397年ぶりの木星・土星大接近

今晩、1623年以来397年ぶりに、0.1度まで木星と土星が接近した。

もちろん、宇宙空間で二つの星が実際に接近したわけではない。地球から見て二つの星が重なるような位置に巡り合わせたということ。

ここ1、2ヶ月、夕方、南西の空に二つの星が近くにあるのを見てはいた。1週間ほどすっかり忘れていて、今日、虫の知らせか、夕暮れの空を眺めると木星しかない。あれれ、土星はどこかへ行ってしまった?

東京天文台暦計算室の「今日のほしぞら」では、天体図には木星しかない(ように見える)が「月と惑星の情報」には土星も見えているという表記。天文ソフトの「ステラリウム」でも、木星しか表示されていない。ただ、”木星”という漢字が奇妙な格好(後で気づいたが、二つの星が大接近したので漢字表示が重なってしまったというわけ)。双眼鏡を木星に向けると、ありゃ、すぐ近くに土星があるではありませんか。この近さなら、口径70mmの望遠鏡の同一視野に入るな。しばらく使っていなかった望遠鏡を持ち出して覗くと、おお、見事! 100倍ちょっとで、二つの星が同じ視野に入っている。木星の衛星も4つと土星の輪も見える。

見終わって調べると、なんと、表題のようなまことに稀な天文現象をそれとは知らずに体験していたというわけ。

占星術というものが予言したり説明したりすることに、自分の行動や感情を左右されるつもりはないけれど、この現象をそれはどう説明するのかな。近ごろの天変地異はこの惑星現象のしからしめる所だなんてね。

初冬の高尾山

初冬の一日、初めて高尾山に登った。

東京西部の小学生は遠足で、高尾山か天覧山に登る。昔はそうだった。今は知らない。どちらの山かは最寄りの鉄道路線による。中央線より北なら天覧山、南なら高尾山。筆者は幸か不幸か北だったので天覧山。で、今に至るまで、世界的に?名高い高尾山には登ったことがなかった。麓の鉄道・一般道・高速道路は何回となく通過したが。

今回は、ケーブルカー利用で、高尾山から小仏城山を経て景信山への、小規模ながらも縦走。

ここが、観光地としてたくさんの人を集める理由がよくわかった。第一に交通の便が良い。麓まで都心からの鉄道線路が来ている。ケーブルカーで標高470mまで登ることができて、599mの山頂まで100mちょっとの山登り気分を味わえる。第二に、山頂付近からの眺めが良い。東の都心方向、南から西にかけて相模湾と富士山。これで、人が集まらなかったら、逆にそのほうがおかしい。眺望は自然現象だから天に感謝するしかないが、交通の便の方は人為による。京王電鉄の環境整備。

山歩きと、その観光地としてのありようの観察と、二つながら面白い経験だった。

一つ苦言。ケーブルカーで、交通系電子マネーカードが、改札口ではもちろん券売機でも使えず、窓口に駅員さんを呼び出してしか使えないこと。世界的に有名な観光地を標榜するわりには整備不十分。日本語の読み書きができる自分でも戸惑ったくらいだから、外国の人はこまるのではないかな。せめて券売機で電子マネーが使えるようにする程度のことはたいした投資額ではないと思う。ケーブルカーの親会社は京王電鉄なのだろうが、利用客の快適性向上に力を入れている会社にしては、抜けていやしませんかというところ。

『資本論』と100円均一ショップ

マルクスの『資本論』を(版元によれば)「精確にかつ批判的に読むことで,社会科学としてのマルクス経済学を構築した」宇野弘蔵『経済原論』(岩波文庫 2016年)を読んでいたら、おもしろい箇所に出会った。

モノの交換が商品を生み出し、商品交換が貨幣を生み出すというスリリングな場面。「金あるいは銀が貨幣となると共に、一般に商品所有者は…それぞれの商品の使用価値の単位量によってその価値を表示する。リンネル一ヤールは金幾何とか、茶一ポンドは金いくらとかというように」する。が、マルクスは「20エレのリンネル=1着の上着=10ポンドの茶=…1/2トンの鉄=x量の商品A=2オンスの金」のように一般的なものとは異なる、いわば逆さまな表現をしている。こういう「貨幣による価値表現は実際は、いわゆる均一価格店のような特殊な場合にしか見られないことであ」り、これでは一般的な「価値形態とその発展した形態としての貨幣形態との相違を無視することになる」と著者は苦言を呈する。(36-37頁 一部レイアウトを変更)

