ゴーン氏逃亡で日本政府の茫然自失

もともとレバノン出身の人だから、安心だというわけで故郷に帰ったのかな、ゴーン氏は。まあ、その筋に鼻薬も嗅がせたのだろうね、それもかなりの額の、という勘ぐりはさておいて、それにしてもみっともないのは、わが政府のていたらく。

テレビニュースに法務大臣とかいう女性が現れて、なにやらモゴモゴ言っていたが、なにを言いたいのか、さっぱりわからない。言っている本人もなにを言っているのかわからないのだろう。そういう顔をしていた。

わが政府の偉い人たちは、自分たちよりも力がないと見きった相手、それはネタという餌にすり寄ってくるマスコミ人だったり、金力・権力などもろもろを持たない一般国民であったりだが、そういう人たちには無闇に居丈高になるくせに、こと、話が国境を越えて大きくなると、途端にどうしたらいいかわからなくなり、借りてきた猫みたいになる。

まあ、権力者がそういう振る舞いをするのは、洋の東西、時の今昔を問わないが、程度というものがある。わが政府要人の有り様は、繰り返すが、みっともない。

ゴーン氏、故郷に帰って安心したのか、記者会見まで開いて不正義から逃亡したなどと言っているようだが、これもあまりみっともいいものではない。わが国の人質司法に言いたいことはいっぱいあるだろうが(日本国民だってこれには言いたいことは山ほどある)、少なくとも、自分の感覚からすると、逃げるまではまあ仕方がない、でもそのあと、イタチの最後っ屁みたいにあーだこーだ言うのはよしたほうがいい。

78年目の対米・英開戦の日

先日、この日を意識しないでたまたま、映画「トラ・トラ・トラ!」を見た。

黒澤明もかかわった脚本は、真珠湾攻撃に至る過程を、細かいエピソードを重ねて、順に追っている。20世紀フォックス制作、ということはハリウッド映画だが、日本側の不意打ちというより、むしろ、米国側の対日軽視からの油断を攻撃成功の要因として描いている。だから、米国では観客動員が伸びなかったのだろう。米国民にとって、卑怯なだまし討のジャップではなく、突然目の前に現れた日本軍機の攻撃の前にぼうぜんとする米軍最高指揮官を見せられてはいい気持ちはしまい。

真珠湾の米海軍根拠地を破壊するというような目的が明確で限定的であるような場合には、わが同胞は素晴らしい団結力と創造力を発揮する。

しかし、世界史的な大状況の中で、それらの目標の追求が、われら日本国民の幸福と安全にどのような意味と効果を持つかというようなことについては、理解し制御するのが不得手であるように見える。

たとえば、開戦後数ヶ月間のいくつかの局面においては戦術的成功すなわち勝利を収めたが、数年後にはそんな勝利をはるかに上回る戦略的な大敗を喫した。その上、有史以来の外国軍による長期間の占領、その後現在に至るまで続く不平等条約状態(在日米軍基地をめぐる日米地位協定)の存続までがついてきた。また、戦後復興から高度成長を経て、1980年代の”経済大国”への到達するまでは、誰もその目標を疑うことなく創意工夫を重ねて ”Japan as Number One” とまで言われるようになった。しかしそれもつかの間、80年代が終わる頃から、目標を見失ったというか、手にした富をどうしたらいいのか途方に暮れとでもいうのか、埒もない米国の不動産などを高値でつかまされ、挙句の果てにバブル崩壊と今に続く低迷というか自信喪失状態。

今、好むと好まざるとにかかわらず、東アジアの覇者は、中国であって日本ではない。かつて”Japan as Number One”と持ち上げられた状態から、昨今の、相対的な地位低下を迎えつつある先の見通しの立ち難い状況にあって、わが同胞は漠然とした不安と、この、急成長を遂げた隣の超大国への嫉妬と嫌悪のないまぜになった感情を抱きつつあるように見える。”嫉妬”は自他を滅ぼすこともあるやっかいな感情だ。このすこぶる付きの手強い感情をわれら日本国民は上手にコントロールして、それなりの繁栄を、隣の国々との平和な関係を築きながら、維持していけるだろうか。そうではなく、米国に強度に依存することによってのみ、現在の状態を維持し続けようとするのだろうか。わが同胞の多くは、自公政権に多数議席を与えることによって後者の選択を支持しているように見える。だが、その選択が、78年前のそれのように、狭い範囲の戦術的成功ではあるが(それすらも怪しいものだ思うが)、大きな状況の中での戦略的失敗にならないとは限らないことをどれだけの人が理解しているだろうか。

