長寿と老害

わが国の平均寿命は世界トップレベルにある。めでたいことだ。

しかし、1926年生まれ、84歳の読売新聞グループ会長渡邉某のことになると話は別だ。

あれは老害である。

なにも、本人が80を越えて元気なことを責めているわけではない。私人としての彼一身に関してはめでたいことではある。

だが、その公人としての振る舞い、すなわち、いつまでもその地位にしがみついて後進の道をふさぎ、あまつさえ、その地位に付随する力を濫用して世道人心を惑わす所業は、老害と断じざるを得ない。

このたびも、民主党と自民党との大連立を画策していると伝えられている。

いわく「民主党があのていたらくでは自民党と連立させるほかない。」

冗談じゃあない。

民主党があのていたらくなのは、民主党自身の問題というより、渡邉某よ、あなたのところを始めとしてマスコミが、本来であれば、今現在、党代表すなわち総理大臣をつとめているはずの小沢一郎氏を、特捜検察の片棒を担いで貶めようとしてきたからじゃあないのかね。

まさにマッチポンプだ。自分で火をつけておいて、正義の味方ヅラして火を消すマネをしようとは、あいた口がふさがらない。

それを言うに事欠いて、「民主党があのていたらく」とは言語道断、へそが茶を沸かすとはこのことだあね。

読者よ、つい筆がすべって、巻き舌の喧嘩口調になってしまったことをお許しあれ。ブログ主は、渡邉某のような、ペテンをいけしゃあしゃあとやらかす人物を頭のてっぺんから足のつま先まで嫌いなので、ついつい頭に血が上るのですよ。

というわけで、渡邉某よ、いい加減にしなさい。フィクサー気取りの国士ヅラして、余計なことをするのは。もうね、あなたは引退した方がよいのだ。これ以上、老害を振りまかないためにね。それに、ほかにやることがあなたにはあるんでしょう?

商業ジャーナリズムへの廃業の勧め

わが国の商業ジャーナリズムは、その使命を果たしていないので、廃業することをお勧めする。

大手の新聞、TVといった商業ジャーナリズムは、事実を脚色なく伝え、視野の広いバランスのとれた論評を提供することが役割のはずである。その役割をきちんと果たしていればそれなりの代価を得ても誰も泥棒呼ばわりはしない。

しかし、現今のわが国のそれはどうであろうか。

まず事実の伝達。ジャーナリズムにとっての「いろはのい」のところで基本を踏み外している。

例の「政治とカネ」。

ハナから、「小沢は悪だ」という先入観に基づいた偏った報道を続けている。事実ではなく、記者あるいは編集幹部の主観をあたかも事実であるかのように粉飾した情報を伝えている。にもかかわらず、やっている本人たちは、事実を伝えていると思っているから、始末が悪い。本人は正しいことをやっているつもりの愚か者ほど恐いものはないというのが歴史の教えるところだが、今のわが国の商業ジャーナリズムはまさにそれだ。

さらに、論評の方はどうかといえば、言うも愚かなくらいお粗末なもので、「政治とカネ」の連呼に「説明責任」をまぶして一丁上がりの無責任さ。

そんなことなら、猿にだってできる。おっと御免、猿を例えに出したら、猿に失礼か。

とまあ、こんな次第で、わが国の商業ジャーナリズムは、きちんとした商品を提供していないのだから、こんなものでお金をいただくのは、詐欺や泥棒の類だ。詐欺や泥棒と言われたくないなら、廃業することだ。

よって、廃業の勧めということなのだが、まあ、今時の商業ジャーナリズムにそんなきちんとした判断ができるような玉はいそうもないから自主廃業はないだろう。

しかし、商業ジャーナリズムというものは、なくても人間、生きていけることを忘れてはいけない。米や味噌醤油とは違うものだ。

ちゃんと仕事をしないと「歌を忘れたカナリヤ」のように「後ろの山に」捨てられますよ。

人間の道を踏み外した菅直人と民主党執行部

世に恩知らずというものがある。

菅直人、仙谷某、岡田某など反小沢派の面々はまさにこれである。

万年野党のお子さま民主党が、3年前の参議院選挙、昨年の衆議院選挙で勝利し、政権に就けたのは誰のおかげか。

小沢一郎氏に決まっている。

それをあろうことか、「政治とカネ」というマスコミのバカの一つ覚えをオウム返しにして、小沢氏を追い落とそうとする。

これを恩知らずと言わずしてなんと言う。

リーダーが集団をまとめることに特段の秘訣はない。人間として踏むべき道を踏み、行うべきを行えば自ずと人はついてくる。

一国規模の集団であろうと、数人のグループであろうと本質は変わらない。

しかるに、菅直人以下の連中はなんとしたことか。小沢氏に対する忘恩の振る舞い、硫黄島の戦死者を政権延命の具にする冒涜、やることなすことすべて人の道に反することではないか。

