お子さま内閣の政治ごっこ

いつのまにか、内閣が交代していた。

と、思ったら早くも一人辞めて、その後釜が、前の内閣で福島原発事故の放射能は「ただちに害がないから心配ない」と嘘を繰り返して国民をだました官房長官だったというからあきれる。

嘘をついてごめんなさい、と腹でも切るのかと思ったら、いけしゃあしゃあと顕官に返り咲く。いったいどういう神経をしているのか。いや、神経がないか。

こんな人物を任命する総理大臣も同じ穴の狢だ。

というわけで、とどまるところを知らない民主党お子さま内閣による政治ごっこ。

こういうのを見ていちばん喜んでいるのが、この国の真のアドミニストレーター(管理者、オランダ人ジャーナリストのウォルフレン氏の用語)である霞ヶ関高級官僚グループと、宗主国である米国だろう。

なんてこった。

憲法論と政治論

年頭の総理大臣挨拶の情けなさについては、西岡参議院議長を始め、多くの方が指摘しているのでそちらに任せるとして、当ブログでは、参議院で問責決議を受けた官房長官の仙谷某の発言についての疑問を記録しておきたい。

この人物が、その地位にあるのもあと一日かそこいらというところだが、探求の範囲が狭いからなのかどうか、ブログ主が感じたような疑問を他では見かけないので、このような疑問もあるということをあえてブログ記事にしておくことも無駄にならないだろう。

疑問はいろいろあるが、なかでも、「問責決議で閣僚を辞任するよう野党が迫るのは政治論としては成り立つだろうが、憲法論としては成り立たない」として、内閣不信任決議は衆議院の特権であって参議院にはその特権はないから参議院の問責決議は法的拘束力を持たない、憲法には大臣が国会の会議に出席して意見を述べることができると書いてあるので自分は国会が開かれれば出席する、という一連の発言である。

この発言からは、この人が、政治と憲法との関係では、憲法の規定が政治の上位にあり、政治的な主張や主張に基づく運動はそれとして、憲法の規定がかくかくしかじかである以上、野党の政治的主張や運動は憲法の規定に従わなければならなず、従って自分が官房長官を続けることに何の問題もない、と考えているように見える。

しかし、はたしてそうなのか。

憲法は、政治的共同体(国家)の在り方を決める政治的文書とでもいうものであり、民法やら刑法やら、社会生活の細部を取り仕切るふつうの法律とは性格が異なる。

政治的文書という性格から、国家の在り方が変わると、当然、憲法も変わることになる。

近いところでは、敗戦という政治状況の変化により、国民が主権者となった結果、天皇が主権者であることを前提とする大日本帝国憲法が、国民主権の日本国憲法へと変わったことが好例である。

つまり、政治と憲法との関係を一言でいえば、政治があって憲法があるのであり、憲法があるから政治があるのではない。

しかも、政治とは突き詰めれば人間関係であり、人間関係を成り立たせる根本のところは、信頼である。したがって政治的文書である憲法も、関係する人々の間に信頼関係がないと、意味をもたないたんなる空文になる。

こう考えると、官房長官の仙谷某の言っていることのおかしさが明らかになってくる。

野党の思惑はさておき、国会議員の多数が問責決議に賛成したということは、国会議員の多数がこの官房長官は信頼できないと表明したことに他ならない。

あなたは信頼できないと人に言われて、法律にはそう書いていないと返したのが、この仙谷某だ。この人、憲法という政治的文書と、普通の法律の区別がつかないらしい。いままさに、信頼が、ということは政治が問題になっているにもかかわらず、憲法を普通の法律であるかのごとく思いなし、憲法の規定がどうのこうのとまさに三百代言的言辞を弄して周囲を煙に巻こうとするその態度の卑しさ。

この人は、衆議院議員をやっているはずで、世間では政治家ということになるものであろう。政治家が、政治と憲法の関係についてこのように頓珍漢な認識しかもっていないということは、わが国の政治家の劣化を物語るものであろう。

新聞・TVなどの企業ジャーナリズムの劣化は言わずもがな、加えて一部政治家の劣化、まさにわが国は国難の中にある。

余談だが、大日本帝国憲法には「不磨の大典」という文言があり、明治政府の法律顧問の西洋人に、憲法とは政治的文書なのだから政治が変われば憲法も変わる、政治は永遠不変ではないのだから、こんな言葉を書き込むのはみっともないからおよしなさい、と助言されたが、時の政府高官が押し通したというエピソードが残っている。

政治倫理審査会を道具に自分の無能を隠蔽する菅直人

菅直人の総理大臣としての無能は天下周知のことである。えっ、ご存じない? ひょっとしてあなたは浦島太郎?