モノの1単位が金いくらかではなく、一定量の金でモノがいくら買えるかというマルクスの表現は、特殊な場合の例示であって貨幣出現の実際を見誤らせるかもしれないという批判の当否はさておき、興味深いのはマルクスの例示を著者が「均一価格店のような特殊な場合」としていること。均一価格店って、現代日本では100円均一ショップすなわち100均、つまりダイソー、セリア、キャンドゥ、ワッツなどでおなじみのありふれた販売形態ですね。100円という貨幣単位で、すべてのモノ=商品を表示する。価格ではなく商品のほうの量または質を増減する。店に並んでいるのはどれも100円だから、迷いがない。というところがお客さんに支持されている理由なんでしょう、たぶん。ひょっとして、こういうアイデアを考えついた人は『資本論』を読んでヒントにした? まさかね。

ところで、著者・宇野弘蔵(1897-1977)が生きて現代の100円均一ショップの隆盛を見たなら、著書のこの表現を修正したかも。あるいは、マルクスが生きてこの様子を見たら、自著の表現の普遍妥当性を誇ったかも。というのは単なるSF的妄想です。

晩秋のラジオ

今日、ラジオを聴いていて耳に残ったこと二つ。1134kHz文化放送。

一つ、学術会議議員任命問題。警備・公安畑の警察官僚出身官房副長官・杉田某が、件の候補者は反体制思想の持ち主だから認めるなという助言をし、それを現首相がなにも考えずに受け入れて拒否したのが真相だという話をゲストの誰だか知らない男性がしていた。ふーむ。権力小児病

二つ、天気情報を伝える女性アナウンサーが、きょうの様子を「晩秋の…」と形容していた。はてな、いつから、立冬過ぎても晩秋というようになったの。この人、この分だと小春日和もわからないな、きっと。でも、こういうのは他愛ないから目くじら立てる気にはならない。このあいだ、首相が辞めた時の会見を聞くか見るかして涙が出たなんていう勘違い歌手とちがってね。

米国大統領選二題

一つ。投票日の前後、首都ワシントンのホワイトハウス近くでは、なにごとが起こるやもしれぬ不安感から、住民が窓に板を打ち付けていたが、なにも起こらぬ様子なので、板をはがし始めたとNHK・BSデータ放送ニュース。結果を素直に受け入れない候補者あるいはその支持者が乱暴狼藉に及ぶかもしれないと住民が怯える近代民主主義の”母国”。

二つ。来年1月にはその職を去るだろう大統領が、意見の違い(人種暴動に連邦軍を派遣することを拒否した)を理由に国防長官を解任したが、新国防長官の任命に必要な議会上院の承認が出る見通しは暗いとこれまたNHK・BSニュース。選挙に負けて破れかぶれの八つ当たり。シェイクスピア『コリオレイナス』の主人公さながら、大人になりそこないの大統領

米国は、かつて、世界の諸問題を解決する力を持つと自負していた。その米国が、今や、問題そのものになりつつある。

トランプが負けを認めない

BSの”ニュース”が眼に飛び込んだ。

米国大統領選挙結果。トランプが敗北したらしい。だが、本人は負けを認めずに法廷闘争に持ち込むつもりらしい。

往生際の悪いやつだ。

専用機を乗り回したり、シークレット・サービスの24時間護衛を身辺に侍らせたり、現代の王侯気分を4年間も味わえたんだからもう十分だろう。

この大人のなりそこないめが!

ところで、この選挙、まだ結果が確定したわけではない。なのに、カナダやEC大国首脳が勝ち名乗りを上げた候補者と電話会談をしたり、わが政府は祝電を打ったりしているが、それって、内政干渉じゃないの。

内乱状態にある国家で複数の政治集団がそれぞれ正統な政権であると主張しているときに、一方の政治集団と会談したり祝電を打つことは、その集団の主張を認めることになる、というのが国際法の常識だったはず。

それを知らないはずはないから(政治家は知らなくとも、外交当局が知らないはずはない)承知でやっているのだろうが、いいんだろうか。トランプの主張や振る舞いはどうあれ、とにかく米国民のかなりの部分が票を投じたんだよ。そういう人たちの気持ちってものもあるんだから、成り行きが落ち着くまで待ってもよろしかろうに。今すぐそうしないと天地がひっくり返るってわけじゃあるまい。いったいぜんたい、ちかごろの政治家たちは何を考えているのかね。

