日々草は、草ではなく木だった

8月末、自宅前歩道街路樹の根本の草抜きをしていたら、そこに植えてある日々草の花が「いつまで咲きますか」と老女に声をかけられた。「うーん、この勢いだと、もうしばらく咲くのではないですか」というのが自分の答え。「そうですかー」と老女は去る。

ほんとうは木の日々草

はて、今の答えでよかったのだろうか。自宅に戻って、インターネット。

ウィキペディアによれば、日々草はマダガスカル原産のキョウチクトウ科ニチニチソウ属、アルカロイドを「全草」に含み、食すると嘔吐や下痢程度では済まないと。ホー、知らなかった。

他の園芸情報サイトは、日々草は低木、原産地の熱帯では、木だからもちろん露地で通年育つが、日本では冬の低温で枯れてしまうので一年草として扱われると。ホー、知らなかった。

かんじんの花期だが、10月までだと。「もうしばらく咲くのではないですか」という言い方は間違ってはいなかった。やれやれ。

しかし、この世は、未知のことがらに満ちている。

4年も間があくと、デジタルの世界では浦島太郎になる

4年と5ヶ月ぶりに投稿。
2010年にはじめたこのブログ、数年前に改題したが、新規投稿は久しぶり。この間、HTTPがHTTPSに、FTPがSFTPになり、WordPressも3.xから5.xに。まるで浦島太郎状態だ。
放置していたこのブログもそれらに対応するため、にわか勉強で、なんとか。SSL/TLSを導入しないと、つまりHTTPのままだと、ブラウザーに「危ないアクセス」だの「不明なアクセス」だのと脅され、つながらない。安全性が向上するのは悪いことではないから、さっそく手当したというわけ。
しかし、SSL/TLSのもとになった公開鍵・秘密鍵暗号方式を考えた人は偉い。つくづくそう思う。

NHK受信料が払えない

NHKのホームページで、ブラウザーとしてFirefoxを使い、クレジットカード一時払で受信料を払おうとすると払えないという話。

Firefoxで、NHKのホームページにアクセスし、受信料支払画面で、クレジットカード一時払をクリックすると、下の画面のようなことになって先に進まない。下の画像はWindows10のもの。

NHK受信料のクレジットカード一時払いの画面

NHKふれあいセンターに電話して、クレジットカード一時払にアクセスできないというと、しばし待たされて、男性のオペレーターが自分の手元の端末ではアクセスできるという。

電話を切って、Windows10ノート、Windows10デスクトップ、Ubuntu18.04デスクトップ、MacBookProのEl Capitanで、Firefox、Chrome、Edge、Safariを試す。結果は、Firefoxのみアクセスできず、他は皆アクセスできる。ふれあいセンターに再度電話、女性オペレーターに以上のことを申し述べ、Firefoxでアクセスできるようにするか、Firefoxは使えないと表示してほしいと要望。上に伝えます、ということだったが、さて。

4年目の大震災

4年前の昨日、東北を中心に関東・甲信・北海道の一部にまで被害が及んだ地震が発生したのだった。

そのためか、昨日、自分の住む自治体が、防災無線と称する野外拡声装置で地震が起こったのと同時刻における黙祷を呼びかけていた。これはいったいどういうことか。誰が、なにをどう黙祷するというのか。

地震そのものは自然現象としての海底地震だったが、被害のほとんどは人間によるもの、すなわち人災であった。人の作為によるものか(地震国の日本のしかも津波常襲地帯の東北地方の海岸に原子力発電所を作るという作為など)、あるいは無作為によるものか(地震は起こるものであり津波も襲って来るものであるという事実にも関わらずしかるべき備えを怠った当局者の無作為など)を問わず。

それゆえ、この地震災害(震災)の周年を記念し犠牲者を追悼するのならば、その人災としての災害のよってきたる所以のものを明らかにすることが必須のはずである。人災とは読んで字のごとく、人の行為が原因なのであり、その責任を追及し同様の災害が繰り返し起こらないように関係者を戒めることがなければ、無念の死を死ななければならなかった犠牲者をほんとうに追悼することにはならないからである。

