国益とは何か

新聞・TVの社員ジャーナリストは、「首相をころころ変えるのは国益に反する」などと言う。

ころころ変わるのは、なんのためかといえば、彼らが愚にもつかない「世論調査」で、「空気」をつくり、ころころ「変える」からだろう。

バカを言っちゃあいけない。自分たちで原因を作っておいて、その結果を「国益」に反するだなどというのは、天に唾するようなものだ。

「国益」もかわいそうなものだ。新聞・TVの社員ジャーナリスト風情が、自分たちの不始末をゴマカすために使われるとは。

「国益」などという大事な言葉は、彼らのように間違って使ってはいけない。

本当に使うべきは、例えば、次のような文脈においてである。

この極東の島国で、1億2000万人余が、平和で幸福に、誇りを持って暮らしていくためには何が大切か。すなわち、何が、日本国民にとっての利益になるのか、つまり国民益=国益になるのか。

高級官僚や新聞・TV、菅直人や自民党が「日米同盟関係が最重要」言い募るように、混乱して沈みかけている米国を唯一のパートナーとして、あたかも下駄の雪のごとくに付き従っていくことが国益なのか。

それとも、この、ユーラシア大陸の東端に位置する島国と言う地理的条件をふまえ、真に独立した主権国家として、中国、ロシア、韓国、東南アジア諸国、そして太平洋を挟んでの隣国である米国と、対等にして友好的な国家関係を作っていくことが、国益なのか。

ブログ主は、もちろん、後者が真の国益を実現する立場だと思っている。

ところが、現状はと言えば、この日本列島に、米国の軍隊が基地を置き、治外法権状態のまま、勝手気ままに使いたい放題などという、わが国開闢以来、絶えてなかったことがまかり通っている。これは、第二次世界大戦終結後も、事実上の米国による日本占領が続いている国辱的状態であり、日本国民が主権を行使できないでいるという、およそ国民の利益に反する状態である。

第二次世界大戦の終結後、先輩たちは、経済復興を最優先に働いてきた。おかげさまで、私たちは今、開闢以来、未だかつてなかったような繁栄の中にある。戦争直後の国民共通の夢だった「銀シャリをお腹いっぱい食べる」は、まさに日常茶飯のことになった。

しかしながら、「人はパンのみにて生くるものにあらず」、その志によっても生きるものである。「一寸の虫にも五分の魂」とも「匹夫もその志を奪うべからざるなり」とも言うではないか。おかげさまにて、衣食足りた今、私たちは、独立国家の主権者としての誇りを取り戻すときがきたのではないか。

であれば、その第一歩は、現行の日米安全保障条約を改定して友好平和条約のようなものに変え、日本国内にある米軍基地を即刻撤去し、第二次世界大戦終結以来続いている事実上の米国による日本占領を、一刻も早く終結させることである。

しきりに「国益」を口にする、高級官僚や新聞・TV、菅直人や自民党の諸君に、はたして、このことの自覚のありやなしや。

公約破りをそそのかす読売新聞

読売新聞は、2日付の社説で、民主党菅直人政権に対し、「一般会計に特別会計を合わせた予算全体の組み替えで必要財源を捻出できるとした民主党の公約は、とうに破綻している」から「一刻も早く公約の大胆な見直しに踏み切るべきだ」と説教している。

おー、大胆ですな。

読売は、菅直人に、国民との約束すなわち公約を破れ、とけしかけているわけです。

公約を破れ、ね。

公約・約束を破るということは、まっとうな世間の常識では、嘘をつくということだ。

つまり、読売さんは、天下の公党に嘘をつけとそそのかしていることになる。

たしか、新聞社は編集部門の社員募集に、大卒程度という条件を付けている。読売もそうなら、少なくともこの社説を書いている人は大卒程度の能力をもっているはずだが、はてさて本当かね。

嘘をついてはいけないし、まして、人に嘘つくようにそそのかしてはいけない、なんてことは、保育園児・幼稚園児だって知っているよ。

読売の社説を書く編集部門の社員の能力は、保育園児・幼稚園児以下ということだな。

読売さん、保育園児・幼稚園児以下の能力しかない人間が作っている新聞紙を、おアシをいただいて売っちゃあいけません。そいつは、詐欺やペテンのたぐいだ。そんなアコギなことをしていると、罰が当たるよ。

