消費税論議と『大学』

儒教経典の一つ、『大学』(金谷治訳注の岩波文庫版『大学・中庸』)を読んでいたら、おもしろい言葉に出会った。

『大学』は、『論語』など他の儒教経典がそうであるように、「君子」すなわち、かつての武士のような支配層の必須教養として学ばれ、実践が求められたものなので、当然のことながら、以下の言葉についても「君子」が指導者として政治経済の衝に当たる際の規範とされたものであろう。

「財聚(あつ)まれば則ち民散じ、財散ずれば則ち民聚まる。」

現代語訳は、「財物の集積に努めてそれをお上の倉庫に積み上げると[消費税を上げて国庫収入を増やすと]、民衆の方は貧しくなって君主を離れて散り散りになる[消費が落ち込んで不況が悪化し、政府に対する信頼が地に落ちる]。 反対に徳の向上に努めて財物を民衆のあいだに散らせて流通させると[アメリカ政府の言うことばかり聞かないで真剣に国民の福利の向上を図り、官僚の私腹を肥やす無駄を省いて減税や適切な財政支出を行えば]、民衆の方は元気になって君主のもとに集まってくる[政治に対する信頼が回復し、人々が将来に希望を持つようになって財布の紐をゆるめ消費を盛んにして、デフレ不況が克服される]。」  (金谷訳に加筆、[ ]内は筆者)

『大学』は、金谷氏によれば、前漢の武帝(在位 前141-前87)の頃の成立というから、今から二千年以上前の書物だ。二千年も前! 二千年前の人にも、増税は民を疲弊させ、減税や財政支出は民を潤すということが分かっていた。今も昔も、政治や経済の要諦は変わらないということである。

それに引き換え、このデフレ不況下の消費税増税論議はいったい何なのか。国民の福利よりも、財政再建の方が大事なのか。いや、むしろ財政再建の名の下に行われようとしているのは、さらなる財務官僚のヘゲモニーの強化、いや永続化なのではないのか。

そういえば、『大学』には、こんな言葉も出てくる。

「国家に長として財務を務むる者は、必ず小人を用う。彼はこれを善しと為(おも)えるも、小人をして国家を為(おさ)めしむれば災害並び至る。(災の字は新字体に変更)」

(金谷訳現代文 「国家の統率者として財政に力を入れる者は、必ずつまらない人物を手先に使うものである。彼はこの人物を有能だと考えているが、つまらない人物に国家を治めさせると、天災や人害がしきりに起こる。」)

「財政に力を入れる国家の長」を、財政再建に政治生命を賭けるとやらの野田某、「小人」を財政再建命の財務官僚と置き換えると、この21世紀のわが国の有様にぴたりと当てはまるではないか。いやはや、この野田某・財務官僚コンビのもと、われわれにこれ以上の天災・人害が降りかからないとよいのだが。

「右手のすることを左手に知らせない」

小沢一郎氏が、年の始めに、地元岩手民主党の会合で、「政治家の仕事は震災被災地のお見舞いに回ることではない。もっと他にやることがあるはずだ」旨の発言をしたという。

TVカメラの前で、被災者を激励するパフォーマンスなんかしている暇があったら、復興のための条件整備、しかも大災害時だからこそ必要な抜本的な条件整備に尽力するのが政治家たる者の務めだろうというわけだ。正論である。いつものことだが、正論を堂々と主張するから、この人は、後ろめたいことをしている一部の政治家や高級官僚、大手マスコミ幹部に嫌われるのだろう。良薬口に苦し。

古来、お見舞い、援助に寄付、支援だボランティアだなどというのは人知れず静かにやるものだと相場が決まっていた。(「陰徳を積む」) それが、近頃では、政治家に限らず、有名人という人種が鳴り物入りで支援だボランティアだとはしゃいでいる。

そんな有様をみていると、「右手のすることを左手に知らせない」という言葉が浮かんできた。ご存じ、キリスト教の『新約聖書』中の言葉だ。

この「右手云々」の前後はこうなっている。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイによる福音書)」

「天にいます父」を、日本風に「お天道様」、中国風に「天」、あるいはインド風に「お釈迦様」としても、そのまま通用するだろう。つまり、善行は、密かに行われるから善行なのであって、「これから善行をやりますよ」と鐘と太鼓でふれ回るものではない。そんなことなら、それは善行ではなく、ただの売名行為、すなわち偽善だ。

