「東大の経済学部はマルクス経済学を専攻する専任教員は新規に採用しないという意思決定」をしたといったん報道しながら断りなくこれを取り消した日本経済新聞

そういえば、最近、東大経済学部ではマルクス経済学はどうなったんだろうと思って調べたら、こんな事件に遭遇。心覚えのため記す。

くだんの日経記事はこれ。2020年7月2日現在、経済理論学会が東大総長あて公開質問状で問題にした(日本国の納税者の一人としての自分も当然問題にする)この渡辺努・東大経済学部長のものとされる発言は見当たらない。削除したのか。

経済理論学会の公開質問状はこれ。それによると、渡辺学部長の発言は「ある時点で,東大の経済学部はマルクス経済学を専攻する専任教員は新規に採用しないという意思決定をしました。」というもの。

これが事実だったら、おいおいほんとかよ、そんなこと言っちゃっていいのかよ、ということになってしまう。なにしろ、機を見るに敏なはずの秀才の集団が、つまり時流に棹さすのに巧みな集団が、世界的なマルクス復権の流れに、まったくといっていいほど目を向けていない、井の中の蛙状態を自白しているようなものだから。

これに、マルクス研究者の学会である経済理論学会が、真否を問う公開質問状を出すのは当然のこと、出さなかったら学会としての存在意義が問われるよ。

東大からの回答は、同学会の質問状のページからリンクが貼られていて現物の写真を拝める。封筒まで! 発信元は総長名ではなく「東京大学」という組織名。本文は2行半、「事実関係を確認したところ、「意思決定」がなされたという事実はない」というもの。

以上が昨年12月中の話で、2月になっても日経記事中の該当発言がそのままなのに業を煮やした学会が再度の質問状を出す。こんどは渡辺学部長あてにも出したので同学部長から3月になって回答があった。それによれば、ご本人は、早くも12月中には日経に記事訂正を申し入れたという。

さて、日経の記事、2月以降、現在までのどこかの時点で該当発言を削除したのだろう。ご本人がそんなことは言っていないと言い、記事からその発言が消えているということは、日本経済新聞がそのこと認めたということになる。つまり、日本経済新聞は、本人が言っていないことを書き飛ばした、つまり虚偽を記事にしたということだ。それならそうとそのことを読者にはっきり言おうよ。なのに、きょう現在、日経のWEBページに掲載されている記事にはなんの断り書きも書かれていない。ふーん。

こういうのって、世間では、ふつう、しらばっくれる、略してバックレると言うんじゃなかったけ。日本経済新聞が資本家階級の代言人だということはみんな知っているけど、こういう虚偽報道やバックレをやっていると信用がなくなって、ご主人さまからお手当を貰えなくなるぞ。

〈リンクは経済理論学会のWEBページからコピー、第7段落のリンク2箇所は、akamac’s review氏の記事からコピー。記して感謝します。〉

男の嫉妬

嫉妬というものは、男がしても、女がしても困ったものだが、男の嫉妬は、それがなにやらもっともらしい理屈をくっつけて現れるものだから、とりわけ始末が悪い。

朝日、読売、毎日、日経など新聞の編集幹部、TVのニュースショウのコメンテイターなどによる小沢たたきは、まさにこれの典型だ。

彼らが小沢氏に投げつける「壊し屋」だの「金権政治家」だのというフレーズは、屁理屈以外の何物でもないが、そういうレッテルを貼って喜んでいる彼らの心底にあるのは、ただ単純に、小沢氏にたいする男の嫉妬だ。

自分たちが、嘘とごまかしの人生、卑屈と追従の人生を生きてきたことに忸怩たるものがあるので、それとは対極にある小沢氏の生き方に、もうどうしようもないほどの嫉妬をしているのだろう。文字通り、身体がわなわな震えるくらいの嫉妬を。

自分たちにはとうてい理解できない大きな存在であることを素直に認めればよいものを、人間としての器量が小さいものだから、それはできない。できないどころか、小沢氏が着々と信念に従って「千万人といえども吾往かん」の気概で歩を進めていることに、なおさら嫉妬が募る。