晩秋の奥多摩・三頭山

10月下旬、奥多摩三山の一つ、三頭山に登ってきた。多く”みとうさん”と読むが、みどうさんとも。近接してピークが三つあるのでその名がついたという。最高は中央峰1531mで三角点もそこにあるが、東京都が建てた御影石の立派な山名標柱は西峰1525mにあり、自分を含めた登山客はそこを頂上とみなして昼食休憩などをとる。見晴らしもよい。

東京都の奥多摩周遊道路、檜原都民の森駐車場(標高約1000m)を出発して、ゆっくり歩くこと約2時間で西峰。あのCANPINGAZキャンピングガスのバーナーでお湯を沸かしてインスタントラーメン。たっぷり1時間休んで、下山。途中、この先、勾配が急だからこちらへ回れという都民の森管理事務所の親切な忠告掲示を無視して、計画どおりに同事務所謹設”ブナの路コース”を下りていったら、ホントに急坂でした。でも、無事出発点に戻ってありがたし。

上の写真は東峰1528mの展望台から都心方向を見たもの。遠方の山、左端が御前山、そのやや右のピークが大岳山。頂上付近はすでに葉が落ちているが、中腹は紅葉が見事。今回の山行きで、三つの山の位置関係がわかったのは収穫だった。

『暴君―シェイクスピアの政治学』とドナルド・トランプ

前回の記事『マザーレス・ブルックリン』に続いて、シェイクスピアの話題。副題に引かれて読んだのは、スティーブン・グリーンブラット 河合祥一郎訳『暴君―シェイクスピアの政治学』(岩波新書 2020年)。元本はStephen Greenblatt “TYRANT Shakespear on Politics” 2018。未見。奥付の略歴によると、著者は1943年生の米国の「シェイクスピア研究の世界的大家」だそう。訳文はこなれていて読みやすい。

この本のどこにも、ドナルド・トランプとかアメリカ合州国とかの、現代の人物・事物とつながる具体的なコトバは出てこない。が、しかし、巻末の謝辞で、近々の選挙結果について心配しているとか、食卓で、現在の政治世界にシェイクスピアは異様な関係性を持っているという話をするのを聞いて、家族がその話をまとめるよう勧めた、などと書いているところをみると、シェイクスピアの世界に仮託して、米国の現大統領と米国社会を批判的に分析あるいは風刺したものであることは間違いない。

たとえば、戯曲『ジュリアス・シーザー』に関連して

「古代ローマ人は、考える人よりもむしろ行動の人として偉大でありたいと願っていた。世界制覇を夢見るローマ人は、哲学的探求や、神経過敏な沈思黙考などはギリシア人に任せておけばよいと思っていた。しかし、シェイクスピアは、ローマの公的なレトリックの裏側に、何が正しい道なのかわからずに悩み、どうして行動に駆り立てられるのか半分も認識していないために困惑して葛藤する人々がいることを見抜いていた。しかも、ローマ人は世界という大舞台で動いているため、ますます危険は大きく、その秘められた個人的な動機には、公的な大惨事を惹き起こしかねない強い力があった。」196頁

などは、ローマ人を米国人と置き換えると、現代米国のありさまの説明としてそのまま通用する。「公的なレトリック」とは、イデオロギーのことだろう。つまり、米国社会のイデオロギーに疑うことなく從っている米国人(の多く)は自分たちの親イスラエル反パレスチナの姿勢やイラク戦争などの行動について半分も認識していないために、世界の多くがこうした行動に反発することに困惑して葛藤している。しかも、米国は世界を何回も破壊できる核軍事力を持ち、世界という大舞台で動いているため、大統領ドナルド・トランプの秘められた個人的な動機には、公的な大惨事を惹き起こしかねない力がある、とね。

また、戯曲『コリオレイナス』について

「文明化された国家では、指導者は少なくとも最低限の大人らしい自制心があるとみなされ、思いやりや、品位や、他者への敬意や、社会制度の尊重が期待される。コリオレイナスはそうではない。そうしたものがない代わりに、育ちすぎた子供のナルシシズム、不安定さ、残酷さ、愚かさがあり、それに歯止めをかける大人の監督も抑制もないのだ。この子が成熟するように助けるべきであった大人は完全に欠如していたか、もしいたとしても、この子の最悪の特質を強めてしまったのである。」216-17頁 

