私家版 昭和平成史 世相篇1 「3月11日の黙祷」

平成24年3月11日午後、東京郊外のショッピングモールにいたら、店内アナウンスがあって、1年前の大震災発生時刻になるので黙祷をお願いします、とのこと。

「黙祷」のアナウンスとともに、ざわめきがやや静かになった。少なからぬ人が、そのアナウンスに従ったようだ。

この黙祷を呼びかけるアナウンスは、その施設独自の判断によるものなのか、あるいは、その筋からのお達しに従ったものなのかは不明。

毎年夏の終戦記念日(と大方の人は言うが、本当は敗戦記念日)の正午頃、甲子園の高校野球会場では、場内放送に従って試合を中断し黙祷をしているが、、あのときも、デパートなど人の集まるところでは、店内放送で黙祷を呼びかけているのか。その時分は、旧盆なので、筆者はたいてい自宅におり、繁華街にいた経験がないのでどのようになっているのか知らないのだが。

3月11日の黙祷呼びかけは、今年限りのことなのか、それとも来年以降もずーっと続けるのか。どうなのだろう。

ちなみに、筆者は、その場では黙祷に加わらなかった。どこの誰とも分からぬ人に放送で指示されて、一斉に黙祷するなど、自分の感性ではできない。大震災で非業の死を遂げられた方々のご冥福を祈るのは、自分なりの工夫で臨みたいと考えている。

 

「絆」「支えあい」と「一億総懺悔」

もうすぐ、大震災から1年。その1年が過ぎようとしているこの国で、「絆」と「支えあい」が、はやり言葉になっている。「がんばろう、東北」とか「がんばろう、日本」とかいう言葉もよく聞く。

たしかに、未曾有の災害を経験して、人々が、人間自然の感情の発露にしたがい、「絆」を再確認したり、「支えあ」うのは当然であるし、「がんばる」ことが必要な場面もあるとは思う。

だが、これらの言葉が、あの大震災の経験を、天から降ってきた、誰にも責任のない、不可抗力の運命であり、したがって誰の責任を問うことできず、甘受するしかないものであるので、だから人は皆助け合わねばならないのだという文脈で使われるのなら、話が違う。

地震と津波は天災だったが、福島原発は人災である。「原発安全神話」をばらまいてきた人々、地震と津波の常襲地帯の海岸に無造作に原発を立地した人々、事故発生後に事故が大したことのないように嘘をつき続けた人々、これらの人々による災害、すなわち人災である。加えるに、復興が遅々として進まないことも人災である。

これら人災の責任の所在を明らかにせず、有責者に償いをさせないままであると、この人々は懲りることなく再び同じ過ちを繰り返すことになるに違いない。

こうしたことを考えることなく、すべての人が等しく「絆」を確認したり「支えあい」をすべきであり、「がんばる」べきであるというなら、そういうことは、大震災の人災としての側面を曖昧にし、無責任な振る舞いによって甚大な被害をもたらした人々の責任をうやむやにすることになるのであり、ひいては、このたびと同様の災厄を将来にわたって繰り返すことを防げないだろうと言わざるを得ない。

そういえば、われわれは、敗戦直後、「一億総懺悔」という言葉によって、あの無謀な戦争の責任の所在を曖昧にしたまま今日に至っているのだった。

「災害は忘れた頃にやってくる。」

災害は、天災と人災だけではない。戦争も、また災害である。

 

「右手のすることを左手に知らせない」

小沢一郎氏が、年の始めに、地元岩手民主党の会合で、「政治家の仕事は震災被災地のお見舞いに回ることではない。もっと他にやることがあるはずだ」旨の発言をしたという。

TVカメラの前で、被災者を激励するパフォーマンスなんかしている暇があったら、復興のための条件整備、しかも大災害時だからこそ必要な抜本的な条件整備に尽力するのが政治家たる者の務めだろうというわけだ。正論である。いつものことだが、正論を堂々と主張するから、この人は、後ろめたいことをしている一部の政治家や高級官僚、大手マスコミ幹部に嫌われるのだろう。良薬口に苦し。

古来、お見舞い、援助に寄付、支援だボランティアだなどというのは人知れず静かにやるものだと相場が決まっていた。(「陰徳を積む」) それが、近頃では、政治家に限らず、有名人という人種が鳴り物入りで支援だボランティアだとはしゃいでいる。

そんな有様をみていると、「右手のすることを左手に知らせない」という言葉が浮かんできた。ご存じ、キリスト教の『新約聖書』中の言葉だ。

この「右手云々」の前後はこうなっている。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイによる福音書)」