災害があると、いっとき支援やボランティアが集中する。しかし、それも半年一年と経つとだんだん減ってくる。災害の教訓も数年は語り継がれる。だが、十年二十年経つと、あったことさえ忘れられるようになる。人の気は熱しやすく冷めやすい。だから、「災害は忘れた頃にやってくる」のだろう。

風水害に地震の常襲地帯にあるこの国で、偽善ではない支援、災害を忘れない教訓は、どうしたら成り立つのか。平凡なようだが、小沢氏の言うごとく、それぞれの人がそれぞれの持ち場でそれぞれの務めをきちんと果たすこと以外にないのだろう。

 

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの『トップ・ハット』の一場面が使われているというので『グリーンマイル』と『カイロの紫のバラ』をDVDで見た。

両方とも、アステアが歌う Cheek to Cheek に合わせて二人が踊るシーンを使っている。Cheek to Cheek は、ご存じ、あの ~Heaven, I’m in heavenで始まる、アーヴィング・バーリン詞・曲の名曲。

『グリーンマイル』は面白かった。

Cheek to Cheekの歌詞そのままに、『トップ・ハット』を天国的な雰囲気をもつ映画として扱い、無実でありながら電気イスによる処刑を目前にした死刑囚にこの場面を見せることで、彼の魂の救済を、ということはつまり映画の観客の魂の救済を図っているようだ。

『トップ・ハット』の製作関係者が(存命なら)この映画を見て、自分たちの製作意図がきちんと理解されたことを納得するだろう。『グリーンマイル』からは、60年も前に作られたこの映画に対する敬意のようなものも感じられる。

『カイロの紫のバラ』はそうではない。

映画のラストで、不器用で夢見がちな、生活に行き詰まった、映画ファンの人妻である女主人公が、夢破れて希望を失いながら入った映画館で見るのがこの場面。はじめはうなだれて沈んだ表情だったものが、流れる音楽に顔を上げ、やがて画面を見つめる瞳に喜びが浮かんでくるという決定的な場面でこの場面が使われているのだが、その使われ方はシニカルだ。映画なんぞという絵空事、すなわち『トップ・ハット』を見て、いっとき、厳しい現実を忘れたって、映画館を一歩外に出ればたちまち元に戻るのだと宣告しているようなのだ。

なんだか、ラストまでつきあった観客、すなわち自分にざーっと冷水を浴びせられた気分である。後味が悪い。『トップ・ハット』をそんな風に使わないでくれと言いたくなる。

そんな風に使わないでくれといえば、『時計じかけのオレンジ』でも、暴行犯人が 『雨に唄えば』の Singin’ in the Rain を口ずさみながら行為に及ぶ場面があったが、あれもいけない。あれを見て以来、Singin’ in the Rainを口ずさむたびに、『時計じかけのオレンジ』のこの場面を思い出してしまう。

ああ、いやだ。

 

『文藝春秋』という骨董品

『文藝春秋』が電車に中吊り広告を出していた。

まだ、こんな雑誌が発行されている(ということは買う人もいる)ということは驚きである。すでにして骨董品のようなものだろう。今、買っておくと、将来値打ちが出るかもしれない。「昔々、2012年という時に、こんな時代錯誤を堂々とやらかしていた雑誌がありましたとさ」とね。(二束三文、「尻の穴を拭くにも使えねえ」と尻を持ち込まれても責任はとれません。悪しからず。)

しかも、そのタイトルがスゴい。いくつかを以下に。

「昭和の終わりと平成の次の世」  「安倍晋三 民主党に皇室典範改正は任せられない」 「嗚呼「同級生」たかが同い年されど同い年」 「公開質問 小沢一郎「全財産目録」」

いいのかね「平成の次の世」なんて言っちゃって。なんだか、平成よ、早く終われと言っているようにも見えるが。そう言われた当事者はどう思うかな。「安倍晋三」。自分になら任せてよとでも言いたいのか、あの無責任ぶりで世界に恥をさらした当人が。ちっとは恥ずかしくないのかね。「同級生」。年齢的なではなく精神的な年寄り向け懐古趣味。「公開質問」とやらは、アノ「田中角栄研究」の柳の下をねらっているのか。古い。2匹目はいないと相場は決まっているのだが。

