鳩山前首相インタビュー再論

一昨日(2月14日)のブログ記事「素人の政治家」で、鳩山前首相の共同通信によるインタビューを批判的に取り扱った。

だが、このインタビュー、最高権力者の地位を離れたばかりの人物が、すこぶる簡略ながら、一種の回想を世に問うたものと見ることもできる。(本人がどういう動機でインタビューに応じたかは別として。)

わが国の政治家は、回想録や日記の類を生前に、あるいは死後になっても、公開することが少ない。過去のことは水に流すことを良しとする風潮や、沈黙は金とする価値観からか、公職を引退後も、多くの政治家は自らが関わった政治プロセスについてなにも語らず、秘密を墓場までもっていくことがしばしばだ。

ブログ主は、このことをかねてから残念に思っている。公職にあった政治家の回想録や日記の類は、その政治家が関わった政治プロセスについての証言であり、当代および後世の国民がその当否を判断する材料になるので、そういうものがあれば、似たような問題が発生したとき、それらを参考にすることで同じ失敗を繰り返さなくとも済む可能性が高まるからだ。

少数の例外がある。平民宰相こと原敬(1856-1921)の『原敬日記』、最後の元老・西園寺公望(1849-1940)の私設秘書、原田熊雄(1888-1946)の『西園寺公と政局』など。

そう考えると、このインタビューは、歴史的な政権交代によって誕生した初の民主党内閣の実相を当事者の証言から知ることができるものであり、今の政治を考える手がかりになる貴重なものだということになる。

そういう目で見直すと、このインタビューのポイントは、鳩山氏の日米関係に対する見通しの甘さや(2月14日付ブログ記事「素人の政治家」で既述)、初の民主党内閣における首相と他の閣僚との無関係のような関係であったり、その関係の有り様から見えてくる民主党そのものの問題性を明らかにしているところにあると思う。

例によって、新聞・TVは、沖縄のアメリカ海兵隊を抑止力とするのは方便だという趣旨の発言だけをクローズアップして、本当は沖縄県民が気の毒だなどとは毛ほども思っていないくせに、沖縄県民に謝罪しろなどのお為ごかしの大騒ぎをやらかしているが、毎度のこととはいえ、困ったものである。

まず、首相と他の閣僚との関係から。鳩山内閣当時、「閣僚の発言はバラバラだった」と聞かれての返答。

「岡田(克也)君は外相当時、マニフェスト(政権公約)に『県外』とまで書かなかったと話したが、民主党が圧倒的な国民の支持を得て政権を中心的につくらせてもらったのだから、党のビジョンはしっかり打ち出すべきだと思った。一致して行動していただきたいという思いはあった。」

「北沢俊美防衛相は、政権交代後、どこまで防衛省の考え方を超えられるか、新しい発想を主張していくかということが本当はもっと勝負だった気がする。」

第1の疑問。

鳩山氏は首相としての指導力をどう考えていたのか。鳩山氏の言葉からうかがわれるのは、一国の最高責任者である総理大臣というより、自分の思い通りに動いてくれない閣僚に対して強く指導するでもなく、こうしてほしいと思ったとか、もっと勝負してもらいたかったとか、まるで他人事のような感想をもらすだけの、なんとも無責任な傍観者の姿だ。

日本国憲法は、衆議院の解散権や国務大臣の任命・罷免権など最高級の人事権と、行政の各部門に対する指揮監督権を内閣総理大臣に与えており、その地位についた人物の政治的力量によっては、強力なリーダーシップを振るえる強い総理大臣を想定していると考えられる。

最近の例では、あの強力なというか強引なというか、そのようなリーダーシップを発揮した人物に小泉某がいる。そのリーダーシップによって実行された新自由主義的な施策は、日本の社会に分裂と格差をもたらした元凶以外の何者でもなかったと、ブログ主は考えているが、日本の首相もやればできるんだということを実証して見せたことは認めなくてはならない。

ところが、鳩山氏は、総選挙での圧倒的な勝利により、首相の座に就いたにもかかわらず、この強力な権限を適切に使った様子が見えない。それが証拠に、彼の言葉からは、一国の最高責任者として国民のために善かれと思ったことを、万難を排して、それこそ首相としての権限を最大限に使ってでも、断固やり抜くという強い意志が感じられない。