これでは、わが日本国のリーダーなど勤まるはずがない。それどころか、こんな人の道に反することを続けていると、お天道様の罰が当たるよ。

硫黄島の戦死者を政権延命の具にする菅直人

菅直人が、太平洋戦争の激戦地、硫黄島の戦死者の遺骨収集を促進すると称して、同島を訪れた。

この話は一見すると、戦後これまで放置されてきた1万人以上の戦死者の遺骨収集を、時の総理大臣がわざわざ現地まで出かけて促進する姿勢を示すという美談のように思われるかもしれないが、全く違う。

菅直人がなにを考えてこの行動に出たかは明らかである。それは、なにをするでもなく、ただ単に一日でも長く総理大臣の地位にとどまりたいという自己一身の利益のみを考えた利己心からの行動に過ぎない。

未収集の遺骨があるのは硫黄島に限ったことではないし、未だ未収集の遺骨が各地に残されているというのは知っている人なら知っている。

それをこの時期になぜかというのは、連戦連敗の選挙、失政に次ぐ失政のていたらくで、内閣がもたなくなるのを恐れ、世間の目をそらして少しでも長く総理大臣として生き延びようという浅ましい性根からのことなのだ。

硫黄島を選んだのもその浅知恵からだ。数年前に映画の舞台になりそれなりに世間に知られている、また、東京から比較的近いなどの理由からだろう。

まともな人間なら、一銭五厘のはがき一枚で応召され負け戦を戦った挙げ句に、未だに遺骨が戦地に残されたままの兵士の無念を想えば、もっと早く遺骨収集促進に乗り出しただろうし、第一、「俺がやる、俺がやる」と大きな声を出してマスコミを引き連れ目立つようにすることはないだろう。

まったく、菅直人という人間はどこまで腐っているのか。

繰り返す。こんな人物を民主党代表に選んだ民主党国会議員、地方議員、党員・サポーターの責任は重大である。

海老蔵は未成年者か?

海老蔵が深夜、泥酔し、見知らぬ男たちに殴られ重傷を負ったという。

そこへ、実父の団十郎が記者会見し、息子の不始末を詫びる一幕。

事件の夜になにがあったのか、それをここで問題にしようとは思わない。そっちのほうはマスコミがいやというほどやってくれるだろう。

ブログ主が不思議に思うのは、未成年者じゃあるまいし、なんで息子の不始末に親を引っ張り出すのか、ということだ。

海老蔵はいくつだったか。30を越えていたのじゃあないか。女房もいるんだろう。ちゃんとした仕事もある一人前の男だ。大人だろう。

未成年者なら仕方がない。親には保護監督責任があるのだから、子どもに代わって「世間様」に頭を下げなければならないだろう。

だが、大の大人で女房もいる。本人が人前にでられないほど大変なことになっているなら、そんなときこそ奥方の出番なのではないか。取り込み中に、まあご苦労さんだがしょうがない、なにしろ江戸歌舞伎を背負って立つ市川宗家の御曹司の奥方でしかも素人じゃあないわけだから、その程度のことはすぱっとやりきらないと。

ところで、海老蔵の場合に限らず、大の大人であっても、なにかあると当の本人ではなく親が引き出され、詫びの一言を言わされることがままある。

いったいこれはどういうわけなのか。

つらつら考えるに、どうもわれわれの社会では、人がいくつになっても自立した個人として、つまり本当の大人として行動することを許さない風があるからのように思える。つまり、たとえ成人であっても、保護者の監督下にある未成年の子ども扱いなのだ。

そんなわけだから、人が、本当の大人として独立独歩の人生を歩もうとするときまってなんらかのブレーキがかかる。その多くは、「世間が許さない」とか「世間を騒がせてはいけない」とか「世間体が悪い」などという形をとる。

こんなことを子どものときから繰り返し刷り込まれていれば、ほとんどの人は、海老蔵の不始末に団十郎がでてきて「世間様をお騒がせして申し訳ない」と頭を下げてもなんとも思わなくなる。

それどころか、世間様の前で頭を下げないと「いったい団十郎はなにをしているんだ」と逆に非難するようにもなる。

これを政治の世界に移して考えると、本当は主権者(大人)のはずの国民は、いつまでも主権者(大人)扱いされずに、誰かの保護監督下にあるという不思議な現象にいきあたる。

国民が主権者として自前の判断と責任で行動しようとすると、その誰かさんから「待った」がかかる。日頃から、自分の判断で行動することにブレーキをかけられ続けている国民は、そういうものかなと妙に納得してその「待った」の声に深い疑問を持たない。

こんな調子では、国民が主権者(大人)として自立していることを大前提とする民主政治がうまくいくわけがない。

昨今のわが国の政治的混迷は、実のところ、われわれ国民が主権者(大人)として自立していない、自立させられていないというところに原因の一つがあるのではないか。

わが国に民主政治を根付かせるための肝は、主権者(大人)がちゃんとした主権者(大人)になることだ。

と、まあ、大見得を切りましたが、なにしろ、やがては市川宗家を継ごうかという海老蔵がことの発端ですからしてこうなるのも当然といえば当然か。