はなはだ言いにくいことながら

はなはだ言いにくいことながら、マスコミに騙される国民も国民だ。

街頭インタビューと称して紹介される一部の国民の発言。

やらせではないようだが、マスコミの発することばをそのままおうむ返ししている。やまびこ。こだま。

自ら判断して自分のことばで語ろうとしているようには思えない。

同胞諸氏を悪く言いたくはないが、やむをえない。

自分の頭で考え、自分のことばで語ろうとしない国民にはそれなりの政治しか与えられない。

検察審査会とやら。市民の目線とやら。健全な市民感覚とやら。

市民、て何ですか。

「皷腹撃壌」

「お日様が昇れば起きて田畑を耕し、夕暮れになれば帰って寝る、政治がどうのこうのなんか関係ない、お腹がいっぱいで楽しく遊べれば、それで満足さ。」

中国の古典が伝える、理想の政治がもたらす理想の世の中の住人の姿です。

そう「鼓腹撃壌」です。ほかに何の心配もなければ、腹つづみをう打って足を踏みならしながら踊る毎日、それができればそれ以上なにを求めようか、というわけです。

反対に、心配ごとがあれば、「鼓腹撃壌」なんかできはしません。庶民に、今日という日を無事送れるのか、明日はどうなるのか、心配させるような政治しかできない為政者は失格だということです。

しからば、現下のわが国ではどうでしょうか。

現政権は、南西の海上に現れた異国の漁船一つもあしらえないどころか、その始末に失態を重ね、天下に醜態をさらす有様。これでは、われら庶民は「鼓腹撃壌」どころか、おちおち寝てもいられません。まさに為政者失格です。

またまた、中国人の発想を借りれば、このような失格の為政者が出たら、天が命を革めて、別の人物を為政者に据え、新たに天下をゆだねることになります。(易姓革命)

それが道理というもの。多少なりとも理屈がわかるのであれば、為政者として今回のようなとんでもない失態を演じたら、出処進退をどうするかは他から言われなくてもわかるはずです。

で、あの人はと見れば、まあ、そこのところは、ご本人が重々承知しておられると思いますよ。なにしろ、これまでの野党時代、さんざんに相手方の出処進退をあげつらってきたお方なのですから。まるで出処進退の専門家。まさかこんなことをしておいてそのまま「続投」とは、夢ゆめ考えちゃおられないでしょう。

ねえ、伸子さん、あなたもそう思うでしょ? あなたのご亭主は、もう、賞味期限切れですよ。早く、棚から撤去しなくちゃ。

言葉の壁に守られた日本のガラパゴスマスコミ

戯れ歌 日本語という壁に守られた日本のマスコミ

日本語という壁に守られた日本のマスコミ

とうの昔にジャーナリズムの節操を失った既得権集団

新聞は購読しなければよい

TVは公共の電波を独占している

例えて言えば、誰かが公道を通せんぼして商売を始めた

言い分がふるっている

「自分たちの仕事は公共の役に立っている」

嘘である

不偏不党と言いながら、偏った情報を垂れ流す

「政治とカネ」 「小沢が憎い」

それを知ってか知らずか

いまだにジャーナリズムをやっているつもりの裸の王様

そぞろ哀れを催す

日本語という壁に守られた日本のガラパゴスマスコミ

国辱的官房長官

官房長官が、尖閣諸島周辺領海への中国漁船侵犯事件について、「司法過程の理解が全く異なることについて、もう少しわれわれが習熟すべきであった。」と記者会見で述べたいう。

エッ、本気ですか、まさか、冗談でしょう、というのが最初の感想。

しかし、冗談ではないらしい、ほんとうに、この官房長官はこのように考えているらしい。

いやはや、恐れ入りました。この程度の人物が、この人口1億2千万の、やや斜陽気味とはいえそれでも世界第3位の経済大国の、しかも内閣の要をつとめているのです。

この人、いちおう弁護士の資格を持っているのでしょう。既成マスコミ情報ではそうですね。既成マスコミが例のごとく嘘を伝えていないとして。

いったい全体、この人はなにを勉強してきたのでしょう。

中国が、共産党一党独裁の国であることは天下周知の事実です。その国の司法過程とやらが、言論の自由あり、三権分立ありで、複数政党が権力の獲得を争うわが日本国のそれと違うことくらい、気の利いた小学生なら知っていますよ。

それを、言うに事欠いて、「習熟すべきであった」とはなんたること。しかも、そのような無知きわまりないことを、記者会見で堂々公言するこの無神経!