というのは冗談として、菅直人は、無能もさることながら人間として、してはいけないことをする卑劣漢であることが、今回の政倫審騒ぎでいよいよ明らかになった。

この騒ぎは要するにこういうことだ。

先の国会で、自分を担いでくれている官房長官の仙谷某が参議院で問責決議を受け、野党がこの仙谷某を罷免しないと年明けの通常国会で審議拒否すると脅している状況の中で、来年度予算が国会を通過しないと(予算が通過しても関連法案が成立しないと)、内閣が立ち往生する。

内閣が立ち往生するということは、自分が総理大臣を続けられなくなることを意味し、一日でも長く首相のイスにしがみついていたい菅直人としては、何を犠牲にしてでも阻止したい状況だ。

そこで、無能かつ卑劣な菅直人が、恐らく仙谷某あたりから入れ知恵されて思いついたのが、総理大臣にならせてもらった大恩人の小沢氏を、あのマスコミのバカの一つ覚え「政治とカネ」で引っかけて政倫審騒動を演出し、野党に媚びを売るとともに、マスコミに餌を投げて騒がせることで国民の注意を引きつけ自分の無能さを覆い隠そうという茶番劇なのだ。

大恩人を、特捜検察とこれに付和雷同したマスコミが共同してでっち上げた「政治とカネ」なるデマで貶めようとする菅直人。

案の定、マスコミは投げられた餌に飛びつき、「ニュース」は政倫審ばかりという有様だ。

例のごとく、マスコミは、小沢氏が、菅からの政倫審出席要請を断ったことで大騒ぎです。本当にバカ丸だしで、困ったものです。こんな報道で、皆さんから購読料や受信料、広告料金としてお金を巻き上げている。これは詐欺泥棒の類です。こんな犯罪的なことをしていると罰が当たるよ。

あとは、国民。

さてどうでしょうか。マスコミが共演する、菅直人の拙劣きわまりない茶番劇の演出に、ころりと騙されるのでしょうか。それとも、茶番劇を茶番劇としてちゃんと見抜くのでしょうか。

60数年間無駄に生きてきた官房長官の仙谷某

官房長官の仙谷某が、「俺は、小沢が落ちた司法試験に合格した。だから、俺の方が偉いんだ。」という趣旨のことを述べたという。

語るに落ちる、とはまさにこのことだ。

この人物が、司法試験に合格したのは、多分、20歳代の頃、つまりは40年ほど前のことだろう。その40年前のことを、今このときに持ち出し、小沢一郎氏との比較に使う、その了見の狭さ。

つまり、この人物は、60年あまり生きてきて、40年前の、まあ、ガキの頃のことしか小沢氏と比較するものがないという、まことに貧寒な人生を送ってきたということなのだ。

たとえ司法試験だろうと、入学試験だろうと、どんな試験にせよ、合格したかどうかは、そのとき一時のこと、合格したにせよ、不合格だったにせよ、人間の値打ちというものは、その後の人生をどう生きるか、あるいは生きてきたかということによって決まる。

それを、40年も前の、問題にもならない昔のことを問題にするバカさ加減。

よくいるんだよ、こういう手合いが。

どこそこ大学を出た、どこそこ高校を卒業した、と30年も、40年もたってなお、人生の一大事であるかのように話題にするおめでたい人。

こういう人は、何十年も生きてきて、結局、そのことしか自慢するものがない、あるいは生きていく手がかりがないという、実に薄っぺらな結果しか手にしていない哀れな人なのですね。

仙谷某について言えば、この男、内心、小沢氏にはとても敵わないと思っているんでしょう。人物、器量、政治的見識、統率力、どれをとっても、両者には天地雲泥の差がある。比べるのも愚かなほどだ。

それが本人には痛いほどわかるから、こんなことを言うことでしか自分を慰めることができないんだろう。

そぞろ哀れを催す。

哀れを感じるのは、仙谷某に対してだけではない。こんな人物を代議士にする選挙区の選挙民、こんな人物に手玉に取られる民主党の反小沢派の国会議員等々。

何だろうね、この人たちは。まあ、選挙民は素人だから騙されていると言えなくもないが、国会議員は玄人なんだから、騙されているとは言えないよ。ということは、反小沢の国会議員は、この仙谷某とどっこいどっこいということか。

国辱的官房長官

官房長官が、尖閣諸島周辺領海への中国漁船侵犯事件について、「司法過程の理解が全く異なることについて、もう少しわれわれが習熟すべきであった。」と記者会見で述べたいう。

エッ、本気ですか、まさか、冗談でしょう、というのが最初の感想。

しかし、冗談ではないらしい、ほんとうに、この官房長官はこのように考えているらしい。

いやはや、恐れ入りました。この程度の人物が、この人口1億2千万の、やや斜陽気味とはいえそれでも世界第3位の経済大国の、しかも内閣の要をつとめているのです。

この人、いちおう弁護士の資格を持っているのでしょう。既成マスコミ情報ではそうですね。既成マスコミが例のごとく嘘を伝えていないとして。

いったい全体、この人はなにを勉強してきたのでしょう。

中国が、共産党一党独裁の国であることは天下周知の事実です。その国の司法過程とやらが、言論の自由あり、三権分立ありで、複数政党が権力の獲得を争うわが日本国のそれと違うことくらい、気の利いた小学生なら知っていますよ。

それを、言うに事欠いて、「習熟すべきであった」とはなんたること。しかも、そのような無知きわまりないことを、記者会見で堂々公言するこの無神経!

いやしくも彼は官房長官です。彼の発言は内閣を代表しており、内閣を代表するということは、対外的にわが国を代表するということです。

この人物が、一私人として発言するのならばどんなに無知であろうと不勉強であろうと、どうでもよいことですが、今はそうではありません。彼は、この発言によってわが日本国民の顔に泥を塗りました。日本国民はこの程度なのか、と世界中が判断する材料を提供することによって。

国辱とか国恥という言葉がありますが、この人物は典型的な国辱的存在です。

さて、この程度の人物をその地位につけた内閣総理大臣の責任、その内閣総理大臣を信任した代表選挙でこの人物に投票した民主党の国会議員、地方議員、党員・サポーターの責任は重大です。