死者を悼むということは、本来、きわめて個人的かつ私的なことであると思う。それを、集団的かつ公的なものにするということは、そこに集団(社会や組織)内部におけるなんらかの上下関係的権力行使を伴う動き、つまり言い換えると政治的な意図(上が下を、上の都合の良いように事実をねじ曲げて従わせること。)などがそこにはあるということだと思う。そこに見えるのは、震災犠牲者追悼を集団的かつ公的なものにした者たちが、追悼の目的を曖昧にしたまま、死者の弔いという情の部分に訴えかけることによって、震災の人災的側面を隠蔽し、自分たちの責任をうやむやにしておこうという魂胆である。この者たちとは、つまりは高級官僚・大多数の政治家・大企業の複合体、いわゆる原発村の住人たちなど、作為か無作為かを問わず、震災災害に対して責任を取ってしかるべき者たちなのである。(江戸の公方様のおわしました頃であれば、関係者全員切腹、家名断絶、係累は江戸十里四方所払い、とでも処断されたことであろうが。)

 自分の住む自治体の当局者がこのような呼びかけを独自に主体的意図を持って確信犯的にしたというのではない。この自治体の当局者にはそこまで用意周到のことができる力量はない。おそらく、上部機関、総務省あたりから都道府県知事宛に「お願い」と称する指示が降りてきて、それを都道府県が傘下の区市町村に伝達し、それを受けて「徘徊老人」の探索依頼までご親切に放送するこの自治体の当局者が「じゃあ、一丁放送して上様からの指示には忠実に従いましたというアリバイ造りだ。」ということになったわけなのだろう。

こんな追悼だの黙祷だのでは、あの数千人の犠牲者は浮かばれまい。なぜって、加害者が被害者に対して何らの反省や謝罪をするでもなく、その当の加害者が被害者を追悼するというのだから。こんなに人をバカにした話はない。

あの4年前の震災の犠牲者を、言葉の本来の意味で正しく追悼するにはなにをすべきなのか。それは、彼らを無念の死に追いやった張本人たちの呼びかけに応じて「追悼」するのではなく、作為であるか無作為であるかを問わず、この災害の原因を作った者たちの責任追及と断罪を徹底し、将来にわたって同様の惨害が起こらないように自他を戒めることに尽きるだろう。

あの4年前の災害から、自分は多くのものを学んだが、その最大のものは、政府やマスコミは頼りにならない、頼りになるのは自分と自分の近くの人々だけということである。普段から一般庶民としてできる範囲の備えをし、イザというとき、政府やマスコミの嘘に惑わされて、イザとならないようにしたいものだというのが今日ただいまの実感である。しかし、イザとなるかならぬか、こればかりは天のみぞ知る…だが、イザとなってしまっても加害者たちから追悼されるような惨めなめに遭うことだけはまっぴらご免である。

70年目の東京大空襲

70年前の今日、1945年3月9日の深夜から翌10日未明にかけて、現在の墨田区・江東区・台東区・中央区を中心に、当時の敵国・アメリカ合衆国軍の爆撃機編隊が大量の焼夷弾を投下した。これによって当該地域では大火災が発生し、非戦闘員である一般市民約10万人が亡くなった。いわゆる東京大空襲である。

亡くなった方々の大半は、なぜ自分たちがそのような死を迎えなければならないのか理由がわからないまま亡くなったに違いない。非業の死である。無念思うべし。

とくに子どもたち。戦争がはじまり、爆弾が空から雨あられのように降ってくる事態に立ち至ったについては、まったくもって責任がない彼らの非業の死の責任はだれがとるべきなのか。

誰が、どんな理屈をつけようが、ほとんど一瞬にしてそのような責任のない子どもたちを含む10万人にも及ぶ非戦闘員の死者をだすような戦争を始めることを正当化することはできない。

