国辱的官房長官

官房長官が、尖閣諸島周辺領海への中国漁船侵犯事件について、「司法過程の理解が全く異なることについて、もう少しわれわれが習熟すべきであった。」と記者会見で述べたいう。

エッ、本気ですか、まさか、冗談でしょう、というのが最初の感想。

しかし、冗談ではないらしい、ほんとうに、この官房長官はこのように考えているらしい。

いやはや、恐れ入りました。この程度の人物が、この人口1億2千万の、やや斜陽気味とはいえそれでも世界第3位の経済大国の、しかも内閣の要をつとめているのです。

この人、いちおう弁護士の資格を持っているのでしょう。既成マスコミ情報ではそうですね。既成マスコミが例のごとく嘘を伝えていないとして。

いったい全体、この人はなにを勉強してきたのでしょう。

中国が、共産党一党独裁の国であることは天下周知の事実です。その国の司法過程とやらが、言論の自由あり、三権分立ありで、複数政党が権力の獲得を争うわが日本国のそれと違うことくらい、気の利いた小学生なら知っていますよ。

それを、言うに事欠いて、「習熟すべきであった」とはなんたること。しかも、そのような無知きわまりないことを、記者会見で堂々公言するこの無神経!

いやしくも彼は官房長官です。彼の発言は内閣を代表しており、内閣を代表するということは、対外的にわが国を代表するということです。

この人物が、一私人として発言するのならばどんなに無知であろうと不勉強であろうと、どうでもよいことですが、今はそうではありません。彼は、この発言によってわが日本国民の顔に泥を塗りました。日本国民はこの程度なのか、と世界中が判断する材料を提供することによって。

国辱とか国恥という言葉がありますが、この人物は典型的な国辱的存在です。

さて、この程度の人物をその地位につけた内閣総理大臣の責任、その内閣総理大臣を信任した代表選挙でこの人物に投票した民主党の国会議員、地方議員、党員・サポーターの責任は重大です。

外交の独立と国の独立

昨日の記事で、戦後のわが外交について独立国としての体をなしていないとしたが、政府、外務省レベルはともかくとして、国民レベルでは、幾たびか、外交の独立ひいては国の独立や安全保障が政治的争点として浮上したことがある。

まず第一は、全面講和か単独講和が争われた占領下、第二は、日米安全保障条約の改定が問題となった1960年、いわゆる60年安保、第三は、60年安保から10年が経過し、条約をどちらか一方の破棄通告で終了させることができるようになった1970年、いわゆる70年安保。

その後は、沖縄の過剰な基地負担が安全保障のあり方と関連づけて問題にされることはあったが、その際も、基地問題の根底にある外交の独立や国家としての独立が問題とされることはなく、むしろそうしたことを政治上の争点とすることはタブー視されてきた。

これは、いわゆる「日米同盟堅持」の題目のもと、外交や安全保障の問題から国民の目をそらし、他国の軍事基地が国内にあるという不正常な状態が何の疑問ももたれることなく続くことで利益を得る集団が、意図的に演出してきた結果だ。その集団とは、巷間指摘される「日米安保マフィア」なるもので、実体はおそらく日米両国にまたがる軍産政複合体と彼らからのおこぼれに預かるマスメディアの一部であろう。

昨年夏の総選挙で、鳩山民主党代表が、ことの弾みとも思える軽さで、沖縄の普天間基地移設問題を「最低でも県外」と訴えたことから、その流れが変わり、外交や安全保障がほんとうに久しぶりに政治の焦点になった。鳩山氏は、結果的には普天間問題の解決には至らなかったが、外交や安全保障問題を国民の意識にのぼらせた功績は大きい。怪我の功名というべきか。

次いで、今般の民主党代表選で、小沢一郎氏が、年来の主張である「自立した国民による自立した国家」を踏まえた堂々たる日米、日中対等外交論を提起したことで、多くの国民に、外交問題や安全保障問題を正面から国民的議論の対象とするべき時期が到来したことを印象づけた。

