giant.”という引用句。調べると、シェイクスピア『尺には尺をMeasure for Measure』の登場人物イザベラのせりふ「ああ、巨人の力を持つのは素晴らしいこと、でもその力を巨人のように使うのはむごい暴虐です。」(松岡和子訳 ちくま文庫 2016年)。 これ、原作にはない。

じつは、上に書いたようなことはなにも知らずに見はじめたら、どうも聞いたことのある話が背景になっていて、既視感がある。

舞台は1950年代のニューヨーク。ノートン扮する、トゥレット症候群(チックという一群の神経精神疾患のうち、音声や行動の症状を主体とし慢性の経過をたどるものを指す。…症状のひとつに汚言症があり、意図せずに卑猥なまたは冒涜的な言葉を発する―ウイキペディア)のある主人公が、殺されたボスの秘密を探るうちに、都市再開発をめぐる闇に巻き込まれていく…というのが主筋。

背景として、市当局の都市計画・建築監督官(アレック・ボールドウィンが役のために体重を増やしたのか、脂肪太りした権力亡者の不愉快な人物を、いつもの甘ちゃん二枚目風を捨てて好演)が、強引にスラム街一掃の都市再開発を推し進めるのに対し、初老白人女性の活動家が、現に住んでいる人々の生活お構いなしのやり方に市民運動を組織して抵抗する話が絡む。

その白人女性の風貌が、当時ニューヨーク在住で、人間不在の都市再開発批判の論陣を張ったジェイン・ジェイコブズ(Jane Butzner Jacobs 1916-2006)に似ているのだ。市当局の監督官も、劇中でモーゼス・ランドルフと呼ばれているけど、たしかそのような名前の人物がニューヨークの都市再開発推進者の中にいたよなと思ったら、いました、ロバート・モーゼスRobert Moses(1888-1981)、「20世紀中葉にニューヨーク市の大改造を行ない、「マスター・ビルダー」(Master Builder)との異名を取り、19世紀後半皇帝ナポレオン3世治下でパリ改造を推進したジョルジュ・オスマンに比肩される」とはウイキペディア。

ついでにノートンのことを調べたら、大学で天文学・歴史・日本語を学び、1986年、母方の祖父が都市問題の講演に招かれて来日したときに同行して通訳をつとめたという。その祖父ジェームズ・ラウスJames Wilson Rouse((1914-1996)は、ロースクールを出て、連邦住宅局勤務ののち住宅ローン会社を設立し、第二次大戦後、都市計画プランナー、市民活動家というのがウィキペディア情報。

原作は、おそらく、書かれた時点の少し前の1980年代後半から90年代はじめが舞台で、日本人が絡む。ニューヨークの半分は日本人所有だなどと、今のすっかりしぼんでしまった日本国からは想像もできない、あのバブルの頃の日本が背景になっていて、米国東海岸のウニ漁獲を日本人が買い占める話だとか、禅の道場だとかがでてくる。都市再開発のことなどまったくでてこない。映画が使ったのは、主人公の人物造形やハードボイルド風の世界観。

はやくも2000年にはノートンが映画化を考えたというから、完成するまでに20年。資金の問題がいちばん大きかったのだろう。でも、その20年は無駄ではなかった。原作の主人公造形とハードボイルドタッチを、1950年代ニューヨーク再開発の暗部と絶妙に絡み合わせた脚本はうまい。トゥレット症候群の主人公のノートンは言わずもがな。冒頭で殺されてしまうが、ボス役のブルース・ウィリスもさすがの演技。こういう短い出番でもきちんとこなす役者魂には脱帽です。原作翻訳者の佐々田雅子が、訳者あとがきで「なお、この作品は『アメリカン・ヒストリーX』『ファイト・クラブ』の若手俳優エドワード・ノートンの制作・主演で映画化されることが決定している。才人の原作に、やはり才人の評判高いノートンがどのように取り組むのか、結果が待ち遠しいところである。」と書いている。その「若手俳優」がいまや50歳! 映画として熟成するためにはそれだけの年月が必要だったということか。

