小沢一郎氏を見ていると、この人、政治家なんだけれど、実は政治家ではないのかもしれない、という思いが浮かぶ。
小沢氏の座右の銘「百術は一誠に如かず」。
ふつうの政治家は、己の願望を、「百術」を駆使して実現しようとするのだろうが、小沢氏は「一誠に如かず」を取るという。
あれこれ手練手管をめぐらすより、己の信念を愚直に訴え続けることを尊ぶのが小沢流なのだろう。ふつうの政治家とは次元が違うレベルの政治を小沢氏が目指しているようにも思える。
だが、しかし、嫉妬と裏切りが渦を巻き、百鬼夜行ならぬ百鬼昼行が現実の政治の世界で、一朝一夕に、小沢氏のやり方が実を結ぶとは思えない。だから、遠見では易々と、仙谷由人などという三百代言に、民主党の主導権を奪われてしまうことにもなるのだろう。
せっかく、「国民の生活が第一」に期待し、政権交代を実現させた主権者国民にとっては、今の民主党の有様は残念なことだが、しかし、見方を変えると、こうも考えられはしないか。
官僚主導は明治以来100年以上、米国の植民地状態は敗戦以来半世紀以上、かくも長く続いたアンシャンレジーム(旧体制)を変革するには、一回や二回の政権交代では無理なのであって、むしろ、今回の政権交代は、始まりの始まり、山登りでいうと、ようやく1合目に一歩踏み入れたというところなのではないか。
であれば、焦りは禁物、本当の民主政治、国民が主権者として政治を動す真の民主政治を実現するためには、地道なしかも王道を歩む行動の積み重ねが必要なのだ。
こうした亀の歩みに似た振る舞いは、時として、兎の如くすばしこい利巧者に先を越されるかもしれない。夜明けはまだ先かもしれない。
しかし、この1年ほどの政治の動きが、日本で真の民主政治を実現することの難しさを明らかにし、本物の民主政治を望むならそれなりの覚悟を固めることをわれわれ主権者に求めるきっかけになったと考えるなら、今回の政権交代は意味があったということではないか。
と、まあ、こんな感想とも諦めともつかぬ思いが浮かんでくるのだが。
小沢氏の胸中を去来するのも、ひょっとして、こんなことではないかというのは
ブログ主の勝手な思い込みか…