久しぶりの山登り

この秋、思い立って、数十年ぶりに山登りをした。
山に耐えられる気力と体力があるのか、見当がつかないので、標高差が500メートル以内、片道2時間以内の歩行という条件で、奥多摩の大岳山を選んだ。ケーブルカーで標高800メートル超の山頂駅、そこから武蔵御嶽神社を経て標高1266メートルの山頂まで往復の行程。帰りもケーブルカー使用。
山頂駅から神社までの坂道でまずあえぎ、芥場峠に至る急坂で登れるのかと弱気になり、大岳神社下と山頂直下の岩場に怯んで引き返そうか考えたりしながら、なんとか頂上へ。

初冬の大岳山山頂

無事、目標どおり山頂を踏むことができ、途中、苦しかったが、また楽しくもありで、2週間後の11月下旬に大菩薩峠行きを計画。
標高約1600メートルの上日川峠まで車、1897メートルの大菩薩峠を目指す。上日川峠の駐車場から見上げる大菩薩の稜線の木々が霧氷で白く輝いている。あれれ、途中で引き返しかな。
ま、それでも、登り始める。急坂であえぐことクダンノゴトシ。約2時間で大菩薩峠。ちょっと北に上がったところからの眺めが素晴らしい!

大菩薩峠
大菩薩峠

このときは、コンビニのおにぎりとペットボトルの水で昼食をすませたが、体が冷える。
そうだ、数十年前のキャピングガス社製ガスコンロがあったよな、あれでインスタントラーメンを作れば、山頂で温かい昼食をとれるな、と。

数十年前のものだがまだまだ使える

というわけで、次は、奥多摩の御前山を目指すことに。奥多摩周遊道路の月夜見第2駐車場・標高1096メートルまで車、そこから小河内峠経由、御前山・標高1405メートルを往復。
12月初旬、快晴の日だったが、歩き始めると思いのほか風が強く(3ないし4メートルくらい?)、木々に当たって轟々と唸る。小高い峰はすべて横の巻道を使って体力温存。途中の、幅1メートルくらいで両側が切り立った崖になっている痩せ尾根(しかし絶妙の名付け、まさに痩せた尾根)で転落の恐怖感。風に吹かれて体力消耗、”ソーヤの丸デッコ”という名前の見晴らしのよい峰にさしかかったところで、御前山頂上は断念、その見晴らしのよい峰で昼食休憩して引き返すことに。

ソーヤの丸デッコから
ソーヤの丸デッコから

見晴らしがよい割には風当たりも強くなく、ガスコンロとアルミの携帯鍋兼食器でインスタントラーメンの昼食。

キャンピングガスのコンロでインスタントラーメン
キャンピングガスのコンロでインスタントラーメン

荷物は増えるし手間はかかるが、温かい汁物が食べられるのはありがたい。お腹と心の両満足。


12月になって、1000メートル以上の山は、自分の体力ではおぼつかない。次は、数100メートル程度の里山を考えますか。

2019年10月22日のNHK・BS番組

NHK・BSで1998年の映画「仮面の男」をやっていた。

元ネタはデュマの『ダルタニアン物語』。
ルイ14世、実はダルタニアンと前王の王妃との間にできた双子の一人で、鉄仮面はその弟というブルボン王家のゴタゴタ話。
『王子と乞食』のような取替っ子の話でもあり、王家の道徳的堕落(表向きは”姦淫禁止”の十戒が基本戒律の(はずの)カトリック教守護者を任じながら、実は…。)の話でもあり、訓練しだいで王のフリをすることは難しくないという話でもあり、王制の非合理を皮肉っているとも解釈できる映画。

つづいてBSの街歩き番組。
パリの13区、ビュット・オ・カイユla Butte-aux-Cailles、パリ・コミューンの故地の紹介。そこにはパリ・コミューン広場もある。ちらっと見せていた。歩道のカフェで、作詞者によってコミューン当時の同志の女性に捧げられた「さくらんぼの実る頃」を歌う老人男女カップル二組、その一人の男性が「恋と革命はいつも敗れるのさ…」と。彼らはコミューンの記憶を留めている。
壊れた家電製品を再生することを学んで、ドロップ・アウトした高校生を再度軌道に乗せる 都立高校のエンカレッジスクールみたいな 学校が出てきた。この手の問題解決への模索は洋の東西を問わないな。