エジプト情勢とアメリカの忠実な番犬である日本経済新聞

エジプト人でタレントのフィフィさんが、自身のブログで、エジプトの反ムバラク運動について熱い思いを語っている。

フィフィさんによれば、今、エジプトで起こっていることは、一義的にはムバラク政権打倒の民衆蜂起だが、ムバラク追放を求める民衆の心には、ムバラク政権を背後で支えているアメリカへの怒りがあり、アメリカはエジプトにかまわないでくれ、中東に介入しないでくれ、というのがその怒りの中身なのだという。

これを、ブログ主流に解釈すれば、アメリカは、中東の石油利権を押さえておきたい、そのためにはイスラエル国家というアメリカに忠実な橋頭堡をこの地に確保しておきたい、イスラエルと良好な関係をもつエジプトのムバラク政権も、したがってアメリカにとっては重要な駒の一つだから、30年間も権力を握り続けている独裁政権であっても、イラクのフセイン政権に対してとは異なり、片目どころか両目ともつぶって、手を握り続けたというわけなのだろう。

これは、自分に都合の悪い独裁政権は大量破壊兵器を隠し持っていると言いがかりをつけて大軍をもって攻め込み崩壊させるが、自分に都合の良い独裁政権は支援するという、例によって例のごとくの、「自由と民主主義」の本家本元を自称するアメリカ合衆国のご都合主義だ。

今、エジプト起きていることは、この、アメリカの偽善と、その偽善に支えられた自国の腐敗独裁政権への怒りが根底にあるというフィフィさんの指摘は、そのとおりだと思う。この、フィフィさんの、エジプトを愛するエジプト人としてのブログでの発言には感心した。

ところで、アメリカの偽善的な振る舞いを、忠実な番犬のごとく、アメリカの側に立って報道する新聞がある。

いえ? アメリカの新聞ではありません、日本の新聞だ。そう、日本経済新聞。

4日、ネット配信された「カイロ=花房良祐」と署名された記事。カイロにいる花房という人が書いた記事と言うことでしょうな。

記事の見出しは、なぜか、数時間のうちに、「エジプト、反体制派が大規模デモ 「退陣の金曜日」と気勢」から、「エジプト、大規模デモ 大統領退陣求め「最後通告」」へと変わった。

その記事中の一文、「政権側と反体制派の溝は埋まっていない。ムバラク大統領は3日、辞任は混乱を招くとして任期満了まで職にとどまることに理解を求めた。」

「理解を求めた」?

誰に理解を求めたのだ。書いてないじゃないか。欠陥文章だよ。こんな文章をそのまま出稿した取材記者、それを見過ごした外信部だか外報部だかの担当デスク、それをチェックできなかった記事審査部だか校閲部。新聞の基本中の基本である記事の文章そのもので、こんな初歩的なミスを平然とやらかす日本経済新聞。

極めつけは、次の一文。

「1日には全土で100万人規模の抗議デモが発生したがムバラク大統領は次期大統領選への不出馬を表明したのみで即時辞任は拒否した。ただ一部の市民や観光産業に従事する関係者は都市機能のマヒにつながっている抗議デモにいら立ちを募らせており、大統領側も「混乱より安定が重要」と強調、沈静化を図っている。」

「一部の市民」って何?

市民ってことでくくられる人は沢山いる。反ムバラク派も親ムバラク派も同じく市民だが、花房君、君が話を聞いたのは、どっちなのかね。都合良く、自分の主観を記事に塗り込めながら、「一部の市民」などとさももっともらしく客観を装う詐欺的行為をしちゃいかんよ。

「観光産業に従事する関係者」?

花房君かまたは家族が日本に帰ろうとして航空券を買いに立ち寄った旅行代理店の窓口担当者が、たまたま、飛行機の予約は混雑してますよ、と渋い顔で言ったのを、花房君の主観で勝手に解釈して「いら立ちを募らせて」いることにしちゃったんじなあないのか。君はフィクションをつくるのがうまいね。

「沈静化を図っている」?