最近の新聞TVによる小沢報道の偏向ぶりは常軌を逸しているが、その根底に男の嫉妬があると見て取れば、なるほど腑には落ちる。

腑には落ちるが、しかし、こんな腹を空かせた犬猫でもまたいで通るような、やくたいもない男の嫉妬がひねりだした「小沢悪者論」という妄想を、疑いもせず信じ込んでいるように見える同胞がいるとなると、笑って済ませるわけにはいかない。なにしろ主権者は国民なのだから、妄想にとりつかれた一票もこれまた一票。男の嫉妬が生み出した妄想が人から人へと取り付いて、ひょっとしてわが日本の政治の在り様を決めかねない。

そんなわけで、今、わが国の政治にいちばん必要なものは、男の嫉妬の解毒剤である。

そういうものがあるとして。

 

ムバラク辞任で困ってしまった日経カイロ特派員の花房君

2月6日付のブログ記事「エジプト情勢とアメリカの忠実な番犬である日本経済新聞」で、日本経済新聞のカイロにいるらしい花房という人の記事をこき下ろした。

その、同じ花房という人の「エジプト大統領辞任、軍が権力掌握 米は歓迎の意向」という見出しの記事が2月12日付け日経のネット版に載っていた。冒頭部分は以下の通り。

【カ イロ=花房良祐】29年間にわたりエジプトを統治してきたムバラク大統領が11日、辞任した。スレイマン副大統領は同日、国営テレビを通じて「ムバラク大 統領は辞任を決断した」と話し、権力を軍が掌握すると宣言した。チュニジア政変に触発されてエジプトでは1月25日から連日抗議デモが続いていた。9月の 大統領選挙への不出馬を表明していたが即時辞任要求は収まらず、任期半ばの退任を余儀なくされた。米国政府は歓迎する意向だ。

2月6日付のブログ記事で指摘したが、この花房という人、デモの混乱に一部市民や観光産業関係者がいらだちを募らせており、ムバラク側が沈静化を図っていると書いて、反ムバラクのデモが低調になることを期待している気持ちを隠そうとしていなかった。

花房という人の気持ちの根底には、アメリカがすることは何でも正しい、そのアメリカが支援してきたムバラク政権にいちゃもんをつける輩は不届きものであるという、デモ参加者に対しての否定的な感覚があったのであろう。

ところが、デモに示されたエジプト国民の意思に逆らえず、ムバラク政権が倒れてしまったので、さあ困った。ムバラク政権が倒れないこと、すなわちアメリカのエジプト支配が続くことを願っていったので、デモに示されたエジプト国民の主張を顧慮せずに、ムバラク政権側に立って原稿を書き飛ばしていたものだから、引っ込みがつかなくなってしまった。

でも、世の中、捨てる神あれば拾う神ありだ。

「米国政府は歓迎する意向だ。」

花房という人にとって、救世主が現れた。この人の大好きなアメリカが、政権交代を是認したのだ。

よかったね、ほっとしたことでしょう、花房君。アメリカ様がオーケーを出したので、これまで間違った方向を向いて書いていた原稿の後始末を自分でしなくても済むことになったのだ。これからは、アメリカ様が歓迎する方向だ、と文章を結べば、見当違いの原稿を書いてきた不始末はすべて免責されるというわけなのだから。

ろくに取材もしないで、アメリカべったりの原稿を書いていればそれで済むような記者であれば、なにも大金をかけてカイロくんだりまで派遣することはないだろう。この花房という人の書いた、この程度の原稿であれば、エジプト現地にいなくても、通信社の配信記事と衛星中継のTV画像を見て、アメリカ万歳という調味料をかければ、日本にいてもいくらでも書けるのではないか。

こんなことに無駄金を使う新聞紙を、高い金を出して買う余裕のある人が何百万人もいるのだから、日本が不況だというのはひょっとして眉唾?

自分に甘く他人に厳しい日本経済新聞

昨日、電車内で乗客が読んでいる日本経済新聞(日経)の見出しにこうあった。

「規制改革 薬品販売をインターネットで」

記事の内容は、まあ、どうでもよい。この新聞社の社是は、規制撤廃・自由化万々歳なのだから、薬品販売が対面方式で資格のある者にしかできない、つまりインターネットではだめだという「規制」について、撤廃しろという論調で書かれているのだろう。