普天間移設問題に関しての「反省点は」と聞かれての答え。

「相手は沖縄というより米国だった。最初から私自身が乗り込んでいかなきゃいけなかった。これしかあり得ないという押し込んでいく努力が必要だった。」

なぜ、首相在任当時に、その努力をしなかったのか、今さら、そんな感想を言われても困るのだが。

また、他の閣僚たちも、副首相だった菅直人や、ここに名前の挙がった二人を代表格に、首相に積極的に協力しようとしないばかりか、むしろ、自分が担当する省庁の既得権を損ねないように行動していたとしか見えない動き方をしている。

「外務、防衛両省に新しい発想を受け入れない土壌があったのでは」と尋ねられての返答。

「本当に強くあった。私のようなアイデアは一笑に付されていたところはあるのではないか。本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国との間のベース(県内移設)を大事にしたかった。官邸に両省の幹部2人ずつを呼んで、このメンバーで戦って行くから情報の機密性を大事にしようと言った翌日に、そのことが新聞記事になった。極めて切ない思いになった。誰を信じて議論を進めればいいんだと。」

本人の切ない思いはともかくとして、外務省、防衛省がこのような「政治主導」の「せ」の字もないような体たらくなことについては、一義的には、このような状態を指導改善できなかった、その省のナンバーワンである岡田外務大臣、北沢防衛大臣に責任がある。

結局、「政治主導」をスローガンに掲げた初の民主党内閣自体が、このようなバラバラ状態では、積年の病弊である「官僚主導」を打破することなど、とうていできない相談だったということだ。

そこで、第2の疑問がわく。

歴史的政権交代による初の内閣でありながら、首相は首相で自分が選挙戦で訴えたことを死にものぐるいで実現しようとの気構えをもたず、閣僚は閣僚で首相のいうことなどには鼻もひっかけない有り様であるような、つまりは、基本的な政策について認識の共有ができていない状態の、バラバラでお粗末な内閣しか作れなかった民主党とは、いったい何なのか。

この疑問は、現在進行中の、菅直人は、なぜ「小沢切り」に夢中になるのかという疑問と重なる。

この疑問に対するブログ主の解答は次のようなものだ。

民主党は、「国民の生活が第一」の小沢支持グループと、「金権打破」「カネにクリーンな政治」が大好きなオリジナル民主党グループとの、水と油のごとき異質な集団が、「呉越同舟」する、もともとバラバラな政党だったのだ。野党時代は、政権奪取という目標が、かろうじて両者をつなぎとめていたのだが、政権を獲得した途端に、両者の亀裂があらわになったというわけなのだ。両者は、茶碗の持ち方から箸の上げ下ろしに至るまで、正反対の政治作法の持ち主であり、とくに、オリジナル民主党を標榜するグループは、小沢さんを、カネに汚い政治家が合流してきたが、選挙に勝つまでの我慢、選挙が終わったら、小沢の主張する「国民の生活が第一」なんぞはかなぐり捨てて、あるいは小泉流の新自由主義、あるいはアメリカべったりの奴隷外交など自分たちの好き放題にやろうと考えていたのだ。

「カネにクリーン」、などとはまったく意味のない言葉で、政治にだってカネはかかる。当たり前の話だ。大事なことは、小沢さんが言うように、誰から貰って、何に使ったかをすべて公開して、その善し悪しについては国民の判断にまかせることで、それが「政治とカネ」についての正しい考え方だ。

こう見てくると、鳩山氏のいわば簡易回想録が、はしなくもかいま見せた民主党初内閣の無惨な状況は、偶然でも何でもなく、起こるべくして起こった、いわば必然的な状況だったといえよう。

今現在の「小沢切り」の行方については、この水と油の二つの集団が、やがて別々の二つの政党に分れることになり、さらにそれが、諸政党の再編成を促して、ようやく、それぞれ論理的な整合性をもった主張を掲げる二つの政党の対立関係という、小沢さん年来の主張に近いかたちになると見るのが正解ということになろう。

春秋の筆法に倣えば、鳩山民主党内閣の無惨は、政界再編成の呼び水になることによって、日本に正しい二大政党制をもたらすことになる、ということだろうか。