いやしくも彼は官房長官です。彼の発言は内閣を代表しており、内閣を代表するということは、対外的にわが国を代表するということです。

この人物が、一私人として発言するのならばどんなに無知であろうと不勉強であろうと、どうでもよいことですが、今はそうではありません。彼は、この発言によってわが日本国民の顔に泥を塗りました。日本国民はこの程度なのか、と世界中が判断する材料を提供することによって。

国辱とか国恥という言葉がありますが、この人物は典型的な国辱的存在です。

さて、この程度の人物をその地位につけた内閣総理大臣の責任、その内閣総理大臣を信任した代表選挙でこの人物に投票した民主党の国会議員、地方議員、党員・サポーターの責任は重大です。

外交の独立と国の独立

昨日の記事で、戦後のわが外交について独立国としての体をなしていないとしたが、政府、外務省レベルはともかくとして、国民レベルでは、幾たびか、外交の独立ひいては国の独立や安全保障が政治的争点として浮上したことがある。

まず第一は、全面講和か単独講和が争われた占領下、第二は、日米安全保障条約の改定が問題となった1960年、いわゆる60年安保、第三は、60年安保から10年が経過し、条約をどちらか一方の破棄通告で終了させることができるようになった1970年、いわゆる70年安保。

その後は、沖縄の過剰な基地負担が安全保障のあり方と関連づけて問題にされることはあったが、その際も、基地問題の根底にある外交の独立や国家としての独立が問題とされることはなく、むしろそうしたことを政治上の争点とすることはタブー視されてきた。

これは、いわゆる「日米同盟堅持」の題目のもと、外交や安全保障の問題から国民の目をそらし、他国の軍事基地が国内にあるという不正常な状態が何の疑問ももたれることなく続くことで利益を得る集団が、意図的に演出してきた結果だ。その集団とは、巷間指摘される「日米安保マフィア」なるもので、実体はおそらく日米両国にまたがる軍産政複合体と彼らからのおこぼれに預かるマスメディアの一部であろう。

昨年夏の総選挙で、鳩山民主党代表が、ことの弾みとも思える軽さで、沖縄の普天間基地移設問題を「最低でも県外」と訴えたことから、その流れが変わり、外交や安全保障がほんとうに久しぶりに政治の焦点になった。鳩山氏は、結果的には普天間問題の解決には至らなかったが、外交や安全保障問題を国民の意識にのぼらせた功績は大きい。怪我の功名というべきか。

次いで、今般の民主党代表選で、小沢一郎氏が、年来の主張である「自立した国民による自立した国家」を踏まえた堂々たる日米、日中対等外交論を提起したことで、多くの国民に、外交問題や安全保障問題を正面から国民的議論の対象とするべき時期が到来したことを印象づけた。

さらに、今回の尖閣諸島をめぐる政府の不手際が、国民の間に潜在していた、日本は果たして本当に独立国なのか、という疑問の噴出に火をつけた。

こうして、70年安保から40年、ようやく、国の独立や安全保障が外交のあり方と合わせて議論されようとしている。

このことを、ブログ主は素直に喜びたい。

なぜならば、国の独立や安全保障など、国民としてきちんと正対すべきことができていないという不正常な状態が終わるからだ。

だが、一方で懸念もある。

それは、一部の国民にみられるショービニズム(排外主義)の傾向である。在日韓国人、在日朝鮮人に対するいわれなき悪罵や、中国や中国人に対する同様の態度は、外交や安全保障を議論するとき、百害あって一利なしの、きわめて危険な傾向だ。

ブログ主は、このような危険な傾向とは断固戦うことを明らかにしておく。

内閣諸公の覚悟

現内閣諸公には独立国としての外交を司る覚悟がないようだ。

尖閣諸島をめぐる中国との交渉をみれば、一目瞭然だ。

なにも中国が取り立てて悪辣非道な外交をやっているとは思わない。国名はあげないが、世界中を見渡せばもっとひどいことをしている国はある。

外交場裡において、国境紛争は日常茶飯のことだ。

当の中国についてみれば、隣国ロシアと地続きの長大な国境線で接している関係上、古くから国境紛争を抱えており、ロシアがソ連であった1960年代、一度ならず、全面戦争の危機に直面した。当然のことながら、軍事力はソ連が圧倒的で、中国共産党政府は、表面では「ソ連社会帝国主義を打倒せよ」と強気で臨んだが、内心は政府のみならず国家そのものの存亡の危機と認識していた。毛沢東は、窮状を脱するために、それこそなりふり構わず動いた。もう一方の敵であるはずの米国と接近するための、あの周恩来・キッシンジャーの秘密会談は、「敵(ソ連)の敵(米国)は味方」という小学生でも実践している戦略の具体化だ。くわえて、かつて自国を侵略した怨敵日本とも、賠償請求権を放棄してまで国交正常化に踏み切った。