ここでは、薬品販売について、有資格者による対面販売に限定するのがよいのか、インターネット販売をもっと拡大するのがよいのか、には触れない。

問題にしたいのは、日経の新聞社としての根本的な姿勢である。

ご存じのように、新聞の値段は、ほとんど各社横並びで、しかも、販売店によって値段が違うということがない。これは、再販売価格維持制度(以下、再販制)なるものによって、新聞社が新聞販売店に対して、指定する価格でしか販売させないよう縛りをかけているからだ。

新聞社が新聞販売店に売る価格=卸売り価格に対して、新聞販売店が消費者に売る価格=小売り価格を、元売りの新聞社から見て2段階目の販売価格になることから、「再」販売価格と呼ぶ。この価格が、元売りの新聞社から見れば自分の望み通り維持されているから、再販売価格維持制度という。ややこしいですな。

これはおかしい。

身近な商品、たとえば食料品や日用雑貨を考えるとこのおかしさがリアルにわかる。

同じメーカーの同じ商品でも、店によって販売価格は異なる。スーパーだろうが専門店だろうが、小売段階では少しでも多くお客さんに買ってもらおうと、骨身を削って安売り競争をしている。日経が大好きな競争をね。

メーカーが小売りに対して定価販売を強いるようなことがあれば大問題になる。だから、メーカーでは価格を表示しないか、表示しても「希望小売り価格」とするのを忘れない。あくまで、小売りに対して、できればこの値段で売ってください、そうしてくれればメーカーの卸値も下げずに済み、利益も確保できるからという希望にすぎない。

ここで、ちょっと市場経済についてお勉強。

日本やアメリカ、EU諸国などは資本主義経済をやっているとされる。資本主義経済とは何か、ということについてはさまざまな定義の仕方があるが、ここでは市場経済がその核にあるとしておこう。

その市場経済だが、市場というと、一般消費者(つまり生活者ですな)と小売業の皆さん(八百屋さん、魚屋さん、スーパーなどですな)との取引が真っ先に思い浮かぶが、そればかりではなく、至るところに市場はある。学生さんが内定をもらえず苦しんでいる就職活動も、企業などの買い手と学生さんなどの売り手からなる労働市場が舞台だし、メーカーと卸・小売りとの間の取引関係も市場ということになる。

こうした市場での売買・取引では、ふつう、売り買いされるものは、需要と供給の大小によって、値段が上がったり下がったりする。この値段の上がり下がりが、逆に需要の大小を調整し、結果として、極端な品不足もなければ極端な売れ残りも生じない、過不足のない状態が実現する。

これを、経済学なる世界の人々は、希少な資源の最適配分を実現する市場の価格調整機能、などと呪文のごとき文句で表現する。

まあ、簡単にいえば、この市場の価格調整機能によって、ブログ主は、欲しいと思ったものを、お金さえあればだが、いつでも店に出かけて手に入れることができるというわけなのだ。(おかげさまで、ありがたいことです。)

というわけで、この市場の価格調整機能を妨げるような行為については、人々の円滑な日常生活を損なう犯罪として法律によって厳しく戒められている。

その法律は、日本では、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律、略して独占禁止法という名前がつけられている。(以下独禁法)

ここで確認しておきたいのは、価格調整機能を妨げる行為は犯罪だということだ。犯罪というからには、加害者と被害者が必要だが、ここで、加害者は、価格調整機能を妨げる行為によって不当な利益をあげる者、被害者は、価格調整機能を妨げる行為によって不当に利益を損なわれた者、になる。市場を舞台にした犯罪だから、加害者は生産者、メーカー、供給者、発注者であり、被害者は消費者、卸業者、小売業者、下請け業者ということになる。

ここまでお勉強したところで、新聞の値段と再販制に戻る。

日経をはじめ、日本の新聞社は、ブログ主の知る限りすべて、再販制によって、小売り(新聞販売店、駅のスタンドですな)に対して定価販売を強いている。

この再販制による縛りがなければ、販売店やコンビニによって、より多くの読者を獲得するため、新聞の値引き競争が試みられるかも知れない。値引き競争が熾烈になれば、販売店やコンビニが、元売りの新聞社に対して卸売価格の引き下げを要求するだろう。新聞社と販売店やコンビニとの間の取引関係、すなわち市場が、日経の大好きな、規制のない自由な競争がおこなわれているのなら、新聞の価格は下がり、新聞社の利益も減少するだろう。