主人公コリオレイナスをドナルド・トランプに置き換える。そのまんま。ドナルド・トランプの親御さんあるいは周囲にいた大人たちがどういう方々かは存じませぬが、また人のあり方についてそれらの方々の責任をどこまで追求できるかは議論のあるところではありますが、そうだよな、その方々、いったい何をしてくれたの、あるいはしてくれなかったの、と思いたくはなる。

もうひとつ『コリオレイナス』で、ローマの執政官選挙における大衆的支持獲得の方策として選挙民への御愛想大盤振る舞いについて触れた後で

「政治ゲームにはよくある手だ。生まれついてあらゆる特権を持っていて、自分より下の連中を内心軽蔑していながら、選挙期間のあいだはポピュリズムのレトリックを口にして、選挙に勝ったとたんに手のひらを返すという、あれである。頭を撫で付けた政治家たちが建築現場での集会でヘルメットをかぶるのと同様に、ローマ人たちはこれを因習的な儀式としていたわけである。」223頁 

これなど、わが国を含め”民主主義”を標榜する国々で日常普段に見られる光景だ。

結部で、著者は

「シェイクスピアは、社会が崩壊するさまを、生涯を通して考察してきた。人間の性格を見抜く異様に鋭い感覚を持ち、デマゴーグも嫉妬するような言葉を操る技をもって、シェイクスピアは巧みに描いたのである―混乱の時代に頭角を現し、最も卑しい本能に訴え、同時代人の深い不安を利用する人物を。激しく派閥争いをする政党政治に支配された社会は、詐欺的ポピュリズムの餌食になりやすいとシェイクスピアは見ている。」243-44頁 

ここには、トランプの”ト”の字も出てこない。でもちゃんと読めばわかるという書き方。著者がこの本の冒頭で述べているように、シェイクスピアの時代、体制批判、国王批判は刑罰に直結した。シェイクスピアも、遠いローマや異国に舞台を求めて、同時代の問題を扱っているとは一見してわからないような筆法を駆使した。著者もこのことにならったのかもしれない。だから、現在進行形の政治・社会問題を扱っているキワモノ的な著作にもかかわらず、そういうことを離れて、シェイクスピアのいくつかの戯曲の、ちょっと変化球的な解説本としても読むことができる。うまいものだ。さすが「世界的大家」だけのことはある。

『マザーレス・ブルックリン』

『マザーレス・ブルックリン』、2019年の米国映画、日本公開は2020年1月。監督・製作・脚本・主演をエドワード・ノートンEdward Harrison Norton(1969-)が一人でやっている。今月になってビデオ鑑賞。”マザーレス・ブルックリン”とは、主人公の自称私立探偵にそのボスがつけたあだ名。孤児でニューヨークはブルックリン育ちだから”母親のいないブルックリン”というわけ。

原作は、ジョナサン・レセムJonathan Allen Lethem(1964-)の同名小説”Motherless Brooklyn” 1999年。全米批評家協会賞などを受賞。これも映画を見てから翻訳(佐々田雅子訳『マザーレス・ブルックリン』 ミステリアス・プレス文庫 早川書房 2000年)で読んだ。

映画冒頭に”Oh, it is excellent to have a giant’s strength, but it is tyrannous to use it like a giant.”という引用句。調べると、シェイクスピア『尺には尺をMeasure for Measure』の登場人物イザベラのせりふ「ああ、巨人の力を持つのは素晴らしいこと、でもその力を巨人のように使うのはむごい暴虐です。」(松岡和子訳 ちくま文庫 2016年)。 これ、原作にはない。

じつは、上に書いたようなことはなにも知らずに見はじめたら、どうも聞いたことのある話が背景になっていて、既視感がある。

舞台は1950年代のニューヨーク。ノートン扮する、トゥレット症候群(チックという一群の神経精神疾患のうち、音声や行動の症状を主体とし慢性の経過をたどるものを指す。…症状のひとつに汚言症があり、意図せずに卑猥なまたは冒涜的な言葉を発する―ウイキペディア)のある主人公が、殺されたボスの秘密を探るうちに、都市再開発をめぐる闇に巻き込まれていく…というのが主筋。