さらに、今回の尖閣諸島をめぐる政府の不手際が、国民の間に潜在していた、日本は果たして本当に独立国なのか、という疑問の噴出に火をつけた。

こうして、70年安保から40年、ようやく、国の独立や安全保障が外交のあり方と合わせて議論されようとしている。

このことを、ブログ主は素直に喜びたい。

なぜならば、国の独立や安全保障など、国民としてきちんと正対すべきことができていないという不正常な状態が終わるからだ。

だが、一方で懸念もある。

それは、一部の国民にみられるショービニズム(排外主義)の傾向である。在日韓国人、在日朝鮮人に対するいわれなき悪罵や、中国や中国人に対する同様の態度は、外交や安全保障を議論するとき、百害あって一利なしの、きわめて危険な傾向だ。

ブログ主は、このような危険な傾向とは断固戦うことを明らかにしておく。

内閣諸公の覚悟

現内閣諸公には独立国としての外交を司る覚悟がないようだ。

尖閣諸島をめぐる中国との交渉をみれば、一目瞭然だ。

なにも中国が取り立てて悪辣非道な外交をやっているとは思わない。国名はあげないが、世界中を見渡せばもっとひどいことをしている国はある。

外交場裡において、国境紛争は日常茶飯のことだ。

当の中国についてみれば、隣国ロシアと地続きの長大な国境線で接している関係上、古くから国境紛争を抱えており、ロシアがソ連であった1960年代、一度ならず、全面戦争の危機に直面した。当然のことながら、軍事力はソ連が圧倒的で、中国共産党政府は、表面では「ソ連社会帝国主義を打倒せよ」と強気で臨んだが、内心は政府のみならず国家そのものの存亡の危機と認識していた。毛沢東は、窮状を脱するために、それこそなりふり構わず動いた。もう一方の敵であるはずの米国と接近するための、あの周恩来・キッシンジャーの秘密会談は、「敵(ソ連)の敵(米国)は味方」という小学生でも実践している戦略の具体化だ。くわえて、かつて自国を侵略した怨敵日本とも、賠償請求権を放棄してまで国交正常化に踏み切った。

余談ながら、当時、田中角栄首相と周恩来首相との間で合意した、日中共同声明の当時の中国にとっての最大の眼目は、いかなる国もこの地域で覇権を唱えることに反対するという例の「覇権条項」を盛り込んだところにある。もちろん、いかなる国には米国も入るが、最重要なのはソ連である。

あのとき、当時の北ベトナムは、米国とベトナム戦争終結に向けてパリ和平会談の最中であり、味方と思っていた中国が、北ベトナムにとっては敵である米国と国交正常化に向けて交渉を始めたことで、背後から鉄砲を撃たれたように感じ、以後しばらくの間中国との関係が悪化した。

外交関係は古来かくのごとし。紛争があるのが当たり前、国力・軍事力に強弱があるのも当たり前、そうした状況の中で、どうしたら一国の独立と自尊を保てるのか。合従連衡など朝飯前、権謀術数の限りを尽くして国益を貫く、それが外交というものだろう。

というふうに見てくると、今日のわが内閣諸公の覚悟のほどや如何と問うに、外交交渉はおろかその入り口にも近づいていないと言わざるを得ない。ちょっと大きな声で怒鳴られたら、そそくさと尻尾を巻いて逃げ帰るといった案配だ。

これでは相手国は苦笑しているだろう、こりゃ相手にならんは、と。

とここまで書いて、現の内閣諸公ばかり責めるのも酷かなという気がしないでもない。

わが日本国の外交べたは、今に始まったことではないと思うからだ。

戦前、日本が国際的に孤立を深めていく里程で、数々の外交的失策をやらかしたが、中でもブログ主にとって印象的なの、第2次世界大戦前夜、ヒトラーとスターリンの間で独ソ不可侵条約が締結された際、「欧州情勢は複雑怪奇」として総辞職した平沼騏一郎内閣のことである。