いや、死者の数は問題ではない。およそ戦争なるものは決して正当化できるものではない。誰か戦争を正当化しようとする人がいるならば、その人は、戦争によって利益を受ける輩なのであるか、あるいは無知蒙昧の輩であるのかのいずれかであろう。

この世に正しい戦争も正しくない戦争もない。戦争は理由の如何にかかわらず悪である。あの夜、無念の死を死ななければならなかった人々のことを思うならば、今、生を享けているものは皆、すべての戦争に反対し戦争への動きに抵抗しなければならないはずである。

この自戒および他戒の念を、70年前の今日、無念のうちに亡くなった人々へのせめてもの手向けとして書き記す。

 

 

NHK朝の連続ドラマの反社会性

今、NHK朝の連続ドラマは、ニッカウィスキー(固有名詞としてはウィスキーのィの字が特有のものであるようだが今は使わない)の創業者夫婦が主人公のようである。この宣伝効果なのか、巷ではウィスキーの売り上げが伸びているとも聞く。

筆者は、アルコール飲料といわゆる違法ドラッグとの間に習慣性・依存性薬物としての本質的な差異はなく、かたやアルコール飲料が合法で課税対象とされ、かたやドラッグの類が違法で当局の取り締まり対象とされるのは両者の発生の歴史的事情(アルコール飲料の発明はおそらく人類開闢とともに古く、その他のドラッグ類は古いが一地方にとどまるか、あるいは最近の発明)によるものでしかないと考えるものである。

アルコール飲料は、すべての習慣性・依存性のある薬物と同様、無害ではない。酩酊運転の危険は言うに及ばず、肝臓障害など各種の内臓疾患、はてはアルコー ル依存症(いわゆるアル中)などその害をあげればきりがない。だから、伝統宗教はキリスト教を例外として、仏教もイスラムも禁酒を戒律とするのだろうし、 キリスト教国としては異例かつ無謀な試みとはいえ、かつて米国で禁酒法が行われたのもそのような理由からであろう。

現在でも、アルコール依存症から抜け出そうと塗炭の苦しみを味わっている人も少なからぬことだろうし、その治療に当たっている精神科医療関係者からすれば、 アルコール飲料の販売と広告・宣伝がほとんど無制限であり、街に氾濫するコンビニエンスストアでそれこそコンビニエントに入手できる現状は噴飯物であろ う。

そのような事情を考慮すれば、現代社会におけるアルコール飲料の製造と販売、及び消費については、それが違法薬物と同じような危険なものであることを認識の前提とした上で、その他のこの種の歴史的背景をもつ事柄(煙草の製造と販売、及び消費)と同様、製造と販売については現在よりもいっそう厳格な規制(販売についてマスメディアを通じての広告・宣伝の規制、それが習慣性・依存性のある薬物であることの周知、販売場所の制限)を実施すべきだと思う。

このように考えると、「皆様のNHK」やら「公共放送」を自称するNHKが、アルコール飲料の危険性について一切触れることなく、ウィスキー製造及び販売会社の創業者夫婦の苦労話を、朝っぱらから、延々、半年にわたって「美談」として垂れ流すことが、いかに反社会的な犯罪行為であるかがわかる。

そもそも、NHKはこのような内容のドラマを制作・放送すべきではなかったが、放送してしまった以上、その後始末を能う限りすべきである。今からでも遅くない、毎回の放送ごとにテロップないしアナウンサーの言葉で、アルコール飲料の危険性を周知するなどし、次回の連続ドラマはアルコール飲料の危険性をテーマとした内容で「解毒剤」として放送すべきである。

もしNHKがこのような反社会的な行為について無自覚なままこのウィスキー連続ドラマを放送し続けるなら、ほとんど野放しに近いアルコール飲料の販売状況を憂慮する一市民として、NHKに対してしかるべき抵抗を為す権利を留保するものである。