余談ながら、当時、田中角栄首相と周恩来首相との間で合意した、日中共同声明の当時の中国にとっての最大の眼目は、いかなる国もこの地域で覇権を唱えることに反対するという例の「覇権条項」を盛り込んだところにある。もちろん、いかなる国には米国も入るが、最重要なのはソ連である。

あのとき、当時の北ベトナムは、米国とベトナム戦争終結に向けてパリ和平会談の最中であり、味方と思っていた中国が、北ベトナムにとっては敵である米国と国交正常化に向けて交渉を始めたことで、背後から鉄砲を撃たれたように感じ、以後しばらくの間中国との関係が悪化した。

外交関係は古来かくのごとし。紛争があるのが当たり前、国力・軍事力に強弱があるのも当たり前、そうした状況の中で、どうしたら一国の独立と自尊を保てるのか。合従連衡など朝飯前、権謀術数の限りを尽くして国益を貫く、それが外交というものだろう。

というふうに見てくると、今日のわが内閣諸公の覚悟のほどや如何と問うに、外交交渉はおろかその入り口にも近づいていないと言わざるを得ない。ちょっと大きな声で怒鳴られたら、そそくさと尻尾を巻いて逃げ帰るといった案配だ。

これでは相手国は苦笑しているだろう、こりゃ相手にならんは、と。

とここまで書いて、現の内閣諸公ばかり責めるのも酷かなという気がしないでもない。

わが日本国の外交べたは、今に始まったことではないと思うからだ。

戦前、日本が国際的に孤立を深めていく里程で、数々の外交的失策をやらかしたが、中でもブログ主にとって印象的なの、第2次世界大戦前夜、ヒトラーとスターリンの間で独ソ不可侵条約が締結された際、「欧州情勢は複雑怪奇」として総辞職した平沼騏一郎内閣のことである。

なんとナイーブなことか。外交が、いや、政治が、いや、およそ人間が関わることはすべて「複雑怪奇」でないことなどありはしない。それを、「複雑怪奇」といってギブアップしていたら一歩も前に進めないではないか。いや、生きていけないではないか。

もう一つ余談。平沼騏一郎の縁者で今日代議士をしている人がいるらしいが、ブログ主はこの代議士が話題になるとただちに「複雑怪奇」のエピソードが浮かんできて、まあ、あのねえ、というわけで思わず下を向いてしまうのです。

戦後については言わずもがな、ほとんど米国の51番目の州のような状況だったので、およそ独立国としての外交をしてこなったからのだから。

結論、やはり、小沢一郎氏ですね。今、生きている政治家で彼以上に、一国の独立と矜持を保ちうる経綸と、それを実行できる覚悟をもっている人はいないのだから。

モバイルギアとポメラ

KING JIM の pomera DM20 プレミアムシルバーを購入した。

2年ほど前に最初の型が出た頃から、気になっていたのだが、テキスト入力だけで2万円台は高いなあ、というのが正直なところだった。その後、上位機種のDM20が出たときも、ぐらっときたが、やはり価格で思いとどまった。

数ヶ月前、シルバーの新色が発表され、最近になって、インターネット価格が2万円を切るまで下がったので、思い切って購入した。

ブログ主は、12年前に購入したNECのモバイルギアMC-MK22を現在も使用している。

このモバイルギア、横長のモノクロ液晶ながら、乾電池駆動で長時間使用可、携帯にまあまあ苦にならない大きさ、数秒で立ち上がる反応の良さ、非常に打ちやすいキーボーなどポメラの元祖のような存在である。途中、お蔵入りの期間も少なからずあったのだが、主に、文章の書きはじめ(いわゆるキックオフですな)や文章の原型のそのまた原型を作るときなどに、重宝している。