なんとナイーブなことか。外交が、いや、政治が、いや、およそ人間が関わることはすべて「複雑怪奇」でないことなどありはしない。それを、「複雑怪奇」といってギブアップしていたら一歩も前に進めないではないか。いや、生きていけないではないか。

もう一つ余談。平沼騏一郎の縁者で今日代議士をしている人がいるらしいが、ブログ主はこの代議士が話題になるとただちに「複雑怪奇」のエピソードが浮かんできて、まあ、あのねえ、というわけで思わず下を向いてしまうのです。

戦後については言わずもがな、ほとんど米国の51番目の州のような状況だったので、およそ独立国としての外交をしてこなったからのだから。

結論、やはり、小沢一郎氏ですね。今、生きている政治家で彼以上に、一国の独立と矜持を保ちうる経綸と、それを実行できる覚悟をもっている人はいないのだから。

法律的正当性と政治的正当性

現在の内閣総理大臣は法律的正当性をもっています。

憲法の規定にしたがい、国会の指名に基づいて天皇が任命したからです。

しかし、政治的正当性はどうでしょうか。

そもそも、彼がその地位にあるのは、国会、とくに衆議院で与党議員が過半数を占めており、その与党議員がほとんど漏れなく、指名投票に際して彼の名前を書いたからです。

では、なぜ与党議員はそうしたのか。それは、代表選出の党大会で彼が当選したからです。

そこで、この党大会が問題です。

先の民主党代表選、結果はご存じのとおりです。国会議員票は伯仲、地方議員・党員・サポーター票は小沢一郎氏ではないもう一人の人が多数を占めました。

この国会議員票以外の票が問題です。

ブログ主は、この票は例の大マスコミの不正なネガティブキャンペーンによる世論操作 によって作られたものであると考えています。とすると、今の総理大臣は、大マスコミの世論操作の結果、その地位についたことになります。

民主政治においては、政党の代表選挙であれなんであれ、有権者の投票行動の如何が最終的決定権をもつのであり、有権者が投票するに際しては、決定すべき対象について過不足のない適切な情報を手にしていることが大前提です。しかしながら、この点について、上述の通り、今般の民主党代表選の投票結果には重大な疑義がつきまといます。

すなわち、小沢氏の対立候補の当選には政治的正当性が問われることになり、ひいては、その人物が内閣総理大臣であることには深刻な疑義があることになります。

困ったものです。

(以下は、2010年9月25日追記)

現の内閣総理大臣の国会における指名投票は6月に行われたので、9月の民主党代表選との関係如何ですが、この代表選挙は党代表であるあの人を最高責任者として戦われた7月の参議院選挙 で歴史的敗北を喫した責任を問う信任投票の意味をもっていました。結果はあの人の当選すなわち信任となったため、彼がそのまま内閣総理大臣の地位に居続けることの根拠になっているので、やはりブログ主の主張する民主党代表選の政治的正当性への疑問、ひいては彼が内閣総理大臣でいることの政治的正当性が問われ続けることになります。

(以下は、2010年9月29日追記)

上記で、国会議員以外の票が問題である旨述べましたが、その後、もう一人の人に投票した206名の国会議員の票も同様に問題であると認識するに至り、もう一人の人に投票した国会議員票も含めて問題であると訂正します。

また小沢一郎

民主党代表選が終わって数日が経過しました。

ブログ主は、紙媒体の大新聞(ここで大というのは価値が大ということではありません。発行部数が大ということです。念のため。)やNHKなどの大放送(この大も新聞と同様の意味です。)のニュースを見ていないのですが、ネットでかいま見る限り、小沢一郎氏の真価がじわじわと少なからぬ人々に認められつつあるように思えます。