ところが、現状はといえば、再販制の縛りが効いて、新聞社と販売店などとの間の市場では自由な競争が行われていない。行われていないから、日経を始めとする新聞社は、自由な競争が行われている場合に比べて、不当な利益を上げている。不当な利益を上げているからこそ、日経を始めとする新聞社は、異常に高い給与体系を維持できるのだろう。反対に、小売業者である販売店などと消費者である読者は、自由な競争が行われていれば実現しているであろう価格よりも高い値段で新聞を仕入れさせられたり買わされたりすることによって、不当に利益を損なわれている。

つまり、簡単にいえば、日経を始めとする新聞社は、市場の価格調整機能を妨げる行為=犯罪を、公然とやらかしていることになる。

なぜ、あの、小沢一郎氏に対しては、「政治とカネ」という根拠のないデマをこれでもかと浴びせかける日本の大新聞が、白昼堂々、法律違反をやらかすことができるのか。これが、実に不思議、日本の大新聞による手品みたいなトリックがそこにはあるのです。

そのトリックとは、独禁法の例外として、新聞の値段に再販制を認めさせていることなのだ。

新聞以外に、雑誌・書籍・音楽ソフトについても、再販制が認められているが、はたしてこれらの商品を独禁法の例外とすることがいいことなのかどうかは今は触れない。

認めさせている理由は、おそらくこういうことなのだろう。(ブログ主が、たとえば、大新聞の幹部の立場なら、そう言いますな。)

新聞は、民主主義の基礎である国民の知る権利を守るという尊い使命をもっている、その尊い使命をもつ新聞が、安売り競争に巻き込まれて、経営状態が危うくなるようでは、国民の知る権利自体、民主主義自体が危うくなる。だから、新聞が不当に安売りされないように、再販制という規制によって守られなければならない。

………!?

うーん、こういうのを、「夜郎自大」とか「噴飯物」というのだろう。

まあ、百歩譲って、そういうことだとしても、それは、新聞が、本当に、国民の知る権利に役立っている限りにおいてのみだ。

ところが、どうだ。

現今の日本の大新聞が、国民の知る権利に役立っている?

嘘だろう。

特捜検察の筋書き見込み捜査情報を垂れ流し、「政治とカネ」のデマ宣伝で、知る権利を守るどころか、国民の目を晦ましているのはどこのどなたか。その大新聞が、言うに事欠いて、国民の知る権利を守るだなんぞとは、脳死状態の朝日新聞社説の名文句を借りれば、「開いた口がふさがらない」

ここで締め。

日本の大新聞の中でも、とくに、規制緩和万歳、市場経済万歳の日本経済新聞は、自分たちが、再販制という規制によって守られ、市場経済における自由な競争を妨げ、不当な利益を上げるという犯罪を日々重ねていることについて、あなた方の大好きな言葉で言えば、説明責任がある。ブログ主が、代弁したような説明では、これまた新聞の常套句「まだ説明責任を果たしていない」だよ。

ちなみに、日経が市場経済のご本尊として崇め奉るアメリカ合衆国では、新聞は再販制の対象ではない。

まったく、この連中ときたら、自分のことについては大甘のくせに、人には、口を開けば、規制緩和だ、自由な競争だなんぞと、よくも恥ずかしくなく言えたものだ。

罰が当たるよ。

日本経済新聞の罪と罰

昨日、電車内で乗客が読んでいた日本経済新聞の一面に、「年金給付50兆円突破 名目GDPの1割 1.8人で1人支える」という見出しがあった。

例によって、読者を消費税増税賛成に誘導する、財務省をはじめとする霞ヶ関高級官僚軍団のお先棒担ぎ記事だろうと見当をつけたところ、ビンゴ!大当たり。

日経のサイトにアクセスしたら該当の記事が全文載っていた。

最近、日経はネットの記事配信を一部有料化し、記事によっては最初の段落のみ閲読可能だが、続きを読みたければ金を払え、とまあ、蒲焼きの匂いだけ嗅がせて、お預けを喰わせるようなあこぎな商売をしているが、この記事は全文掲載されていた。この手の洗脳記事については広告宣伝扱いで大盤振る舞いということか。分かりやすいといえば分かりやすいが、まあ、なんとも現金な商売をするねえ、日経さん。ところで、日経のこの有料ネット配信ビジネス、引っかかる人がいるのだろうか。紙媒体はもちろん、ネットでまで、こんなゴミみたいな情報に金を払うなんて、ドブに捨てるようなものだが。

