大相撲とプロレス、そしてマスコミの偽善について

またぞろ大相撲の八百長話。

こんなことは、珍しくもなんともない。昔からいくらでもある話で、知っている人はちゃんと知っている。

相撲中継にご執心のNHKをはじめ、マスコミの皆さんなら、相撲が八百長そのものの世界だなんぞということは百も承知のはず。知らないとは言わせない。知らないというなら、それは自分たちの取材について無能かつ怠惰を自ら認めることになる。

ところがどうだ、この連中ときたら、まるでおぼこ娘みたいにそんなこと露も存じませんとばかりに口を拭って知らん顔、あろうことか、嵩に掛かってやいのやいのと責め立てる始末、あのね、こういうのを、まっとうな世の中では偽善というんだよ。

ところで、ブログ主は、相撲の八百長なんぞ、なんとも思っちゃいない。

むしろ、こんなことを、何様のつもりか知らないがマスコミどもが、八百長なんぞと言って、天下の大罪ででもあるかのように騒ぐこと自体、間違っていると思っている。

そこで、その八百長とやらのことだが、相撲とはとんと縁がないブログ主でも、相撲の八百長がどんなものかくらい、先刻承知だ。

使者に立つのは床山や呼び出し、星一ついくらで取引が行われる。千秋楽当日、片や8勝6敗で勝ち越しは確定だが三賞には遠いという力士、片や7勝7敗、この一番で白星を上げなければ負け越し確定で幕下転落確実、しかも部屋で幕内はこの力士だけとなれば、部屋の経営にも関わってくるわけで、何十万、場合によっては何百万が動いても不思議でも何でもない。一方、八百長話を受ける側も、明日はわが身、相身互いだから、今場所はごっつあんです、先々、攻守ところを変えることになったら、そのときはよろしくというわけ。

ま、実態はこんな次第で、当たらずとも遠からずというところだろう。

お分かりのように、これすなわち、義理と人情、共存共栄と思いやりが真骨頂の日本社会そのものなのだ。

だから、相撲の八百長を糾弾することは、日本社会そのものを糾弾することに等しい。

じゃ、何でこんな騒ぎになるのか。もちろん、マスコミの罪が大きいが、相撲の勧進元である日本相撲協会のやりようにも問題がある。

元々、相撲は、日本的稲作農耕社会で村落の繁栄と五穀豊穣を願う神事の余興として始まったものだ。秋の村祭りで、子どもや青年が、鎮守の杜にしつらえられた土俵で取り組む、それを囲んだ村人が笑いさんざめきながら、実りに感謝し共同体の結束を再確認するといった場面を思い浮かべれば、このことは了解していただけよう。

それを、なぜかは知らないが、国技などと称し、国技館なる建物を造り、さらには相撲道などと「道」にまでしてしまったから、さあ大変だ。国技で、しかも相撲道ときたら、八百長なんてことは許されるわけがない。おまけに、協会も、財団法人の看板なんか掲げるから、小役人(文部科学省)の、公益がどうのこうのとか、青少年への影響がなんたらかんたらと、要らざる干渉を受けることになる。

まるで、自分で自分の首を絞めたような案配だ。

だから、協会は、柄にもないことをしないで、昔々、そうであったように、部屋持ち親方の集合体として、興業会社にでもなればよいのだ。

そう、プロレスのようにね。

プロレスも、プロレスを愛好する人々どうしの絆の確認や、ストレス解消、すなわちカタルシスという共同体の神事のような役割を担っていて、その意味で、相撲の担っている役割と共通するものをもっている。

プロレス草創期の立役者、力道山が相撲出身だったのは象徴的だ。

その、プロレスを、誰も、八百長をやっているといって責めはしない。愛好家は、プロレスとはそういうものだと思っているから、そこになんの問題も起こらない。

相撲協会も、検事上がりの小役人を役員として雇うなんぞというバカなことをせず、ここで心機一転、プロレス界にならって、親方衆の共同出資による株式会社化でもしてごらんよ。そのほうが、ずっとすっきりするよ。そうなったら、本場所も、海外巡業ではすでにそうしているように、公演と銘打って大々的にショーアップする、そうなれば、あの朝青龍のような悪役力士だって、プロレスがそうなように、十分活躍できる場面ができるし、興業会社としての利益だって天井知らずになるかもしれない。

こんなうまい話はないのにね…