日本王家の めでたかるべき 代替わり式典当日に、王制への皮肉とパリ・コミューンにかかわる番組を放映する”みなさまの公共放送”NHK。少数派であろう王制を支持しない国民に配慮して、代替わり祝賀一辺倒ではなく、あえてそのような編成にしたのか。まさかね。

MacBook Pro 13″ Mid 2009 光学ドライブとハードディスクドライブの入れ替え

数ヶ月前、使用11年目に入ったMacBook Pro 13″ Mid 2009の電源ボタンを押したら、いつもの”キュイ、キュキュキューン”という光学ドライブの動作確認音(なのでしょう)ではなく、”キュイ”と一回発音したまま沈黙。あれれ…。本体は立ち上がったので、手元の傷ついてもかまわないディスクをディスク挿入口へ。1センチくらいしか入らない。ま、ここ数年、光学ドライブは使っていないのでそのまま放置。

一方、1年ほど前、内蔵ハードドディスクライブ(HDD)を容量32ギガのソリッドステートドライブ(SSD)に替えたので、ケースに入れて外付けで使っている750ギガHDDがある。使えない内蔵光学ドライブと使える外付けHDD。
ここで、光学ドライブを外して、替わりにHDDを入れるためのアダプタがあるのを思い出す。MacBook Proのこの機種に適合するものがアマゾンで送料込み1699円也。さっそく注文。

IFIXITという、アップル社製品専門(なのでしょう)の、分解修理の手順を写真入りで微に入り細に渡り解説してくれるウェブサイトがある。これの該当ページを手本に取りかかる。ところが、カメラケーブルコネクターを外すところでつまづく。
脱落防止用に透明プラスティックのケーブルリテイナー(というらしい)が噛ましてあるのだが、これが接着剤で止めてある。接着剤で止めてあるものをどうやったら外せるのだ。先の尖ったもので慎重に光学ドライブ側にスライドさせようとしても、1ミリ程度動くだけ。
あきらめて、インターネットで参考例を探す。カメラケーブルを外さなくとも作業できるという情報があったのでやってみる。拡大鏡で光学ドライブ周りを観察すると、どうしても外さないと作業が進まないのは、光学ドライブのコネクター、ハードディスクドライブのコネクター、サブウーファーの固定ネジ2本、カメラケーブルのブラケット固定ネジ2本、それと光学ドライブ本体の固定ネジ3本。
カメラケーブルのブラケット固定ネジ2本のうち1本はサブウーファーのケーブルの下にあるのでドライバーでほんのちょっと脇へ動かす。光学ドライブ本体の固定ネジ3本のうち1本もカメラケーブルの下に隠れているので同様にケーブルをドライバーで脇へ。サブウーファーとケーブル類は少し浮かせておけば、光学ドライブ本体を斜め手前に引き出せそうなことがわかった。
結果は成功、ちゃんと外せた。

光学ドライブを取り外したところ
光学ドライブを取り外したところ。 画面右の空冷ファンの下やや左にあるのがカメラケーブルコネクター。左上にサブウーファー、ネジを外して浮かせてある。サブウーファーの左下にカメラケーブル固定ネジ。

次は、750ギガのHDDをアダプターに付属のネジ4本で固定。これを、斜め手前からマックブックプロ本体の所定の位置に滑り込ませる。あとは、外したのとは逆にネジを締めていく。本体裏ぶたはつけずに試運転。おお、それぞれのドライブをちゃんと認識している。これで約1時間。やれやれ。

光学ドライブのあとに収まったHDD
左側、光学ドライブのあったところにに収まったハードディスクドライブ。その下、32ギガSSD。

クリント・イーストウッドの「運び屋」

先日借りたクリント・イーストウッドの、実話をもとにした監督・主演映画「運び屋」。原題は”The Mule”