「天にいます父」を、日本風に「お天道様」、中国風に「天」、あるいはインド風に「お釈迦様」としても、そのまま通用するだろう。つまり、善行は、密かに行われるから善行なのであって、「これから善行をやりますよ」と鐘と太鼓でふれ回るものではない。そんなことなら、それは善行ではなく、ただの売名行為、すなわち偽善だ。

災害があると、いっとき支援やボランティアが集中する。しかし、それも半年一年と経つとだんだん減ってくる。災害の教訓も数年は語り継がれる。だが、十年二十年経つと、あったことさえ忘れられるようになる。人の気は熱しやすく冷めやすい。だから、「災害は忘れた頃にやってくる」のだろう。

風水害に地震の常襲地帯にあるこの国で、偽善ではない支援、災害を忘れない教訓は、どうしたら成り立つのか。平凡なようだが、小沢氏の言うごとく、それぞれの人がそれぞれの持ち場でそれぞれの務めをきちんと果たすこと以外にないのだろう。

 

「美しき五月」の晦日に

本来であれば、一年でもっとも過ごしやすく快適なこの五月なのに、心は暗い。

なぜか。

大震災このかた、行方不明者の捜索ははかどらず、避難所生活を強いられている方が10万人を超える。

それに、いつ収束するか、まったく先の見えない原発事故。

なにより、内閣総理大臣という国の最高責任者が、平気でうそつき、責任逃れをする醜態を毎日のように見ざるを得ない苦痛。

かくのごとき心情を綴って、この「美しき五月」の晦日を締めるのは、はなはだ遺憾と言わざるをえない。

 

 

だから言わないことではない

こういう言い方は好きではないが、いたしかたない。

菅直人が、一国の最高責任者には不向きな男であることは、昨年9月の民主党代表選で明らかだった。

にもかかわらず、国民と国土を守るよりも、自己一身の利益を守ることを優先する新聞TV、それに踊らされた民主党の国会議員など、菅直人を民主党代表に押し上げ、日本国総理大臣にしてしまった愚か者たち。

ヘーゲルだったか、歴史は、高貴な人物が(高貴といっても生まれによるそれではないが)汚辱にまみれ、愚か者が大手をふるってはびこる悲劇というか喜劇というかに満ちていると述べていた。

大震災と大津波、原発事故という三重苦になす術もない菅直人。このどうしようもない無能な、しかも、我欲だけは3人前の人物が、この未曾有の難事に日本国家の最高責任者をやっている悲劇というか喜劇というか、それらのないまぜになったものに、はなはだ遺憾ながら、同時代の日本国民としてつきあわざるを得ない、これまた悲劇というか喜劇というか、なんというか……

だから言わないことではないのだが、しかし……

大震災の教訓

このたびの大震災の教訓はいろいろあるが、一つは、この国の国民と国土を守るのは、とどのつまり、自分たち、すなわち主権者である自分たち国民以外にはいない、ということだと思う。

まずい結果になると、「想定外」を連発して責任逃れをする科学者や電力会社、その言い逃れをオウム返しする政治家が守ってくれるわけではない。

壊れ方があの程度だったから、日本の技術はたいしたものだと、頓珍漢なことをうそぶいて平然としている経団連会長が守ってくれるわけではない。

これらの連中の宣伝機関と化した新聞やTVが守ってくれるわけではない。

いわんや、同盟国だというアメリカが守ってくれるわけではない。アメリカは、金の卵を産む限りの日本が大事なのであって、卵を産まなくなった日本には用はないのだ。

では、主権者であるわれら国民は、どのようにして自分たちと国土を守るのか。

至極簡単である。自分たちの生活は自分たちで守ろう、自分たちの国は自分たちで守ろうと思えばよいのだ。自分たちのことは自分たちで守る。この当たり前のことを思い、そのように振る舞えば、問題解決の第一歩を踏み出したのであり、道の半ばは越えたと言うべきだろう。

まず、手始めに、国民と国土を守ることよりも、アメリカと、そのアメリカのおこぼれをもらって栄耀栄華する自分を守ろうとしている新聞の購読を止めること、TVを見ないことにしたらいかが。きわめて重みのある第一歩だ。

大震災から一か月

大震災から一か月。

警察庁発表では、亡くなった方1万3000余人、行方不明の方1万4余人。避難所などに避難している方14万人余。

亡くなった方の冥福をお祈りし、行方不明の方が見つかることを切に願う。 避難している方が落ち着いた生活を取り戻すことができるように。

合掌。