小沢氏の戦い

今日、例の検察審査会起訴による小沢氏の裁判があった。

その場で、小沢氏が述べたことは、以下のようなことだ。

特捜検察に象徴される高級官僚集団という巨悪の手にこの国を委ねるのか、それとも、国民の手に主権を取り戻すのか。前者の道をたどるのならこの国に未来はない。こんな裁判が、国家権力の名の下に白昼堂々おこなわれるということは、まさにこの国が破滅に向かう兆しだ。この国が未来を持つためには、特捜検察や検察の言うがままにメチャクチャな判決を書く裁判官による裁判とは全力で戦わなければならない。

ブログ主は、小沢氏の主張に100パーセント同意し、巨悪と敢然と戦う小沢氏に敬意を表する。

当ブログも、小沢氏の驥尾に付して、国民の手に主権を取り戻すために、法治国家の名に隠れて権力を濫用する検察官や裁判官とは、言論をもって戦う覚悟だ。

日米安保という名の「国体」

第2次世界大戦前は、万世一系の天皇統治が「国体」であった。

戦後は、日米安保体制が不動の「国体」になった。

小沢一郎氏をおとしめようとする連中の性根を腑分けしていくと最後に残るのは、日米安保という名の「国体」を護持しようという心性なのだ。

日米安保体制を変革しようとする人物は、万世一系の天皇統治に反対する人物と同様の「国体」の破壊者、すなわち非国民だから、法の保護の外におかれる。基本的人権は認めない。でっち上げの「政治とカネ」だろうが拷問による自白だろうがお構いなしというわけだ。

そう考えると、官僚(検察)・マスコミ連合軍による小沢たたきの構図がよく見える。

彼らは、戦前もそうであったように戦後も「国体」の守護者なのだ。戦前の有力なメンバーだった陸軍海軍が今は抜けているという違いはあるが。

彼らは、小沢氏のように覚悟を決めて日米安保という「国体」を変革する行動を起こそうとする人物が現れると、一斉に牙をむいて襲いかかる。

菅なにがしのような覚悟もなにもないどうでもよい軽い連中は泳がせておくし、仙谷なにがしのように小沢氏つぶしの先兵役は重宝に使う。

官僚(検察)・マスコミ連合軍が「国体」の護持者になるのは、そうすることで現世的な栄耀栄華を極められるからという実利があるからなのだが、それにしても、機を見るに敏な連中である。

敗戦後の米国軍隊による占領とその下での「民主化」。権力は大日本帝国天皇から米国に移転したのだ。そして、彼らのご主人様も、天皇から、勝利者であるアメリカに取って代わったというわけだ。

こういう連中のことを、オポチュニストというのだったと思うが、要するに節操のない連中ということだ。

それを、日本の官僚は優秀だとか清潔だとか持ち上げるバカが後を絶たない。

困ったものです。

権力闘争

小沢一郎氏が、検察審査会の決議を受けて、「これは権力闘争だ」と側近に語ったという。

まさにその通り。

いま、わが国で行われているのは、主権を、高級官僚とマスコミから、国民の手に取り戻す権力闘争だ。

憲法には、主権は国民にあると書いてあるが、実体は違う。

タテマエでは、国民が選んだ議員が、国民に代わって権限を行使し、法律や予算を作ることになっているが、実際にはほとんどすべてが官僚の書いた筋書きにそって動いている。これに異を唱える人や組織が現れると、マスコミが嘘八百を並べ立ててキャンペーンを始め、葬り去ろうとする。大勢に流されやすい傾向を持つ国民がこれに洗脳され、そうだ、そうだと同調する。検察審査会の平均年齢30歳というメンバーがまさにそうだ。そして、すべては官僚組織の思うとおりにことが運ぶ。

小沢氏は、このような、憲法の国民主権原理がないがしろにされている異常事態を革(あらた)め、主権を国民の手に取り戻すための闘争の先頭に立っている。

国民が主権を行使する、唯一の機会は選挙の投票だ。だから、小沢氏は選挙を大事にする。選挙運動を通じて、主権者である国民と対話し、国民の意向を肌身で感じようとする。主権者としての自分たちを大事にしてくれることがわかった国民は、小沢一郎氏の強固な支持者となる。愛想がないだとか、TVにチャラチャラと出て実力もないのに名前だけ売ろうなどというさもしいことをしないとか、本質的でないことは評価の対象にしない。さらに、小沢氏の言動を通じて、高級官僚とマスコミ連合軍の策動がどれだけわが国と国民の利益を損ねているかを理解するから、これに対しても厳しい視線を向けるようになる。