歌舞伎

正月恒例の国立劇場歌舞伎公演を見た。

今年の出し物は、「南総里見八犬伝」。菊五郎一座に左團次が客演?ということになるのかな。菊五郎は脚力の衰えを隠せず、飛んだりはねたりの立ち回りなどは論外というところ。だが、せりふ回しはさすがで、音吐朗々、貫禄十分、場内隅々まで声が届く。

そういえば、同じ国立劇場の12月公演の吉右衛門も足取りが今ひとつだったな。10月公演の幸四郎にはあまり感じなかったのだが、同世代でも個人差があるということか。いずれにせよ、大芝居の世界も、彼らの子どもたち、菊之介や染五郎との世代交代の時期にあるのだろう。

ちなみに筆者はいつも1500円の3等席。数年前までは3階席の後ろ3分の一ほど、4〜5列が3等席だったのだが、現在は3階席最後部の一列と1階最前部の左右両脇のみ。そのとき、これは実質的な値上げではないかと国立劇場のモギリの人に抗議したら、後ほど担当者がご説明にうかがいますとのこと。幕間にその担当者が来られたのだが、自分と歳もあまり変わらない人の良さそうな方で、国立劇場の監督官庁である文部省の天下り役人でも来たら一泡吹かせてやろうとてぐすね引いて待っていたのに拍子抜け。あれこれ世間話をしてお開きのお粗末。

そんなわけで、少なくなったとはいえ、3等席がまだあるというのは、このせち辛い世の中では奇跡とも。なにしろ、1500円で、数百年続く伝統芸能の実演を、休憩をはさんで4時間も堪能できる機会なんてそうざらにはない。願わくば、三文役人風情が、受益者負担なんぞと利いた口を聞いてわずかに残った1500円席をなくさないことを。

水星

ここ数日、西の夕空に水星と金星、火星を見ることができる。

1月3日の午後5時前、パソコンで、Stellariumというフリーのプラネタリウムソフトウェア(筆者はLinux系オペレーティングシステムのUbuntu上で使っている。アップル社のMacオペレーティングシステムやマイクロソフト社のWindowsオペレーティングシステム上でも使えるようだが試したことはない。)を動かしていたら、午後5時ごろから金星と水星が、やや遅れて火星が見えるということなので、双眼鏡を持って外へ出てみた。

金星はすぐに確認できた。さて、水星は。

Stellariumでは、金星のやや右斜め下方すぐのところに見えるはずなのだが、肉眼では確認できない。双眼鏡(対物レンズ径35mm倍率7倍)でそれらしきところを覗くと、針の先ほどに光る点が見えた。もう薄暗くなりかけている東の空を含め全天に星らしきものはいっさい見えないので、まだ明かりの残る西の空に見える針の先ほどの点は惑星、すなわち水星に違いない。
時間が経過するにつれ金星と水星の高度が下がって地平線に近づいてくる。すると、双眼鏡でしか確認できなかった水星が、かろうじて肉眼でも見えるようになってくる。地平線下に沈むまでの10分ほど、輝きを増してくる街の明かりに隠れそうになりながら水星は視野の中にあった。そして見上げると上空には火星が。
コペルニクスは死の床で、水星を見ることができなかったことを悔やんだという。太陽に一番近い惑星である水星は条件が整わないと観察することが難しい。あの大コペルニクスにしてしかり。その水星を、今回、Stellariumに教えられて見ることができた。幸運である。
インターネットというものがあり、それを通じて世界のどこかで、どなたかが苦心して作られたフリーのソフトウェア(オペレーティングシステムのLinuxとその派生型のUbuntu、プラネタリウムソフトウェアのStellariumなど)を使うことができるのはコペルニクスの時代には考えられなかったことである。コペルニクスにあらざるこの自分が、いとも簡単に肉眼で水星を見ることができたのはインターネットのおかげであるといって言い過ぎではないと思う。ありがたいことである。「井戸の水を飲むときは掘った人の苦労を思うべし。」