沈静化を図ってほしい、と花房君が願っているということじゃないのかい。そんなに、君は、ムバラク政権が、ということは、エジプトにおけるアメリカの支配が続いてい欲しいと願っているのか。

とまあ、わずか数行の記事にも、体制の、ということはアメリカに支持されてきたムバラク政権に肩入れしようとする気分が丸出しになる文章を書く人間が取材記者としており、その記事を何のためらいもなく配信する日本経済新聞社。

こういうのをアメリカの番犬と言わずして他になんと言う。

こんな新聞を、高い金を払って読まされている読者こそ、いい面の皮だ。

a thousand winds または「千の風になって」のこと

秋川雅史の歌唱で広く知られるようになった「千の風になって」は、Do not stand at my grave and weep で始まる英語の詩が元になっているようだ。

元の英語の詩は、簡潔な韻文なので、わからない単語は辞書で引くなりすれば、ブログ主のような義務教育修了程度の英語力で十分読解可能と思われる。(末尾に、ウィキペディアからの引用を掲げてある。)

ただし、元になった英語の詩といっても、これがそれだと確定することは簡単ではないようだ。

ブログ主は、いつだったか、秋川雅史の歌唱で有名になる前、初めてこの英語詩に接した時、作者不詳だがアメリカでは葬儀で読み上げられることがある、ということを知り、そういうものかと思った記憶がある。

今回、あらためてインターネットで検索したところ、1930年代にアメリカ人の女性が、友人の母の死に際して作ったものが、人から人に伝えられていく過程で形を変え、今日、広く知られるようなものになった、という説が有力なようで、別にアメリカインディアンの言葉だという説もあるらしい。

いずれにせよ、このアメリカ人女性は著作権を主張していないようだし、その後の変形についてもだれも著作権を主張してはいない。

ところで、秋川雅史が歌っている「千の風になって」は、CDの発売元のホームページでは、シングル版には作詞:不詳、作曲・日本語詞:新井満となっており、アルバム版には作者不詳、作曲・日本語訳詞:新井満となっている。

作詞は不詳、日本語詞は新井満に、作者不詳、日本語訳詞新井満ね。

日本語詞なのか日本語訳詞なのかどっちなんだ。

元の詩は Do not stand at my grave and weep で始まる英語の詩で、作者は不詳、すなわち読み人知らずという認識であり、この詩に関連づけて新井という人が日本語の詞を作ったということなのか、あるいは、この詩を訳したということなのか。

これはどういうことなのだろう。

元の英語詩の日本語訳でもあるし、新井という人がほとんどゼロから作ったものでもあるということなのだろうか。

作詞:不詳または作者不詳というからには元の詩があることを認めているのだろう。その元の詩と、日本語詞あるいは日本語訳詞の新井満との関係がよくわからない。

関係があるとも解釈できそうだし、ないとも解釈できそうだ。曖昧である。曖昧にしているのか。

だから、ここから先は、ブログ主の勝手な思いこみになる。(ま、このブログ自体が思いこみ固まりなのだから、そんなこと、いちいち言わなくともよい!と叱られそうですが)

元の英語詩(下に引用した3種のうちいちばん最後のもの)と、新井という人の日本語詞・訳詞を比べて、まず浮かぶ感想は、新井日本語詞・訳詞は感傷的、お涙頂戴的という言葉だ。

英語や英文学、まして英語詩には目に一丁字もないブログ主でも、辞書を引き引き、なんども口ずさんで味わったところでは、原詩は、いつまでも墓の前でめそめそするな Do not stand at my grave and weep 、それよりもあなたはあなたの人生を生きなさい、この世界のどこかで私は見守っているから、というドライだが(湿っぽくない)暖かいメッセージを送っているように思える。

だが、新井日本語詞・訳詞は、「墓」に、「お」がついて「お墓」なのだな。もう、ここからしていけません。おまけに「泣かないでください」と死者が生者にお願いをしちゃうんだな。いったいなに、これ。「お墓の前でなんたらかんたら」ではなく「墓」の前で泣くな、汝墓前にて涙するなかれ、ではないか。

まあ、詩歌の受け取り方は人それぞれで、なにが正しいということはないのだから、ブログ主の感想は余計なお世話の域を出ないのだが、でも、英語の詩と、新井日本語詞・訳詞との間にある違和感については一言、言っておかねばという思いが強い。

さらに、思いをつづけると、この新井という人、「千の風」を商標登録している。

商標登録!?

元の英語詩に関わった人は著作権すら主張していないのだが…

まあ、それは人それぞれだからご自由にどうぞというしかないが、この人、公式ホームページによると、商標「千の風」の利用料を、いったん本人の口座に振り込ませ、その後全額を「千の風・基金」に送金し、社会福祉支援活動に支出しているという。

面白いことをしますなあ。

いくら、人の死に関わる詩だからといって、自分が訳したかあるいはそれに近いことをしたのなら、堂々と印税なりなんなりを受け取ればよろしい。「千の風」が広く知られるようになったのを絶好のビジネスチャンスと考えて商標登録したのなら、そこからの上がりも堂々と懐に入れればよろしい。