あ、それと音楽。ジャズですね。なかなか良い。おまけに、どう見てもマイルス・デイヴィスでしょう、というトランペット吹きが重要な役柄ででてくる。これも、本物にそっくりなんだな。

ま、というわけで、この映画、特典映像でノートン自身が言っているように、1950年代のニューヨークの都市再開発でなにがあって現在のニューヨークができたのかについての報告書のような側面がある。自分にとっては、そういう面も含めて面白い映画だった。映画そのものと、その映画の背景世界についてあれこれ考えさせてくれる、いい意味で「ひと粒で二度美味しい」作品。吟醸香が鼻腔に漂い、舌に滑らかな、値段は高くないけれど掘り出し物の日本酒というところかな。

これがきっかけで、シェイクスピアのその芝居も読みましたが(残念ながら翻訳で)、これもおもしろいですね。話すと長くなるので端折って。題名の『尺には尺を』が新約聖書マタイ7-1「また自分が測るその測りによって、自分も測られる」あるいはマルコ4-24「あなた方が測るその測りによって、あなた方自身も測られることになろう。」(いずれも田川建三訳) への言及だろうということになっていて、その根拠として5幕1場大詰めの公爵のせりふが挙げられている(ウイキペディア)。いわく「クローディオにはアンジェロを、死には死を、早急には早急を、猶予には猶予を、類には類を、尺には尺をもって報いるのだ」(上掲書189頁)と。

でも、これ、わざわざ新約聖書のその節に言及したというほどのことではないのではないかな。われわれが、たとえば「因果応報」などと口にするのと同じく、彼の地の人たちにとって”measure for measure”はそれが新約聖書に典拠があるなどということは意識に上ってはいなかったんじゃないか。シェイクスピアを含めて。

シェイクスピアの芝居は多様な解釈を許すものだろうから(だからいままで残っている。当たり前か)、映画との関連をあれこれ言いはじめたら切りがないのでやめておくけど、『尺には尺を』と映画『マザーレス・ブルックリン』とは関係があるといえば言えるし、ないといえばないし…。ただ、映画冒頭の引用句(エピグラフというのですか)はじゅうぶん関係があるように思いましたね(だから引用したんだろうけれど。当たり前か)。これもあれこれ言い出すと、元東大総長のフランス文学者某氏のごとく映画をさかなに手前勝手な屁理屈をこねくりまわす無粋になりそうだし、ご鑑賞の妨げになるからやめておきます。

ついでにいうと、まったくの門外漢が、坪内逍遥や夏目漱石以来の長い伝統あるシェイクスピア研究に異を唱えて申し訳ないが、”Measure for Measure”に『尺には尺を』という日本語題名を与えるのはそろそろなんとかしたほうがいいのじゃないですかね。尺貫法も廃止されてから久しいんだし。最初、この題名を見たときには、笛を吹く人の話かなにかと思いましたよ、尺八をね。ちなみに候補として『裁きには裁きを』なんていかがです。

ついでにもう一つ。原作でも映画でも、主人公のマザーレス・ブルックリンことライオネル・エスログが、自分の内なるもう一人の自分―自分が吐き散らす悪口雑言の想像上の聞き手―につけた名前がベイリー。そのベイリーとは「たぶん、ベイリーは『素晴らしき哉、人生!』のジョージ・ベイリーのようにどこにでもいる人間なのだろう。」(上掲書19頁)というわけで、フランク・キャプラの、公開当時は興行的に失敗したが現在では米国内においてクリスマス映画の定番になっているという1946年米国映画”It’s a Wonderful Life”の主人公。ベイリーは、父親から庶民相手の小口住宅ローン会社経営を受け継ぎ、悪辣な銀行家から苦しめられるという設定だった。