誰の文章だったか、『文藝春秋』の創始者・菊池寛の不作法な食事ぶりに辟易する場面が出てくるの思い出したが、人が人なら雑誌も雑誌、下品なものはどこまでも下品である。

朝日新聞あるいは新聞・TVの「小沢恐怖症」について

1月9日の朝日新聞社説がネットで話題になっている。

10日にある小沢氏の裁判に関連したものらしいが、ネットの引用をちらりと見る限りでは、あいもかわらぬ「小沢憎し」の一本調子で塗りつぶした文章のようである。

この新聞が、小沢氏をわざわざ社説で狙い討つのは、よほど小沢氏が気になるからに違いない。そうでなければこの新聞が、通常は名もなきものに対してそうしているように鼻も引っかけないだろう。

なぜそれほど気になるのか。

思うに、この新聞は小沢氏なる政治家が一体全体いかなるものであるのかさっぱり分からないのだろう。分からないから気になるし怖い、怖いから闇雲に突っかかる。いや、実のところ、この新聞は小沢氏のことを含め、この世界のことについてなんにも分かっちゃいないのだが、なんについても分かっている振りをするのが習い性となっているので、分からないことについて、分かりませんと素直に謝ることができない。だから、その座りの悪さ、あるいは自信のなさを隠すために、ああも執拗に小沢攻撃に走るという訳なのだろう。

弱い犬がやたらに周囲に吠えかかるのと同じ理屈だ。いや、犬だけではない、人間も同じ。自信のない小心者ほど居丈高になるというのはよくある話だ。

こんな新聞が、何百万部も売れているというのだから、おめでたいというかなんというか。だから、この世の中、いつまでもこんな有様なのだろう。

さて、以上は、たまたま目に付いた朝日新聞についての感想だが、言うまでもなく、他の新聞・TVについても事情は同様である。

アヌス・ホリビリス [災厄の年]

アヌス・ホリビリス annus horribilis [災厄の年]であった今年もあと数時間。

心静かにゆく年を送ることができるのかと思いきや、民主党内閣による消費税増税強行の動き。

とくに野田某なる総理大臣が増税に執心な様子だ。

バカじゃないか。

1930年代の大恐慌再来の心配さえある世界的な資本主義経済の危機のさなか、逆進性の高い大衆課税の消費税を増税したらどうなるか。不景気に輪をかけることは目に見えているではないか。

この増税で利益を得るのは、税金という名の「打ち出の小槌」を手にする財務官僚だけだろう。

こんなバカなことを強行しようとする野田某なる人物、財務官僚の意のままに操られている傀儡にしか見えない。

「操り人形」によって、さらなる危機の淵へ連れ込まれようとしているこの国の行く末を案じる年の暮れ。寒さが身にしみる。

 

 

小宮山厚生労働大臣の無知と不作法

小宮山厚生労働大臣が、大臣就任記者会見の席で、目の前のテーブルにマイクやICレコーダーがところ狭しと並んでいたため、テーブルに自分のバッグが置けないと文句を言ってキレたということを、最近になって知った。

無知と不作法。

ハンドバッグという物は、テーブルの上に置くものではありません。椅子に腰掛けたら、足下の床に置くものです。少なくとも、それなりの地位にある女性なら。嘘だとお思いなら、英国のエリザベスⅡ世女王の振る舞いを見てみられよ。一目瞭然、多言を要しない。

さてさて、かくのごとく初歩の初歩の作法も知らない人物が、国民の健康と生活、労働を守る行政の最高責任者であるとは因果なことである。

こんなお粗末な人物をその重要な地位につけたということは、政府は責任を取るつもりはないから自分の命は自分で守れという民主党お子さま内閣の国民に対するメッセージなのか。いやはや。

ところで、この御仁、たしか父親がかつて東京大学総長を勤めた人だったと思うが、まあ、なんですな、このお父さん、外ではどんなに立派な教育者だったのかは存じませんが、どうやら娘の教育には失敗したようですな。

「桜田門外の変」異聞

ご存じ「桜田門外の変」とは、西暦1860年3月24日、日米修好通商条約調印の日本側責任者、井伊大老が水戸藩の脱藩者たちに暗殺された事件。

最近知ったのだが、水戸の脱藩者たちは暗殺にピストルを使ったのだそうだ。

しかも、そのピストルはといえば、かの黒船のペリーが幕府に贈った米国コルト社製の回転式のものを、水戸藩がそっくりコピーして作ったものだという。

攘夷の急先鋒、「皇国の神州たる所以」明らかにすると称する水戸学の信奉者、すなわち水戸の脱藩者たちが、「飛び道具」であるピストルを暗殺の道具にし、しかも、それが「夷狄」と軽侮する当のアメリカ人からの貰いものをそっくり真似したものだったとは!