なんでこんな面白いことをするのかなあ。本人は、ホームページでなにやらおっしゃってますが、なんだかよくわからない。

あ、ついでといってはなんだが、この曲も、ブログ主の好みではない。感傷の上塗りです。

最後に一言。

ネットを見ると、秋川雅史歌唱の「千の風になって」を聞いて、身近な人の喪失感を癒されたという方は多いようだ。このブログ記事は、そうした方をあれこれ言おうとする趣旨ではない。秋川雅史歌唱の「千の風になって」で癒されたのなら、それはそれで結構なことだ。この記事は、あくまで、新井という人の日本語詞・訳詞と、原詩とされる英語の詩との間で、ブログ主が感じた違和感を記録したものであることを申し述べさておく。

(以下ウィキペディアからの引用。すべて題はついていない。説明の文言には手を加えてある。)

(1)作者として有力視されている Mary Frye によりオリジナルだと確認されたといわれるもの

Do not stand at my grave and weep,

I am not there, I do not sleep.

I am in a thousand winds that blow,

I am the softly falling snow.

I am the gentle showers of rain,

I am the fields of ripening grain.

I am in the morning hush,

I am in the graceful rush

Of beautiful birds in circling flight,

I am the starshine of the night.

I am in the flowers that bloom,

I am in a quiet room.

I am in the birds that sing,

I am in each lovely thing.

Do not stand at my grave and cry,

I am not there. I do not die.

(2)Mary Frye の友人の Margaret Schwarzkopf の両親の友人が、葉書に印刷したもの

Do not stand at my grave and weep

I am not there; I do not sleep.

I am a thousand winds that blow,

I am the diamond glints on snow,

I am the sun on ripened grain,

I am the gentle autumn rain.

When you awaken in the morning’s hush

I am the swift uplifting rush

Of quiet birds in circled flight.

I am the soft stars that shine at night.

Do not stand at my grave and cry,

I am not there; I did not die.

(3) Mary Frye が亡くなった時に、新聞の死亡記事(2004年9月)に載せられたもの

Do not stand at my grave and weep

I am not there; I do not sleep.

I am a thousand winds that blow,

I am the diamond glints on snow,

I am the sun on ripened grain,

I am the gentle autumn rain.

When you awaken in the morning’s hush

I am the swift uplifting rush

Of quiet birds in circling flight.

I am the soft starlight at night.

Do not stand at my grave and cry,

I am not there; I did not die.

政治評論家という名の煽動家

近頃、日本記者クラブというところで、三宅某という政治評論家の肩書きを持つ人物が、講演した民主党幹事長の岡田某に、なぜ小沢を切れないんだ、小沢のなにが怖いのか、切らないと内閣支持率がもっと下がるぞ、という趣旨の質問というか、そそのかしというか、恫喝というか、それらの混合したものというか、をしたという。

この三宅某は、政治評論家ということになっているが、この日本記者クラブでの発言は、反小沢の煽動家のそれである。

日本国では、いつから煽動家が評論家を名乗って、反小沢のプロパガンダを堂々とできるようになったのか。

ブログ主は、日本記者クラブというものの実態を知らない。その名称や振る舞いから推測すると、新聞社やテレビ局に所属する記者たちが集うところらしい。

だから、このときも、その場には新聞社やテレビ局に所属する記者たちが居合わせたのだろうが、この三宅某の発言をどう聞いていたのか。

記者クラブというからには、そこにいる人たちは、一応、客観公平の報道、不偏不党の評論を実践すると標榜しているのだろう。

であれば、三宅某のような煽動家の発言を黙って聞いていてはいけないはずだが、三宅某に対して、なんらか異議を唱えた様子はない。

してみると、この日本記者クラブに所属する記者たちも、三宅某と同様の反小沢の煽動家の集団なのであろう。そして、このクラブに加盟する新聞社やテレビ局も、同様に反小沢の煽動組織なのであろう。

困ったことだ。わが日本国には、煽動組織としての新聞・テレビ局はあるが、ジャーナリズムとしての新聞・テレビ局はないのだ。

半島情勢、もう一つの見方

半島の二つの国家の間で発生した砲撃戦について、わが国のメディアは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)非難一辺倒です。「狂気の沙汰である」と。

たしかに、わが国のメディアが伝える情報によれば、かの国は「権力の世襲」、「個人崇拝」、「大韓航空機爆破」、「拉致」など常軌を逸しているかのような振る舞いを重ねています。