その記事だが、興味のある方はご自分でアクセスしていただくとして、ざっと筋をまとめると、至極簡単、以下の如し。

団塊の世代が年金受給年齢に達したので支払い額が増えた、現役世代の負担が増えるのはたまったもんじゃない、だから現役だろうが引退していようが、誰も彼も所得の多寡に関係なく払わざるを得ない消費税増税しか解決策はない。

と、こんな次第で、とどのつまりは、消費税増税万歳という霞ヶ関高級官僚軍団の提灯持ち記事というわけ。

ブログ主の異議は2点。

第1。

公的年金制度維持のためには、国民が払う保険料だけでは足りない、不足分に税金を投入するとして、その税金をどこからもってくるか。

日経さんは、消費税だ、と叫んでいるわけ。

だがね、霞ヶ関高級官僚軍団の既得権維持必要経費分プラスアメリカ合衆国への見かじめ料をまずはじめに差っ引いて、そのお余りでどうのこうのしようとすりゃあ、税金なんぞいくらあっても足りはしないよ。そんなことは、小学生でもわかる道理だ。なにも池上なにがしを呼んでくるまでもない。

問題はそこだ。この霞ヶ関高級官僚軍団の既得権維持必要経費分プラスアメリカ合衆国への見かじめ料をどうするか、そこのところを切り込まないで、霞ヶ関高級官僚軍団の筋書き通りの御託を並べているんじゃ、財務官僚のお先棒担ぎだの提灯持ちだの言われてもしょうがない。

日経さんよ、あんたがたも、ジャーナリストのはしくれだ、ぐらいに思っているのなら、お得意の調査報道とやらで、国家予算の大胆な組み替えシミュレーションをしたら、こうなりました、だから、年金財政はかくかくしかじかです、といった具合の記事を書いて紙面に載せてごらんよ。

第2。

結果としてこの記事は、年寄りを食わせるために、若い連中が犠牲になるんだ、怒れ! 現役世代よ! という具合に世代間の対立を煽っている。

いけませんなあ、こんなことをしては。マスコミの悪い面のもろ出しだ。

新聞は、報道・評論を稼業としている。評論だから、対象を批判的に取り上げることは当然ある。批判だから、誰も彼も満足する記事ばかりというわけにはいかないだろう。だが、だからといって、霞ヶ関高級官僚軍団の言い分を鵜呑みにして、そのお先棒を担ぎ、国民の間に分裂と対立を招くようなことをしてもいいということには断じてならない。

マスコミというものは、ドッグレースの犬みたいなところがあって、鼻先にダミーの兎だかなんだか、話題や事件をぶら下げられると、わき目もふらず追いかけるという習性をもっている。瓦版屋の昔から変わらない。この習性を、悪意の人物なり集団なりにうまく利用されると、とんでもないことになる。つまり、悪者連中の思うがままに虚偽情報を垂れ流し、読者や国民を間違った方向に誘導することになる。

古くは、ヒットラー率いるナチスの勢力拡大とユダヤ人虐殺。マスコミの皆さんは、知ってか知らずしてか、口を拭って言わないが、いかなヒットラー、ゲッベルスにしても、その言葉を伝える新聞やラジオがなければあんな大悪事を実行しようがなかった。(たしか、世界初のTV中継はナチスドイツの国威発揚のベルリンオリンピックの時ではなかっかたか)

近くは、1990年代の旧ユーゴスラビア紛争。凄惨な宗教・民族対立の修羅があったのだが、そうなるについては、政治指導者による対立を煽る言動を、これでもかとばかり垂れ流したマスコミの存在があった。

身近なところで、わが「政治とカネ」は言うに及ばず。

だから、この稼業にたずさわる皆さんは、そこのところを十二分にわきまえて事に当たらなければならないはずなのだが、「政治とカネ」ひとつとってもまったくできていない。前車の轍を踏まず、どころか、寸分違わず追随しているようにさえ見える。

斯くの如く、霞ヶ関高級官僚軍団の言い分を垂れ流し、結果として、国民の間に深刻な対立と分断を生じるような日本経済新聞の報道は犯罪的である。

彼らの罪は深い。

この罪に対する罰を、お天道様はなんとするだろうか。