小沢氏の戦い

今日、例の検察審査会起訴による小沢氏の裁判があった。

その場で、小沢氏が述べたことは、以下のようなことだ。

特捜検察に象徴される高級官僚集団という巨悪の手にこの国を委ねるのか、それとも、国民の手に主権を取り戻すのか。前者の道をたどるのならこの国に未来はない。こんな裁判が、国家権力の名の下に白昼堂々おこなわれるということは、まさにこの国が破滅に向かう兆しだ。この国が未来を持つためには、特捜検察や検察の言うがままにメチャクチャな判決を書く裁判官による裁判とは全力で戦わなければならない。

ブログ主は、小沢氏の主張に100パーセント同意し、巨悪と敢然と戦う小沢氏に敬意を表する。

当ブログも、小沢氏の驥尾に付して、国民の手に主権を取り戻すために、法治国家の名に隠れて権力を濫用する検察官や裁判官とは、言論をもって戦う覚悟だ。

海老蔵は未成年者か?

海老蔵が深夜、泥酔し、見知らぬ男たちに殴られ重傷を負ったという。

そこへ、実父の団十郎が記者会見し、息子の不始末を詫びる一幕。

事件の夜になにがあったのか、それをここで問題にしようとは思わない。そっちのほうはマスコミがいやというほどやってくれるだろう。

ブログ主が不思議に思うのは、未成年者じゃあるまいし、なんで息子の不始末に親を引っ張り出すのか、ということだ。

海老蔵はいくつだったか。30を越えていたのじゃあないか。女房もいるんだろう。ちゃんとした仕事もある一人前の男だ。大人だろう。

未成年者なら仕方がない。親には保護監督責任があるのだから、子どもに代わって「世間様」に頭を下げなければならないだろう。

だが、大の大人で女房もいる。本人が人前にでられないほど大変なことになっているなら、そんなときこそ奥方の出番なのではないか。取り込み中に、まあご苦労さんだがしょうがない、なにしろ江戸歌舞伎を背負って立つ市川宗家の御曹司の奥方でしかも素人じゃあないわけだから、その程度のことはすぱっとやりきらないと。

ところで、海老蔵の場合に限らず、大の大人であっても、なにかあると当の本人ではなく親が引き出され、詫びの一言を言わされることがままある。

いったいこれはどういうわけなのか。

つらつら考えるに、どうもわれわれの社会では、人がいくつになっても自立した個人として、つまり本当の大人として行動することを許さない風があるからのように思える。つまり、たとえ成人であっても、保護者の監督下にある未成年の子ども扱いなのだ。

そんなわけだから、人が、本当の大人として独立独歩の人生を歩もうとするときまってなんらかのブレーキがかかる。その多くは、「世間が許さない」とか「世間を騒がせてはいけない」とか「世間体が悪い」などという形をとる。

こんなことを子どものときから繰り返し刷り込まれていれば、ほとんどの人は、海老蔵の不始末に団十郎がでてきて「世間様をお騒がせして申し訳ない」と頭を下げてもなんとも思わなくなる。

それどころか、世間様の前で頭を下げないと「いったい団十郎はなにをしているんだ」と逆に非難するようにもなる。

これを政治の世界に移して考えると、本当は主権者(大人)のはずの国民は、いつまでも主権者(大人)扱いされずに、誰かの保護監督下にあるという不思議な現象にいきあたる。

国民が主権者として自前の判断と責任で行動しようとすると、その誰かさんから「待った」がかかる。日頃から、自分の判断で行動することにブレーキをかけられ続けている国民は、そういうものかなと妙に納得してその「待った」の声に深い疑問を持たない。

こんな調子では、国民が主権者(大人)として自立していることを大前提とする民主政治がうまくいくわけがない。

昨今のわが国の政治的混迷は、実のところ、われわれ国民が主権者(大人)として自立していない、自立させられていないというところに原因の一つがあるのではないか。

わが国に民主政治を根付かせるための肝は、主権者(大人)がちゃんとした主権者(大人)になることだ。

と、まあ、大見得を切りましたが、なにしろ、やがては市川宗家を継ごうかという海老蔵がことの発端ですからしてこうなるのも当然といえば当然か。