誇り高き人々

金文京『漢文と東アジア』(岩波新書 2010年)を読んでいて教えられることがあった。

中国を指す「震旦」ということばは、古代インドのことばのCina-sthana(iと2番めのaは長音記号付き)の音訳で、Cinaは秦帝国の秦、sthanaは場所の意だという(同書140頁)。

これでもじゅうぶん教えられたのだけれども、もっと教えられたのが次のこと。

「震旦」という漢字が当てられたについて、唐代になってから、「震」は『易』の八卦では東に当たり、「旦」は朝だから、インドから見て朝日の登る東の方、すなわち中国のことだという「一種のこじつけ」がおこなわれるようになった。ふーん、なるほど。

さらに、朝鮮では、その中国より東にあり、しかも震旦の旦は朝だから、朝の字を含む朝鮮のほうが震旦にふさわしいという超こじつけが行われるようになったというのだ。うーむ。

これを、身のほどを知らない狭量な精神の発現と笑うことはたやすいが、しかし、自分は違う考えを持った。

巨大な文明のすぐ近くに、しかも地続きで、連綿と共同体を維持し続けてきた人々が、自分たちが自分たちであるという自己同一性(英語で言うアイデンティティですな)を保つにはどうすればいいか。役に立つなら、猫の手でも借りたいということではないか。そういう必死な保身の流れのなかで、「震旦」は朝鮮なりというこじつけをしたとしても、誰がそれを笑うことができよう。

自己同一性を保つ努力のことを、誇りを保つことと言い換えてもいいかもしれない。つまり、かの半島の人々は、これほどにも誇り高い人々であるということだ。

その誇り高い人々に、近い過去、日本列島弧に住むわれわれは、「創氏改名」などというとんでもないことをしてしまったことを忘れてはいけない。

第二次世界大戦の敗戦後、われわれを軍事占領下に置いた勝者である連合諸国が、創氏改名を押し付けていたとしたらどうだっただろうか。田中一郎ではなくてBob Fieldsとか、鈴木太郎ではなくJohn Bellsと。屈辱ととらえて雪辱を誓ったのか、それとも、現下のコロナウィルス禍における振る舞いのように、進んで同調し受け入れて、従わない人を自粛警察と称して迫害したのだろうか。