PS その後1月5日まで天候にも恵まれ、順調に水星を見ることができている。

吉野家の牛丼

昨年末、総選挙の数日後、吉野家に持ち帰りの牛丼を2個買いに行った。600円ちょうど持って。
小さな張り紙がしてあって、値上げのお知らせらしい。目を凝らすと、牛丼並300→380。なんと一挙80円、30%近い値上げ。なので、買えずにそのまま引き上げたのだが、おそらくこれから先、当分、吉野家の牛丼は食べないだろうな。

値段が上がったからというのはもちろんだが、それよりも、政権与党の権力者に睨まれるのが怖いからなのかなんなのか分からないが(庶民の生活感覚に直結する、数百円単位で売り買いされる生活必需品の、総選挙直前の値上げには、いかに政治に無関心な一般庶民といえども少しは怒って投票所に行き自民党と公明党以外の政党に投票することになるかもしれない。そうしたら自民党・公明党の議席は減ったかもしれない。その責任を追及されるのが怖いのか…)、総選挙が終わってから待ってましたとばかりに値上する吉野家の経営者の根性が気に食わない。いったい彼らは誰のおかげで飯を食わせてもらっていると思っているのだ。毎日、百円玉数枚握りしめて全国の吉野家店舗で牛丼を食べている庶民のおかげではないか。その庶民よりも、時の権力者にへつらうような経営をしていると、早晩、庶民の支持を失うことになるぞ。
このところの円安と消費税増税で、石油を筆頭に物価万般が上昇し(すなわちインフレ)、輸入牛肉の価格も例外ではなく、アメリカ産牛肉に依存する吉野家の牛丼もいつかは値上げに踏み切らなければならなかっただろうということは、歓迎できることではないが、まあ、わからないでもない。たとえそれが30%近い大幅値上げであっても元々の牛丼並一杯300円が安すぎたともいえるから。
でも、この値上げのやり方はいけません。やるなら正々堂々、経済合理性にのみ則って他の一切の事情に顧慮することなく(選挙前に値上げして政権政党に楯突いたと睨まれるのが怖いなどどうでもよいことを顧慮することなく)、かくかくしかじかの理由で品質と安定供給を維持するため値上げのやむなきに至りました。庶民の皆様のフトコロを直撃したお詫びのしるしとして役員一同腹を切って…、というのは時代が古すぎるから、頭を丸めて向こう1年間役員報酬を30%カットいたします、ぐらいのことをやれば自分としてもたとえ300円が380円になろうとも吉野家の牛丼ファンでありつづけるのだがねえ。吉野家の現経営陣には腹の据わった人物がいないのかな。

2015年 年の始めに

今日、2015年の始めの日。ここ、日本の東京の西のはずれでは日の出は拝めたが、やがて暗雲たれ込めて、雪がちらつきはじめた。積もることもなく、夕方になって夕焼け空のお日様の顔も拝めたが、この雲行き、なにやら今年の行く末を暗示しているようなしていないような…。

この地上で、人間がなにをどうしようとも地球は太陽の周りを回り、自らも自転することに変わりはない。かくして、1年という年が往き、1日という日が過ぎる。まるで天が、愚かな人間のすることを哀れんでいるかのようである。いったい君たちはなにをすき好んでつまらないことに大騒ぎし飽きもせず同じことを繰り返すのかね。ま、そんなことはこの大宇宙から見ればどうでもよいことなのだが、とにかく舞台だけは回しておいてやるからね、というごとくに。

さて、せっかく天が舞台を用意してくれているのだから、この舞台の主役を気取っている人間、しかも舞台の中央を争っている先進諸国民はとくに、良い演技をしなければ義理が立たないと思うのだが、はたしてその演技は天から合格点を貰えるものなのだろうか。合格点を貰えないということは、すなわち落第だ。学生さんの場合は落第しても復活は可能だが、人間の場合、落第しても復活は可能だろうか。人間の落第の先にあるのはいったいなに?