イーストウッド扮する90歳の園芸家が主人公。Daylily(和名ノカンゾウ ユリ科の多年草で一日で花が終わるのでその名があるという)を栽培・販売していたが、インターネット通販に負けて倒産する。品評会で老婦人の一団に「会場が違うぞ、美人コンテストは3階だ(ったかな)」と声をかけて喜ばせるなど外面(そとづら)はいいが、その当日の娘の再婚(だろう)の結婚式はすっぽかす。Daylilyの栽培に熱中するあまり家族は放置同然。当然、妻とは離婚している(のだろう。劇中ではっきりと説明されていないが)。その主人公が、ひょんなことから、麻薬カルテルにブツの運び屋として雇われる。10数回の運び屋稼業でかなりの大金を手にして、孫娘の美容専門学校の学資や結婚披露宴の費用を出したりして、離れていた家族の好評価をかちとりはしたものの、けっきょくは当局に御用となり、有罪を自ら認めて連邦刑務所に収監される。一匹狼的主人公がなんらかの原因で(それは本人の自己中心的な生き方であったり、北軍兵士による焼き討ちであったりするのだが)家族崩壊に直面するも、紆余曲折のはてに家族再生を果たす(血のつながった家族の場合もあるし、そうではない疑似家族の場合もある)というイーストウッドお得意のものがたり。

ハデなドンパチがあるわけではなし、当年89歳のイーストウッドが、演技なのか地なのか、画面の中をよぼよぼと歩く。車を運転する場面では、いつアクセルとブレーキを間違えて暴走するかヒヤヒヤする。そんな映画が、映画観客のボリュームゾーンの若い人に受けるわけがない。敬老映画? ツタヤで新作から準新作に3ヶ月で落ちるのも無理はない。

いつものスタッフが あれこれ言わなくとも監督の意向を察して、恒例のイーストウッド調をちゃんと作り上げている、常連客向けの小品。まあ、例えて言うと、馴染客だけでこじんまりとやっている駅前の赤ちょうちん、みたいな映画に批判がましいことを言っても詮方ないとは思うが、でも、常連客の一人として一言。麻薬取引の大金のおこぼれで、家族の歓心を買って再生を果たすハッピーエンド風はイケマセン。主人公が手にした大金の背景には、麻薬に手を出して家族崩壊に至る家族がごまんと見えている。

「プーと大人になった僕」と「グッバイ・クリストファー・ロビン」

「プーと大人になった僕」、まあ、よくもこんな中身のないスカスカ映画を作るもんだ、ディズニーは。

「なにもしないことがいいことだ」と大人になったプーさんシリーズ主人公クリストファー・ロビンの口から言わせておいて、その主人公が最後に勤務先の旅行カバン会社の役員会に提案するのは、社員に有給休暇を与えて旅行に行かせること、つまり旅行カバンを買わせることなのだな。「なにもしない」のには旅行もしないし余計なものも買わないことも含まれないのかね。しかも、その提案には、CEO(だろう)の息子を悪役にしてケチを付けさせるが、CEOは万能の神よろしくすべてを理解していて瞬時にその提案を好意的に受け取るというCEO神話。ディズニー社も、その下のもろもろの役員が無能だったり邪悪だったりするからときどき失敗作も作るが、CEOは万能で善の化身だから過つことがない、と言いたいのかな、この映画は。ディズニー社のCEOヨイショ映画。映画制作にお金がかかるのは百も承知だが、脚本家やディレクターが、こうも、資本を出す側におもねっているのを見せつけられるとうんざりする

「グッバイ・クリストファーロビン」は英国映画。こちらは同じクリストファー・ロビンを扱っていても、180度違う。

プーさんシリーズの主人公として世界的人気を博したがためにかえって人生が不調和になってしまった息子クリストファー・ロビンと、作者である父親A・A・ミルンとの葛藤が話の主軸。幼少にして有名人となったゆえに学校で凄まじいいじめに合うクリストファー・ロビンが、第2次世界大戦に出征、戦地の兵士仲間がプーさんシリーズをいかに愛しているかを知って父親とその作品を理解するという、いちおうまあ、ハッピーエンド仕立てにはなっているが、全体の調子は苦い。10歳くらいまでの子どもが見ても、わからないことはないだろうが、こちらは成熟した大人向けの映画。

同じ時期に同じ人物を扱って、こうも味わいの異なる映画ができるというのも不思議なことではある。英米あるいは米英というふうに一つにはくくれないということかな。

映画「運び屋」と「戦略空軍命令」

台風15号が関東を直撃しそうな勢い。明日8日の夜半すぎから明後日の未明にかけて暴風雨圏に入りそう。

準新作108円クーポンが来たので近くのツタヤへ。行ったら、早くもクリント・イーストウッドの「運び屋」が準新作になっていた。6月中旬の発売だから3ヶ月足らずで新作落ち。人気がないのかな。こちらとしてはありがたいけれども。先日、目をつけておいた”ツタヤ発掘良品”の「戦略空軍命令」と合わせて2枚借りる。

