『枕草子』筆者の無神経について

常は客観を宗とする学者・研究者が書く、専門家向けの論文ではない一般向け入門書を読んでいると、時に、その人の本音らしき、ということは客観ではなく主観の文章に遭遇して思わず共感、膝を打つことがある。

さいきん読んだ例一つ。

高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(平凡社 2018年)。日本中世から近世への移行期、おもに庶民が使う小額貨幣の銭に注目して、通貨の使用実態を解き明かした好著。教えられること多し。

で、本題。

近世以前、しばしば銭の流通量が不足して人びとが困ることがあった。そのようなときには、銭に変わるものを工夫して使った。たとえば紙。平安時代にすでに紙媒体を交換手段のように使うことがあったという文脈で『枕草子』294段が登場する(同書53頁)。 

もらい火で自宅を焼失した貴人ではない男、すなわち庶民がその悲惨を愚痴った言葉尻を捉えて、『枕草子』筆者を含む官女たちがからかう。『枕草子』筆者はその言葉尻を、自慢気に掛詞などを駆使した歌に仕上げ短冊に書いて男に投げ渡す。男は文字が読めないので、これでなにかもらえるのかと尋ねる。「教養エリートならではの差別意識がうかがえる…このエピソードは、縦長の長方形の紙片といえば、なんらかの財と交換できる証券であることを、文字を読めず、和歌を理解する能力を持たない人でも知っていたことを示している。いいかえれば、せせら笑う清少納言の態度とは裏腹に、短冊型の紙片はどういう用途で使うものなのかを広く庶民が知っていたことを、私たちに教えてくれる。」

火事という災厄にあって嘆いている庶民の男に同情するどころか、些細な言葉尻をあげつらってからかいの対象にし、あまつさえ姑息な技巧の作歌をひけらかす『枕草子』筆者およびその所属階級の無神経や傲慢さに対するこの本の著者の憤りが伝わってくる一節だ。庶民である自分もこの憤りを共有するし、つくづくこんな時代に生きていなくてよかったと思う。ついでに言っておくと、この『枕草子』というモノ、古典として教科書にはかならず載っているけど、こんな小賢しい無神経な人物の文章をこうなってはいけないという反面教師としてならいざ知らず、学校教育で随筆文学の白眉だなどとマジに取り上げるのはいかがなものか。