背景として、市当局の都市計画・建築監督官(アレック・ボールドウィンが役のために体重を増やしたのか、脂肪太りした権力亡者の不愉快な人物を、いつもの甘ちゃん二枚目風を捨てて好演)が、強引にスラム街一掃の都市再開発を推し進めるのに対し、初老白人女性の活動家が、現に住んでいる人々の生活お構いなしのやり方に市民運動を組織して抵抗する話が絡む。

その白人女性の風貌が、当時ニューヨーク在住で、人間不在の都市再開発批判の論陣を張ったジェイン・ジェイコブズ(Jane Butzner Jacobs 1916-2006)に似ているのだ。市当局の監督官も、劇中でモーゼス・ランドルフと呼ばれているけど、たしかそのような名前の人物がニューヨークの都市再開発推進者の中にいたよなと思ったら、いました、ロバート・モーゼスRobert Moses(1888-1981)、「20世紀中葉にニューヨーク市の大改造を行ない、「マスター・ビルダー」(Master Builder)との異名を取り、19世紀後半皇帝ナポレオン3世治下でパリ改造を推進したジョルジュ・オスマンに比肩される」とはウイキペディア。

ついでにノートンのことを調べたら、大学で天文学・歴史・日本語を学び、1986年、母方の祖父が都市問題の講演に招かれて来日したときに同行して通訳をつとめたという。その祖父ジェームズ・ラウスJames Wilson Rouse((1914-1996)は、ロースクールを出て、連邦住宅局勤務ののち住宅ローン会社を設立し、第二次大戦後、都市計画プランナー、市民活動家というのがウィキペディア情報。

原作は、おそらく、書かれた時点の少し前の1980年代後半から90年代はじめが舞台で、日本人が絡む。ニューヨークの半分は日本人所有だなどと、今のすっかりしぼんでしまった日本国からは想像もできない、あのバブルの頃の日本が背景になっていて、米国東海岸のウニ漁獲を日本人が買い占める話だとか、禅の道場だとかがでてくる。都市再開発のことなどまったくでてこない。映画が使ったのは、主人公の人物造形やハードボイルド風の世界観。

はやくも2000年にはノートンが映画化を考えたというから、完成するまでに20年。資金の問題がいちばん大きかったのだろう。でも、その20年は無駄ではなかった。原作の主人公造形とハードボイルドタッチを、1950年代ニューヨーク再開発の暗部と絶妙に絡み合わせた脚本はうまい。トゥレット症候群の主人公のノートンは言わずもがな。冒頭で殺されてしまうが、ボス役のブルース・ウィリスもさすがの演技。こういう短い出番でもきちんとこなす役者魂には脱帽です。原作翻訳者の佐々田雅子が、訳者あとがきで「なお、この作品は『アメリカン・ヒストリーX』『ファイト・クラブ』の若手俳優エドワード・ノートンの制作・主演で映画化されることが決定している。才人の原作に、やはり才人の評判高いノートンがどのように取り組むのか、結果が待ち遠しいところである。」と書いている。その「若手俳優」がいまや50歳! 映画として熟成するためにはそれだけの年月が必要だったということか。

あ、それと音楽。ジャズですね。なかなか良い。おまけに、どう見てもマイルス・デイヴィスでしょう、というトランペット吹きが重要な役柄ででてくる。これも、本物にそっくりなんだな。

ま、というわけで、この映画、特典映像でノートン自身が言っているように、1950年代のニューヨークの都市再開発でなにがあって現在のニューヨークができたのかについての報告書のような側面がある。自分にとっては、そういう面も含めて面白い映画だった。映画そのものと、その映画の背景世界についてあれこれ考えさせてくれる、いい意味で「ひと粒で二度美味しい」作品。吟醸香が鼻腔に漂い、舌に滑らかな、値段は高くないけれど掘り出し物の日本酒というところかな。

これがきっかけで、シェイクスピアのその芝居も読みましたが(残念ながら翻訳で)、これもおもしろいですね。話すと長くなるので端折って。題名の『尺には尺を』が新約聖書マタイ7-1「また自分が測るその測りによって、自分も測られる」あるいはマルコ4-24「あなた方が測るその測りによって、あなた方自身も測られることになろう。」(いずれも田川建三訳) への言及だろうということになっていて、その根拠として5幕1場大詰めの公爵のせりふが挙げられている(ウイキペディア)。いわく「クローディオにはアンジェロを、死には死を、早急には早急を、猶予には猶予を、類には類を、尺には尺をもって報いるのだ」(上掲書189頁)と。

