ウィトゲンシュタインのジョーク

このところ必要があって、ウィトゲンシュタイン( Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 – 1951年4月29日)を再訪。『反哲学的断章』(丘沢静也訳 青土社 1999年)を見ていたら、こんな断章が。

福音書のほうが―これも私の感じだが―すべて質素で、謙虚で、単純である。福音書が小屋なら、―パウロの手紙は教会である。福音書では、人間はみな平等で、神みずからが人だが、パウロの手紙はすでに、位階とか官職といったヒエラルキーのようなものがある。―と言っているのは、いわば私の嗅覚である。(同書94頁)

しかし、これを、嗅覚と表現するのは、なぜ。キリスト教世界の異端審問的追求を回避のため? まさか。

こんな断章もある。

ウソをつくより、本当のことを言うほうが、しばしば、ほんのちょっと苦痛なだけである。甘いコーヒーを飲むより、苦いコーヒーを飲むほうが、ほんのちょっと苦痛なように。それなのに私は、どうしてもウソをついてしまう。(同書115頁)

思わず、ニヤリとしてしまう。あるウィトゲンシュタイン研究者が、この超絶的な思索者には「笑ってはいけない笑い」という独特のジョークがあると指摘する。(中村昇『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』教育評論社 2014年 177-178頁)
してみると、上の断章も、独特のジョークということか。なにせ、「犬は、何故痛い振りをする事が出来ないのか? 犬は、正直すぎるからなのか?」(『哲学探究』250節 引用は黒崎宏訳・解説『『哲学的探求』読解』 産業図書 1997年)などと、大真面目に言う人なのだから。

蛇足;ウィーンの生まれの人だから、姓名の発音の生地主義(そんなものがあればだが)にしたがえばヴィトゲンシュタインとなる。英国の大学で教職についていた、英国籍を取得、慣用などを考慮して表題の表記を選択