このことがわかっているから、高級官僚とマスコミは必死になって小沢氏をたたいている。小沢氏こそが、自分たちの既得権という砦を滅ぼす軍勢の総大将だから。「小沢をたたけ、小沢を亡きものにしろ」というのが彼らの合い言葉だ。自分たちの手から権力と既得権を奪われまいと死にもの狂いになっている。この姿勢はほとんど本能的である。高級官僚やマスコミの連中はもともと権力志向が強いから、その職業を選んだわけで、そうした権力志向の連中がいったん味わった権力のうまみを簡単に手放すはずがない。

われわれが、主権者とは名ばかりの、高級官僚・マスコミ連合軍にいいようにあしらわれる二流国民の状態に甘んじたくないなら、とるべき道は一つ、主権を国民の手に取り戻す闘争の先頭に立つ小沢氏を支援する行動をできる範囲でやることだ。

ブログ主は、次のことを実践している。

新聞の購読をやめる、テレビのワイドショーは見ない、NHKに電話して偏向報道をやめるよう要請する、身近な人々に、機会あるごとにマスコミの政治報道、とりわけ小沢氏の「政治とカネ」の話が嘘であること噛んで含めて説明する。

道は遙かに続き、日が暮れてなお目的地は見えない。多勢に無勢、どうせ自分一人が動いたってどうにもならない、やめたやめた、というわけでついつい日常の些事にかまけてこの戦いをあきらめてしまいたくなる。ありがちなことだが、そのような気持ちが起こったときには、あきらめることによって喜ぶのは、われわれに不幸をしわ寄せして恥じることのない高級官僚・マスコミ連合軍であることを肝に銘じ勇猛心を奮い起こすことである。

衆議院の予算委員会

野党第1党の幹事長をしている石原某という人物が、またぞろ、「政治とカネ」と擦り切れたレコードのように繰り返したようだ。

愚かなことだ。

小沢一郎氏の政治資金をめぐるバカ騒ぎは、事件でも何でもない。小沢氏が政治家として力を発揮されたら、自分たちの既得権が失われて困ることになる高級官僚(その前衛である検察)とその走狗である既成マスコミによる国民目眩ましの妖術だ。

それを知ってか知らずでか、石原某はしたり顔で「政治とカネ」と連呼する。官僚機構をコントロールし、国民生活の向上と国としての独立と安全を図らなければならない立場の国会議員が、官僚の書いた脚本通り演じてどうする。これでは国会議員はまるで操り人形ではないか。

こんなことをしていて喜ぶのは、政治家に不信感をもち、ひいては政治に無関心になる国民が増えることで漁夫の利を得る高級官僚だけだ。

ところで、石原某という人物は、都知事の長男だということだが、この人物からこの親を引いたら何が残るのか。(もっとも、この親にしても、某有名俳優の兄というのを引いたら何が残るのか、だが。)

数年前、この石原某が大臣をしていたとき、所管の道路公団の総裁の首を切るのにたいそう手間取ったことがあった。このこと一つとってもこの人物の政治家としての力量は大したことはないことがわかる。上司としての力量のあるなしが端的に現れるのが人事、なかんずく辞表を預かることだからである。

野党とはいえ第1党の幹事長というのは枢要なポストだろう。それがこの程度で勤まるのか。

まあ、この野党第1党がどうなろうとそれはかまわないのだが、ことは、議会制民主政治の根幹に関わる話だ。野党が、国民生活の向上と国の独立と安全をテーマに正々堂々論争を挑まず、官僚の振り付け通りに踊っていてどうする。

ちゃんとやりなさい。

[追記]

高級官僚・マスコミ連合軍がこれほどまでに小沢たたきに熱心なのは、事実上のわが国の宗主国である米国政府が、なんらかの形でお墨付きを与えているからなのだ、という説がある。そうかなあとも思えるが、確証はない。ただ、状況からして、米国の軍需産業、軍部など日米安保体制が今の状態であることから利益を得ている人々が、小沢氏のように「米軍のプレゼンスは第7艦隊だけでよい」と平然と言ってのける人物に日本政府の舵取りをしてもらいたくないと考え、わが国の「日米安保体制は錦の御旗」派になんらかのシグナルを送っていることは大いにありうることだ。

それにつけても、わが国は、敗戦このかた独立国としての矜持を失い、米国の51番目の州であるかのような状態を続けているとブログ主は思う。その一番の例証は首相の代替わりごとにまるで参勤交代のようにワシントン詣でをすることだ。
わが国が本当の独立国になるには、明治維新前後から敗戦に至る歴史についての国民的再認識が必要かと思う。