彼らには、「夷狄」の真似をすることや、ピストルという「飛び道具」使う、「神州の武士」としては誉められたことではない、いや、はっきり言えば「汚い」手段を使うことに葛藤はなかったのか。

時代は遙かに下った昭和の子どものチャンバラごっこでさえ、飛び道具を使うことは卑怯なことであり、御法度の禁じ手とされたものだが…。

彼ら水戸の脱藩者たちは、「夷狄」に譲歩した井伊大老を暗殺するという目的が正しいので、手段として何を使っても許されるとでも考えたのだろうか。「目的は手段を正当化する」というわけか。

しかし、それは嘘である。なんとなれば、いかなる場合であっても目的は目的、手段は手段であって、目的と手段は別のものだ。「目的は手段を正当化する」なんてことになったら、歴史上のすべての戦争は正しいことになってしまう。なぜなら、歴史上のすべての戦争は目的をもっているから。

ところで、明治維新の政治過程には、水戸の脱藩者の振る舞いに範をとったのか、「目的は手段を正当化する」の類の暗殺やら陰謀やらがゴマンと出てくる。その最たるものは、西暦1868年1月3日、「王政復古の大号令」とやらが出てくる直前の薩長の連中の動きだろう。詳しくは歴史書にゆずるとして、これなどまさに陰謀中の陰謀、陰謀の典型だ。

こう見てくると、「目的は手段を正当化する」の勢いで作り出された明治国家とは一体何者なのか、その正統性の根拠は何かということになってくる。少なくとも、純粋な志をもった志士たちが、日本の将来を憂えて縦横に活躍した結果、成ったのが明治維新だなどという広く流布しているストーリーについては眉に唾をつけなければならないと思う。

たかがピストルされどピストル、ことは井伊大老暗殺の一件にまつわる些事だが、ただの些事ではない。

 

対米英宣戦布告の日

70年前の今日12月8日、わが国はアメリカとイギリスに宣戦布告したのだった。すでに中国大陸では長きにわたって事実上の戦争状態が続いていた。加えて、米英を敵としての全面戦争の開始。極東の小さな島国が、中国、アメリカ、イギリスを相手の全面戦争。

1945年、わが国の敗北で戦争は終わった。

以来60年あまり、わが国は戦争をすることなく過ごしてきた。戦争放棄を国是として。平和である。ブログ主も戦場に赴くことなくこれまでの人生を送ってきた。人を殺すこともなく、殺されることもなく。自己一身にかんしてはこのことをありがたいことだと思う。

しかし、自己一身のことを離れて、アメリカの従属国であるかのようなわが国の現在のありようを思うとき、あれだけの戦争をして、あれだけの負け方をし、自他におびただしい死者を出したことの意味はいったい何だったのか。考え込まざるを得ない。

解答はそう簡単には見つかりそうもない。

12月8日の宿題。

ノーベル経済学賞という嘘

ノーベル経済学賞というものは嘘である。

物理や医学の分野のノーベル賞とは似て非なるものである。

少なくとも物理学や医学の分野では、授賞対象となった発見や発明は、検証可能であり、どこにおいても再現可能なものとされているはずだ。

しかし、経済学賞というものはどうか。授賞対象となった学者の仕事が、検証可能であり、どこにおいても再現可能なのか。授賞対象の経済理論が地球上のいかなる場所でもあまねく適用できるものなのか。

そんなことはあり得ないだろう。

そんなものに物理学や医学の分野と同じような名称の賞を与え騒ぎ回る。いったい何のため?

思うに、これは、経済学賞の授賞対象である近代経済学なる虚構に、あたかも物理学上の発見などと同等の普遍性を偽装したいがためのトリック、すなわち詐欺的行為である。

そんな詐欺にまんまと引っかかって、というか、この詐欺的行為のお先棒を担いで、お祭り騒ぎを繰り広げる日本のマスコミのバカさ加減。

ちなみに、ウィキペディアによると、この賞の正式名称は、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞というらしい。なるほど、銀行が出す賞ということですね、それならよく分かる。まさに名詮自性ですな。