でも、これ、わざわざ新約聖書のその節に言及したというほどのことではないのではないかな。われわれが、たとえば「因果応報」などと口にするのと同じく、彼の地の人たちにとって”measure for measure”はそれが新約聖書に典拠があるなどということは意識に上ってはいなかったんじゃないか。シェイクスピアを含めて。

シェイクスピアの芝居は多様な解釈を許すものだろうから(だからいままで残っている。当たり前か)、映画との関連をあれこれ言いはじめたら切りがないのでやめておくけど、『尺には尺を』と映画『マザーレス・ブルックリン』とは関係があるといえば言えるし、ないといえばないし…。ただ、映画冒頭の引用句(エピグラフというのですか)はじゅうぶん関係があるように思いましたね(だから引用したんだろうけれど。当たり前か)。これもあれこれ言い出すと、元東大総長のフランス文学者某氏のごとく映画をさかなに手前勝手な屁理屈をこねくりまわす無粋になりそうだし、ご鑑賞の妨げになるからやめておきます。

ついでにいうと、まったくの門外漢が、坪内逍遥や夏目漱石以来の長い伝統あるシェイクスピア研究に異を唱えて申し訳ないが、”Measure for Measure”に『尺には尺を』という日本語題名を与えるのはそろそろなんとかしたほうがいいのじゃないですかね。尺貫法も廃止されてから久しいんだし。最初、この題名を見たときには、笛を吹く人の話かなにかと思いましたよ、尺八をね。ちなみに候補として『裁きには裁きを』なんていかがです。

ついでにもう一つ。原作でも映画でも、主人公のマザーレス・ブルックリンことライオネル・エスログが、自分の内なるもう一人の自分―自分が吐き散らす悪口雑言の想像上の聞き手―につけた名前がベイリー。そのベイリーとは「たぶん、ベイリーは『素晴らしき哉、人生!』のジョージ・ベイリーのようにどこにでもいる人間なのだろう。」(上掲書19頁)というわけで、フランク・キャプラの、公開当時は興行的に失敗したが現在では米国内においてクリスマス映画の定番になっているという1946年米国映画”It’s a Wonderful Life”の主人公。ベイリーは、父親から庶民相手の小口住宅ローン会社経営を受け継ぎ、悪辣な銀行家から苦しめられるという設定だった。

日本のイスラーム研究者

さいきん読んだ内藤正典『イスラームからヨーロッパをみる―社会の深層で何が起きているのか』(岩波新書 2020年)の読後感。著者は、1956年生の現代イスラーム地域研究者。

この本、シリアの内戦による難民の大波が押し寄せたヨーロッパ社会の反応をまとめた好著で、教えられるところ多々あり。

たとえば、ドイツで、ムスリム女性の被り物について、「学校の現場で教員が着用することについては禁じる州(ラント)もあるし、その議論では、あらゆる批判が可能である。では、同じことをユダヤ教徒に対してもできるか、というなら、現実的にはそれは不可能である。カトリックの修道女に対して、ヒジャーブと同じように非難することが可能か、というならそれもできない。」(40頁)

そうか、カトリックの修道女も、被り物だったよな。で、カトリックの修道女は天下御免で、ムスリム女性は非難される。そういうダブル・スタンダードがヨーロッパにはあるという指摘。なるほど。

著者が、イスラーム世界に共感をもって接していることは、行論の端々からうかがわれる。とくにトルコについてその感が強い。トルコとECとの加盟交渉の途絶を、EC側の不誠実(とくにフランスがトルコのキプロス共和国未承認問題を持ち出したこと)を原因として説明し、もしトルコがECの一員であったなら難民問題も現状とは異なる展開となっていただろうとするところなどはその典型か。

この本には、著者のヨーロッパ社会への批判的まなざし(とともにイスラームとの共生に失敗しつつあるヨーロッパへの悲観的まなざし)がほうぼうに見えていて、そのまなざしは、ヨーロッパ(の報道機関)を経由して、ということはヨーロッパ的価値観に即してこれらの事象を受け取る日本社会にも向けられているかのようだ。

大川周明以来(もっとさかのぼる?)、日本にはイスラーム研究の長い伝統があるのだろうが、イスラームの実像が正しく認識されていないという焦燥感、あるいは反イスラーム的な世論が多数を占めるなかでのアウトサイダー的感覚を、この本の著者は持っているようだ。さて、この感覚は、日本のイスラーム研究者には共通することなのだろうか。