しかし、待てよ。

「世襲」といえば、わが日本国でも、あの小泉のところの4代目を始め少なからぬ代議士が世襲だし、「個人崇拝」も北朝鮮に限ったことではない。「拉致」などテロは許しがたいことだが、じゃあ米国が中東からグアンタナモへ何人もの人を「捕虜」と称して連れ去ったのは拉致ではないのか、ということになります。

もちろん、他でもやっているから、というのは理由になりませんが、しかし、北朝鮮だけを非難するのはなんだかなあ、という気がしないでもありません。

そんなわけで、今度の軍事衝突。

よくよく考えてみると、米国は、ちょうど今、半島西側の黄海で大韓民国と合同軍事演習をしているんですね。

これは、北朝鮮にとっては、例えてみると、町内会の権勢並ぶもののない大ボスが、自分になびかない人物の自宅の庭先で、子分を引き連れてこれ見よがしに示威運動している、というようなものになるのではないでしょうか。これって、示威運動されている当の人物にしてみればいい気分のものじゃありませんよね。

気弱な人なら、これで降参するのでしょうが、そこがそれ「狂気」な人のこと。「なにおーっ」というわけで大胆不敵にも石を投げつけた、とまあ、こんぐあいなのではないでしょうか。

繰り返しますが、だからといって北朝鮮のやり方を支持しているわけではないのですよ。わが国の報道機関と称するものが伝える見方とはべつの見方もできますよ、と申し上げてるわけでして、そこのところは誤解のないようにお願いしておきます。

ところで、あらためて申すまでもなく、北朝鮮は、たとえ指導者が無道な人物であろうと、あるいは国民を苦しめていようと、国際法上認められたれっきとした独立国です。一地方に盤踞する野盗山賊のたぐいではありません。当然、独立国としての自衛の権利を持っています。

おまけに、町内会の大ボスは、過去に勝手に他人の家に上がり込んでやりたい放題したあげく、その家を滅ぼしてしまった前歴の持ち主です。

そんな例を見せつけられている誇り高い独立国としては、座して死を待つより、たとえ勝算はなきに等しくとも、乾坤一擲、打って出ようという気になったとしてもおかしくはないでしょう。

ちょっと前、わが日本国も、大日本帝国と称していた頃、同じようなことを言いながら町内会の大ボスと一戦構えたのではなかったでしたっけ。

さてさて、昔の人はいいことを言いますよ。「一寸の虫にも五分の魂」ってね。 

かの国を虫に例えては失礼かとは思いますが、あの町内会の大ボスに比べれば誰だって虫けらのようなもの。しかし、だからといって、なにをしてもいい、なにをされても黙っていなくちゃいけないってことはありません。

「窮鼠猫をかむ」とも言いますな。

あんまりね、力を笠に着てね、小さいものを追いつめるもんじゃありません。

お天道様の罰が当たるよ。

[付け足し]

屋山某?という産経新聞御用達の評論家が、「これで小沢一郎の国連中心主義は破綻した。日米同盟を堅持しアメリカに依存して安全を守るしか道がないことが明らかになった。」などと言う。いや、お待ちなさいな。明らかになったのは、あなたの頭の悪さであって、それ以外ではありませんよ。だってそうでしょう。あなたが頼りにしなくちゃあいけないとおっしゃるアメリカは、あんな小国(失礼、アメリカに比べればということです。)一つあしらうことができずに右往左往しているではありませんか。

そんなアメリカに依存する? バッカじゃなかろうか。

こんな程度の人物でも「評論家」と称して飯を食っていけるとは、わが日本国はおめでたい国でありますな。ありがたいことです。

彼岸花と金木犀

ヒガンバナとキンモクセイ、いずれも、独特な花色と香りでブログ主にとっては、あ、秋がきたな、ということを実感させてくれる植物です。

今年も、色と香りを楽しませてもらいました。

この秋は、例年より開花が遅かったですね。両方とも、9月の下旬、彼岸の頃に盛りを迎えるものですが、関東南部在住のブログ主の近辺では、彼岸花は10月に入っても咲いており、金木犀は10月に入ってから咲出しました。やはり9月中旬まで続いた猛暑が植物の開花時計を狂わせたのかもしれません。

ところで、Wikipedia によると、二つとも中国が出自とのこと。彼岸花は、稲作伝来時に土中に混入した球根が広まったとも、その有毒性に着目してモグラやネズミよけに持ち込まれたとも言われているそうです。歴史が古い。

