東日本中部日本北海道大震災・番外 「出エジプト記」

旧約聖書「出エジプト記」は、人間ドラマに満ちている。これを読んでいると、有史以来、数千年にわたって、人間は変わっていないということが分かる。

「出エジプト記」は、モーゼが、エホバの召命を受けて、エジプトに捕らわれていたユダヤ人をパレスチナに連れ戻す話だ。

というと、話は簡単だが、読んでいくと一筋縄ではいかないややこしい話に満ちている。例えば、「モーゼがエホバの召命を受けて」と書いたが、召命を受けてモーゼが実際に動き出すまでがさあ大変だ。モーゼは、最初は騙されているのではないかと疑い、騙されているのではないと分かってからも、困難な役割に尻込みし、ためらう。

やっと重い尻を上げて動き出し、エジプトに着いたものの、肝心のユダヤ人はモーゼのいうことを信用しない、やっとのことで説得し、連れ出すことに成功したはいいが。こんどは脱出行の途中で、まあ、平たく言えば、やれお腹がすいただの、喉が渇いたからジュースをよこせだの、文句たらたら、挙げ句の果てに、モーゼがちょっと目を離した隙に、エホバならぬ金でできた羊(だったと思いますが、間違っていたらご免)を拝み始める始末。

つまり、旧約聖書では、モーゼにしても、いわゆる毅然として揺らぐことのないリーダー像とはほど遠い、悩み多き迷える人物だし、一般民衆も、目先のことしか考えず、得になることには真っ先に飛びつくが、得にならないことには目もくれない、エゴイズムむき出しの浅薄な存在として描かれている。

昨今の日本の社会と国家の有様を見ていると、いろいろなことが「出エジプト記」の各場面とダブってくるのだが、日本版「出エジプト記」は、はたしてどんな内容になるのだろうか。

東日本中部日本北海道大震災その16

26日土曜日、大震災16日目。

大震災をめぐる偏見と差別について。

東京都知事候補の石原慎太郎が、自身の震災「天罰」発言について、発言全体の文脈を考えず、片言隻句をとらえて騒ぐ悪い癖とマスコミ批判。同じマスコミ批判でも、小沢氏がすると、新聞・TVは束になって攻撃するが、石原の場合はそうではない。両者の人徳の違い? いやあー、まさかまさか、新聞・TVの偏見の違いだな。新聞・TVは、小沢氏に厳しく、石原一族に甘い。偏見です。

計画停電が、23区の大部分を対象外とし、それ以外を停電対象するのは差別だ。比較的に人口が少な目なところには、嫌なことを押し付けてもかまわないという差別。厄介な原子力発電所を人口の比較的少ないところに立地するのと発想は同じだ。

「陽の下に新しきことなし。」 偏見と差別もしかり、これは、人類発祥とともに古く、今も変わりなく存在し、これからも変わりなく有り続けるのか?