それはそうでしょう。この代表選で候補になったもう一人の人とは、人間としても政治家としても比較するも愚かなほどに差があり、このことは、虚心坦懐にことを見る人の目にとっては隠しようがないほど明らかだからです。小沢氏をあれこれいう大新聞や大放送の記者さんやキャスターさんとの比較においては言わずもがなであります。

「アマデウス」という映画があります。モーツァルトとその同時代人の作曲家サリエリを扱った舞台劇の映画化ですが、現代ではほとんど誰も知らないサリエリが当時の人気作曲家であり、モーツァルトはその晩年、現代の圧倒的評価と比べるとまことに寂しい時を過ごしたことが活写されています。

小沢氏もモーツァルトになる? 死後200年以上たった今、モーツァルトの真価は誰もが認めるところですが、小沢氏の場合、死後数百年でその真価が認められるのではこの日本が困ります。

我が日本の同胞諸氏が、モーツァルトの時代の人々と同じ轍を踏まず、一日も早く小沢氏の真価に気付いていただくようになることを切に願うものです。

小沢一郎はソクラテスか

小沢一郎氏を見ていると、あのソクラテスのことが浮かんできます。

ソクラテスは、アテネの市民に「よき市民とは」「よきポリスとは」と問いかけ続けた挙げ句の果てに、市民参加による裁判で死刑を宣告され、自ら毒杯をあおぐ刑の執行を従容として受け入れたのでした。

小沢氏も、国民に「自立した国民とは」「自立した国家とは」と問いかけ続けてきましたが、いわゆる「政治とカネ」という大手の新聞・テレビをあげてのネガティブキャンペーンの前に、今般の民主党代表選では残念な結果に終わりました。

しかし、以後の西洋思想史では、ソクラテスの死をめぐる「ソクラテス問題」が現代に至るまで、哲学の重要なテーマとしてあり続けています。いわく「ソクラテスはなぜ死ななければならなかったのか。」

同じく、わが日本国でも「小沢一郎問題」は問題であり続けるでしょう。なぜこれほどまでに小沢氏はマスコミのネガティブキャンペーンの対象であり続けるのか。

もちろん、ブログ主は、「小沢一郎問題」とすることで、小沢氏自身のことを問題としているのではありません。そうではなくて、理由もなく小沢氏にネガティブキャンペーンの矛先を向けるマスコミのことを問題にしているのです。

以後の日本の歴史では、「なぜこの国のマスコミは、不世出の政治家である小沢一郎に理不尽なネガティブキャンペーンを張ったのか」が問われ続けることでしょう。

小沢一郎氏当選ならず

民主党代表選、小沢一郎氏当選ならずでした。

しかし、代表選の過程で、小沢氏の人となりや政策を直接知ることができたのは幸いでした。とくに、投票直前の演説は、心のこもった名演説でした。

9月13日付の日刊スポーツのインタビューに、「自分が前進のための礎、屍になる。昔流にいえば、僕の屍を乗り越えて進んでほしい。」と述べていますが、この結果をある程度予期してのメッセージだったのかなとも思います。

代表選の中での数々のメッセージ、とりわけ今日の演説、心に響くものがあります。小沢総理大臣はなりませんでしたが、小沢氏のメッセージは、少なからぬ国民にきちんと届いていると思われます。

民主党代表選

本日、民主党代表選が行われます。

ブログ主は、小沢一郎氏にぜひとも総理大臣をやっていただきたいと考えている者です。その理由はたくさんありますが、一点だけ申し上げると、政治家うんぬんという前に、人間としての大きさが小沢氏にはあり、その大きさが、現下の日本の危機を突破する原動力になると思うからです。

小沢氏が当選するかどうか、現時点ではまったくわかりませんが、結果はどうあれ、少なくとも今後10年程度の間の日本のあり方を決めることになると思われます。ぜひ、よりよい日本につながるような結果を願っています。