さっそく、「戦略空軍命令」。ジェームズ・ステュワート、ジューン・アリスン主演、1955年公開。まあ、内容は全編これ、米国陸軍から独立まもない空軍の、それも長距離爆撃機による核攻撃を主任務とする戦略空軍のPR映画。あの、B-29の空襲の下を逃げまどった被災体験を持つ親の子としてはその名を聞くと心穏やかではいられない、対日戦略爆撃の最高指揮官カーティス・ルメイとおぼしき人物も出てくるが、ま、人間ドラマは付け足し。主役は、当時の主力戦略爆撃機B-36 とB-47。「戦争を防ぐ装備」とか「1機で日本を焼け野原にした破壊力相当の核爆弾を搭載可能」だとかのセリフが出てくる。米国納税者へのエクスキューズ。劇中、主人公がB-47で米本土から日本の横田基地を目指すも悪天候で嘉手納へ回る場面が出てきたりする。

米国空軍PR映画にどうのこうの言ってもしょうがないのだが、夫ジェームズ・ステュワートの任務の過酷さに、妻ジューン・アリスンが、カーティス・ルメイとおぼしき四つ星の大将に直接、面と向かって怒りを爆発させる場面など(いくら米国とはいえ現実にはありえない場面だが)こういう場面を設定しないと観客の米国民である納税者が納得しないのだろう。日本で、自衛隊PR映画を映画会社が作るとして、まず、間違いなく、自衛官の妻が、夫の上官の上官のそのまた上官であるような空将(というのかな)に面と向かって苦情を言う場面など設定しないだろう。今や世界の問題児となった感はあるがいちおう共和国である彼らの軍隊と、今なお天皇が存在する日本国の軍隊の違い。

これが日本の外務大臣!?

朝食を取りながら、NHK-BSのワールドニュースを見ていた。韓国とのゴタゴタを報じる画面に、昔、自分の腎臓をこれも政治家である父親に提供したことのある外務大臣が、韓国の駐日大使(だろう)と会見する場面が流れた。両者の対話の前後が省略されているので会談の詳細はわからないが、とにかく、その外務大臣が「失礼だ、無礼だ」と感情的な(と映像からは判断される)調子で、ほとんど面罵している。

この世界には、それが西欧中心で大国のご都合主義とかなんとかいろいろあるが、とにもかくにも、長年に渡って積み上げられてきた外交儀礼というものがある。その観点からしても、あるいは、そんな大げさなものを持ち出さずに単純に人と人との関係としてみても(外務大臣だの特命全権大使だのの肩書がついても所詮はただの人)、そういう言い方は失礼だ。韓国の特命全権大使に失礼だということは韓国国民に失礼だということだよ。彼の地の人々からすると、上から目線の高飛車な何様だと思ってんだという腹立たしい振る舞いに見えるだろう。この外務大臣、戦争を始めたいのか。こんなこと、テレビカメラの前で意図して一部国民のウケを狙ってやったのだとしたら後先のことを考えないそれこそ”国益”を損なう拙劣極まりない振る舞いだし、意図せずにはずみでやってしまったのなら、一国を代表する外務大臣としての資質が疑われる。今の日本国政府はこの始末をどうつけるつもりなのか。

ポインセチアも、草ではなく木だった

前回の日々草につづいて、植物の話。

秋も深まると、花屋さんの店頭に並ぶ定番の一つ、ポインセチア。これも、草でなく木だということをつい半年前に知った。

ポインセチア、メキシコ原産のれっきとした木。彼の地では、露地で数メートルの高さになるようだ。インターネットで検索すると、実際のそのような写真を見ることができる。関東地方のように、冬場、屋外で零度以下になるところでは枯れてしまう。試したことはないが。

下の写真は、2年目の夏を過ごしつつあるポインセチア。気温の低い時期には屋内の日当たりの良い場所に置き、4月初、高さ30センチほどに徒長したものを15センチくらいに強剪定して一回り大きな鉢に植替えた。

2年目のポインセチア2019年8月31日

ウィキペディアによると、「全草に有毒成分ホルボールエステル類が含まれ、皮膚炎・水疱などを引き起こす」のだそうだ。ふむ。ところで、いつもお世話になっているのに文句をつけるのは何なんだが、木なのに全草というのはどうなのかねえ。