憲法論と政治論

年頭の総理大臣挨拶の情けなさについては、西岡参議院議長を始め、多くの方が指摘しているのでそちらに任せるとして、当ブログでは、参議院で問責決議を受けた官房長官の仙谷某の発言についての疑問を記録しておきたい。

この人物が、その地位にあるのもあと一日かそこいらというところだが、探求の範囲が狭いからなのかどうか、ブログ主が感じたような疑問を他では見かけないので、このような疑問もあるということをあえてブログ記事にしておくことも無駄にならないだろう。

疑問はいろいろあるが、なかでも、「問責決議で閣僚を辞任するよう野党が迫るのは政治論としては成り立つだろうが、憲法論としては成り立たない」として、内閣不信任決議は衆議院の特権であって参議院にはその特権はないから参議院の問責決議は法的拘束力を持たない、憲法には大臣が国会の会議に出席して意見を述べることができると書いてあるので自分は国会が開かれれば出席する、という一連の発言である。

この発言からは、この人が、政治と憲法との関係では、憲法の規定が政治の上位にあり、政治的な主張や主張に基づく運動はそれとして、憲法の規定がかくかくしかじかである以上、野党の政治的主張や運動は憲法の規定に従わなければならなず、従って自分が官房長官を続けることに何の問題もない、と考えているように見える。

しかし、はたしてそうなのか。

憲法は、政治的共同体(国家)の在り方を決める政治的文書とでもいうものであり、民法やら刑法やら、社会生活の細部を取り仕切るふつうの法律とは性格が異なる。

政治的文書という性格から、国家の在り方が変わると、当然、憲法も変わることになる。

近いところでは、敗戦という政治状況の変化により、国民が主権者となった結果、天皇が主権者であることを前提とする大日本帝国憲法が、国民主権の日本国憲法へと変わったことが好例である。

つまり、政治と憲法との関係を一言でいえば、政治があって憲法があるのであり、憲法があるから政治があるのではない。

しかも、政治とは突き詰めれば人間関係であり、人間関係を成り立たせる根本のところは、信頼である。したがって政治的文書である憲法も、関係する人々の間に信頼関係がないと、意味をもたないたんなる空文になる。

こう考えると、官房長官の仙谷某の言っていることのおかしさが明らかになってくる。

野党の思惑はさておき、国会議員の多数が問責決議に賛成したということは、国会議員の多数がこの官房長官は信頼できないと表明したことに他ならない。

あなたは信頼できないと人に言われて、法律にはそう書いていないと返したのが、この仙谷某だ。この人、憲法という政治的文書と、普通の法律の区別がつかないらしい。いままさに、信頼が、ということは政治が問題になっているにもかかわらず、憲法を普通の法律であるかのごとく思いなし、憲法の規定がどうのこうのとまさに三百代言的言辞を弄して周囲を煙に巻こうとするその態度の卑しさ。

この人は、衆議院議員をやっているはずで、世間では政治家ということになるものであろう。政治家が、政治と憲法の関係についてこのように頓珍漢な認識しかもっていないということは、わが国の政治家の劣化を物語るものであろう。

新聞・TVなどの企業ジャーナリズムの劣化は言わずもがな、加えて一部政治家の劣化、まさにわが国は国難の中にある。

余談だが、大日本帝国憲法には「不磨の大典」という文言があり、明治政府の法律顧問の西洋人に、憲法とは政治的文書なのだから政治が変われば憲法も変わる、政治は永遠不変ではないのだから、こんな言葉を書き込むのはみっともないからおよしなさい、と助言されたが、時の政府高官が押し通したというエピソードが残っている。