兵站、あるいは舞台裏の準備の大切さについて

村井章介『分裂から天下統一へ シリーズ日本中世史④』(岩波新書 2016年)を読んでいたら、秀吉の小田原攻めについて以下のような言及があった。「小田原陣における秀吉軍の勝利は、動員した兵力の差もさることながら、その兵力を支える物資の徴発と輸送、すなわち兵站の能力の圧倒的な差によるところが大きい。」(118頁)

これで、勝海舟(官職名が安房守)の談話速記『氷川清話』(江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫 2000年)のなかに、この当時のエピソードがあることを思い出した。(227-228頁)

江戸城無血開城後、旧旗本8万人を静岡に移すことになった。1万2千戸しかないところにその人数なので、勝自身も農家の間を奔走し、ひとまず「みなのものに尻を据ゑさせた」。このとき、「沼津の山間で家作もずいぶん大きい旧家があったが、そこへ五十人ばかり宿(とま)らせて」、勝もともに一泊した。すると、その家の七十歳あまりの主人が挨拶に出て、じぶんのところは旧家だが、貴人を泊めるのはこれで二度目だと。勝が仔細を尋ねると、一度目は「本多佐渡守様」で、「太閤様小田原征伐の一年前で、明年こゝへ十万の兵が来るから、あらかじめ糧米や馬秣(まぐさ)を用意をするために小吏では事の運ばぬを恐れてか、本多様は自分でこゝへ御出になったのだといふ」と。これがあったので、周辺の者が十分に米を貯えておいたため、十万の兵が来てかえって米価が下がった。さらに、このあたりの海岸は常は波が荒いのだが、糧米を陸揚げする日は天気もよく波も穏やかで、以来、当地では風波の平穏なのを「上様日和」というようになったとも。

この本多佐渡守、三河の一向一揆の際、一揆側に組みして家康に敵対、一揆敗北後、諸国流浪を経て帰参、草創期徳川幕府の重役(年寄、のちの老中)に抜擢された、あの本多正信その人。舞台裏で、要所要所を、然るべき人物が然るべく押さえてはじめてイベントは無事成就するという教訓話。