一方、金木犀は江戸時代の伝来だそうで、意外と歴史が浅いんですね。

いずれにしても、日本の秋の原風景かとも思える植物が、実は中国から渡来していたというのは興味深いことです。

はなはだ言いにくいことながら

はなはだ言いにくいことながら、マスコミに騙される国民も国民だ。

街頭インタビューと称して紹介される一部の国民の発言。

やらせではないようだが、マスコミの発することばをそのままおうむ返ししている。やまびこ。こだま。

自ら判断して自分のことばで語ろうとしているようには思えない。

同胞諸氏を悪く言いたくはないが、やむをえない。

自分の頭で考え、自分のことばで語ろうとしない国民にはそれなりの政治しか与えられない。

検察審査会とやら。市民の目線とやら。健全な市民感覚とやら。

市民、て何ですか。

ブログ事始め

このたび、幾多の困難を乗り越えて、ブログをスタートさせることができました。独自ドメインの取得、レンタルサーバとの契約、WordPressのインストール、phpの勉強等々、まったくの素人にとっては非常に高いハードルでしたが、関連書籍やネットにおける諸先達のご教示に助けられてここまでたどり着くことができた次第です。まずもって貴重な情報を惜しみなく開示していただいた先達の皆様に感謝申し上げます。

それにつけても、ありがたい世の中になったものです。そこそこの性能のパソコンとネットで情報を検索する少しばかりの技能があれば、年間数千円で独自ドメインとサーバが確保できる時代なのです。中島みゆきではありませんが、まさに「時代はめぐる〜」であります。

WordPressのインストール画面に「世界で最も拡張的で強力なパーソナルパブリッシングプラットフォーム」とありますが、このパーソナルパブリッシングプラットフォームということ、意味深いものがあります。何千万人かが視聴する放送局、何百万部を発行する新聞社や、何万部を売りさばく出版社に比べれば、インターネットを舞台にしたデスクトップパブリッシングは圧倒的にコストが低く、内容が多くの人に支持されさえするなら、放送や新聞などのマスメディアに匹敵する受け手を見いだすことができます。

民主政治が成り立つためには、もろもろの争点に関し、人々が主権者としての判断を間違いなくするためのゆがみのない情報を過不足なく手にしていることが必要です。これまでは新聞や放送がそれらの情報を中立公正な立場から伝達し、世論を正しく導く役割を担っているとされてきました。すなわち「社会の木鐸」というわけです。

しかし、ここ数年、そのことにブログ主は疑問をもつようになりました。「本当にマスメディアはゆがみのない情報を過不足なく伝えているのだろうか」と。

この疑問が決定的になったのは昨年1月に起きた、当時の民主党代表小沢一郎氏に対するいわゆる「政治とカネ」問題です。来るべき総選挙において政権交代が起こりそうなタイミングにおいて、検察当局が野党第1党の党首の周辺に対して強制捜査を始める、すると新聞や放送が競い合うように「政治とカネ」を連呼して検察当局のリーク情報を報道する。その有様はまるで集団ヒステリーのようでした。

この有様を見て、新聞や放送などのマスメディアが、中立かつ公正な立場を捨てて、ある種の立場を取るようになった、その立場とは「反小沢」という立場なのだと、考えるようになったのです。

その後、インターネットを中心に様々な情報を調べるうちに、検察当局の捜査は、予断と偏見にもとづく政治的捜査と取られても致し方のないものであること、検察当局のリーク情報を垂れ流すマスメディアの行動はもはや「社会の木鐸」と呼ばれるようなものではなく政治的闘争における一方のプレーヤーとなったということを確信するにいたりました。

既成のマスメディアが、民主政治における国民の判断に資する報道ができないのであれば、それに代わるものが必要です。インターネット上のブログサイトでは、貴重な一次情報が流され、様々な立場の意見が主張されています。ブログ主も、それらの情報や主張に大いに目を開かされ啓発されてきました。

そうした数多くのブログサイトがあるにもかかわらず、ここに新たに拙ブログを始めるのはあたかも「屋上屋を架す」に等しいことかもしれません。が、民主政治とはそもそも「人々による支配」であるわけで、その人々が暴力によらず言論によって大いに意見を主張しあい「百家争鳴」する、その中から自ずと政治や社会の進むべき方向が見えてくることは結構なことではないか、というわけで身の程を顧みもせずこのブログを始めた次第です。

始めたきっかけは以上のことなのですが、タイトルの通り、ブログ主の想いや思いを、あれこれ気の向くまま、憶断的にして非論理かつ非実証の記事を連ねて参ります。