小沢裁判判決の日

今日、あの小沢裁判の第一審判決の日。

どういう判決が出ようと、驚くことはない。なにしろ、「石が流れて木の葉が沈む」のが日常茶飯のこの国の昨今なのだから。

それよりも驚いたのは『週刊文春』の中吊り広告トップ記事。編集部は無罪判決を予想したのか、たとえ無罪になろうとなんだろうと、小沢さんを貶めてやるという魂胆が丸見え。よほど焦っていますね、この連中。こんなことまで持ち出すなんて。

数十年前の田中角栄追い落としキャンペーンの成功体験が忘れられないのか。こんな浅知恵にだまされる人はけた違いに少なくなっているというのに。なにやら、哀れを催す文春編集部のお粗末ぶり。

検察官が犯罪を組織的に行う怖い国

2月17日に東京地方裁判所であった、いわゆる「小沢強制起訴裁判」の証拠採否決定。この決定理由書の中で、裁判官は、検察審査会がいわゆる強制起訴を決定するに当たってより所とした、小沢氏の元秘書・石川代議士の供述調書や検察官の捜査報告書が、違法・不当な方法によって作成されたものであり、しかもその違法・不当な方法は組織的に行われたと見られると述べた。

これは重大だ。というのは、あの裁判所ですらが、すなわちあの刑事裁判有罪率100%近い裁判所ですらが、ということは検察官の言いなりの判決を出す自動有罪マシーンのごとき裁判所ですらが、東京地検特捜部の検察官の行動を、違法・不当かつ組織的と断じたからであり、つまりはこの検察官たちの犯罪ぶりは隠しようがないほど明々白々なこととなったからだ。

ところで、裁判官が、検察官の行動が違法・不当かつ組織的だと言ったのは、特捜部は犯罪組織だというのと同じことだ。

怖い、怖い国だ。公訴権を独占している検察官が、正義の味方であるどころか、犯罪者集団だというのだから。怖い。この国の国民は、いかにまじめに生きていてもどんなに犯罪とは無縁の生活を送っていても、いったん検察官ににらまれたら、それで一巻の終わり、起訴され有罪にされ刑務所に送られ、人生をめちゃくちゃにされるのだ。

新聞TVも共犯だ。なんとなれば、彼らは、こうした検察の犯罪を糾弾するどころか、逆に、検察のお先棒を担ぎこれら無実の人々を叩きまくるキャンペーンに全精力を傾けているからだ。

裁判所もしかり。昨年9月の、「陸山会事件」の判決で、東京地裁の某裁判官は、刑事裁判の鉄則「疑わしきは被告人の利益」ではなく、あろうことか、確たる証拠もないのに「推認」に「推認」を重ねて、検察官の言いなりの「疑わしきは被告人の不利益」の有罪判決を出したのだから、これも立派な共犯だ。

怖い国だよ、この国は。はたして、この国に「正義」というものはあるのだろうか。

朝日新聞あるいは新聞・TVの「小沢恐怖症」について

1月9日の朝日新聞社説がネットで話題になっている。

10日にある小沢氏の裁判に関連したものらしいが、ネットの引用をちらりと見る限りでは、あいもかわらぬ「小沢憎し」の一本調子で塗りつぶした文章のようである。

この新聞が、小沢氏をわざわざ社説で狙い討つのは、よほど小沢氏が気になるからに違いない。そうでなければこの新聞が、通常は名もなきものに対してそうしているように鼻も引っかけないだろう。

なぜそれほど気になるのか。

思うに、この新聞は小沢氏なる政治家が一体全体いかなるものであるのかさっぱり分からないのだろう。分からないから気になるし怖い、怖いから闇雲に突っかかる。いや、実のところ、この新聞は小沢氏のことを含め、この世界のことについてなんにも分かっちゃいないのだが、なんについても分かっている振りをするのが習い性となっているので、分からないことについて、分かりませんと素直に謝ることができない。だから、その座りの悪さ、あるいは自信のなさを隠すために、ああも執拗に小沢攻撃に走るという訳なのだろう。

弱い犬がやたらに周囲に吠えかかるのと同じ理屈だ。いや、犬だけではない、人間も同じ。自信のない小心者ほど居丈高になるというのはよくある話だ。

こんな新聞が、何百万部も売れているというのだから、おめでたいというかなんというか。だから、この世の中、いつまでもこんな有様なのだろう。

さて、以上は、たまたま目に付いた朝日新聞についての感想だが、言うまでもなく、他の新聞・TVについても事情は同様である。

小沢氏の戦い

今日、例の検察審査会起訴による小沢氏の裁判があった。

その場で、小沢氏が述べたことは、以下のようなことだ。

特捜検察に象徴される高級官僚集団という巨悪の手にこの国を委ねるのか、それとも、国民の手に主権を取り戻すのか。前者の道をたどるのならこの国に未来はない。こんな裁判が、国家権力の名の下に白昼堂々おこなわれるということは、まさにこの国が破滅に向かう兆しだ。この国が未来を持つためには、特捜検察や検察の言うがままにメチャクチャな判決を書く裁判官による裁判とは全力で戦わなければならない。

ブログ主は、小沢氏の主張に100パーセント同意し、巨悪と敢然と戦う小沢氏に敬意を表する。

当ブログも、小沢氏の驥尾に付して、国民の手に主権を取り戻すために、法治国家の名に隠れて権力を濫用する検察官や裁判官とは、言論をもって戦う覚悟だ。

日本の刑事裁判の不思議

先日、保護責任者遺棄致死罪に問われた某芸能人に対する一審判決がでました。

判決内容については言及しませんが、ブログ主が、またかと思ったのは判決文の次の一節です。いわく「微塵も反省の情が見られない。」

思わず噴き出してしまいました。裁判官は刑事裁判がどういうものか分かっているのでしょうか。

裁判では告発人(刑事裁判の場合は国家でその代理を検察官が務める)と被告発人(刑事裁判の場合は被告人)は対等の立場で、事実の認定(及びその事実の認定の根拠となる証拠の証明力)をめぐり争います。あくまで両者は対等なのです。そして、言うまでもなく有罪判決が確定するまでは無罪なのです。ですから、被告人の側が争われている事実に関して多少なりとも異議があれば、抗弁するのは当たり前なのです。

その、被告発人として当然の防御権を行使することをとらえて、反省のかけらもない、などとお説教され、あまつさえ量刑の情状酌量で不利にカウントされるのではたまったものではありません。このことを大メディアをはじめ誰も問題にしようとしないのは摩訶不思議と言うほかありません。

判決は認定された事実に基づいて相当とされる刑罰を言い渡せばよいのであって、公判の過程に於ける被告人の対応 について道徳的お説教をする必要はまったくありません。いわんやそれを情状と称して量刑に組み入れるなどもってのほかです。

思うに、裁判官のこの発想は、江戸の昔のお白洲裁きから少しも変わっていないのかもしれません。法廷に引き出されて来たのは、すでに町方役人による拷問ありのキツーイ取り調べで「おそれいりやした。」と自白済みの極悪人、有罪の結論は見えており、後はどう懲らしめるかが問題なだけ、というあのTVでおなじみの大岡越前あるいは遠山の金さんをなぞっているだけという感じがしないでもありません。

とにかく司直の追究対象になったら、 もうそれだけで有罪確定扱い、「恐れ入りました」とたとえやっていなくとも素直に謝らなければ、どこまでも「説明責任」とやらを振りかざして叩き続ける何処かの国のマスコミと、日本国の裁判官諸氏は、こりゃ~、気脈を通じているんでしょうかいネ~。オット、お後がよろしいようで…