モバイルギアには、電子メールやインターネット閲覧の機能もあるにはあるのだが、携帯電話の同じ機能の使い勝手の良さに負けて、さすがに、現在では使うことはない。

しかし、日進月歩どころか秒進時歩の感もあるデジタル機器で、まだ現役というのは偉いものだと思う。それは、携帯可能な電子テキスト入力機としての基本をきちんと押さえて作られているからなのだろう。さすがに、蓋兼液晶画面と本体とのヒンジ部分にひびが入り、蓋が若干ゆるくなってきたがキーボードの打ちやすさはいまだに健在である。

そこで、ポメラ。まだ、使いはじめて1日なのだが、モバイルギアのように電子テキストの入力機械としての基本をきちんと押さえ、しかもさらに携帯性に磨きをかけた作りになっている。手に持ったところでは重さはモバイルギアの半分のように感じる。日常的に持ち歩くのが苦にはならないようだ。

懸念としては、携帯性の向上の工夫であるキーボードの折りたたみ機構が、可動部分であるだけに、丁寧に扱ってやらないと寿命がくるのが早いかもしれない。

ネットでは、その思い切りの良さが評判のポメラだが、ブログ主は、このような電子テキスト入力に徹した単機能機械を発売した KING JIM の決断を評価したい。

願わくは、「ご要望に応えて」などと言い訳しながらあれこれと機能を付け加えていくのではなく、電子テキスト入力機としての本道を歩み、その道を極めてもらいたいものだ。そうすれば、ポメラは、きっとモバイルギアの栄光を受け継ぐことができると思う。

[蛇足]

ポメラに対する2点の願望

*モバイルギアのようなスタイルのもの。キーボードは折りたたみでなくてもよい。D20の液晶の面積の倍あればとても使いやすくなる。
*日本語変換精度の向上。

マスコミの手のひら返し

厚労省の元局長が職務に復帰したニュース。

まるで凱旋将軍のような扱いです。

つい1年前には、「水に落ちた犬に石を投げる」がごとき報道をしていたのに、なんということでしょうか。舌の根も乾かぬうちにとはまさにこのことです。既成大マスコミの皆さんはこんなことをやっていて恥ずかしくないのですかね。もっとも、多少なりとも恥じる心があったなら、こんな仕事はとうの昔に辞めているもしれませんが。

餌を投げたら喜んで飛びつく、これが既成大マスコミの習性だとすると、この習性を利用して既成マスコミの論調を左右することなどたやすいことだと考える人物や組織があったとしても不思議ではありません。

いわゆる「政治とカネ」をめぐる地検特捜部、「財政が破綻するぞ、ギリシャになるぞ、だから消費税10%」と叫ぶオオカミ少年のごとき財務省、彼らから見れば、既成マスコミを操ることなど赤子の手をひねるようなものなのでしょう。

困ったものです。

アナウンサーの品性

データ放送で天気予報を確かめるため偶々見た、今朝のNHKニュース番組、大リーグ情報を扱ったコーナー。

折れたバットが胸に当たり怪我をした選手が苦痛に顔をゆがめている映像にかぶせて、アナウンサーがそれを茶化す駄洒落を口にして相方のアナウンサーと楽しそうに笑った。

人が痛い思いをしているのに、同情するどころか、笑いものにする無神経。

どういう育ち方をしたのだろうか。親の顔が見たいものだ。

人気稼業のアナウンサーのことだから、それなりの学校を出ているのだろうが、いったい何を学んできたのか。

この人たちは人生をもう一度最初からやりなおした方がよい。

日本の刑事裁判の不思議

先日、保護責任者遺棄致死罪に問われた某芸能人に対する一審判決がでました。

判決内容については言及しませんが、ブログ主が、またかと思ったのは判決文の次の一節です。いわく「微塵も反省の情が見られない。」

思わず噴き出してしまいました。裁判官は刑事裁判がどういうものか分かっているのでしょうか。

裁判では告発人(刑事裁判の場合は国家でその代理を検察官が務める)と被告発人(刑事裁判の場合は被告人)は対等の立場で、事実の認定(及びその事実の認定の根拠となる証拠の証明力)をめぐり争います。あくまで両者は対等なのです。そして、言うまでもなく有罪判決が確定するまでは無罪なのです。ですから、被告人の側が争われている事実に関して多少なりとも異議があれば、抗弁するのは当たり前なのです。

その、被告発人として当然の防御権を行使することをとらえて、反省のかけらもない、などとお説教され、あまつさえ量刑の情状酌量で不利にカウントされるのではたまったものではありません。このことを大メディアをはじめ誰も問題にしようとしないのは摩訶不思議と言うほかありません。

判決は認定された事実に基づいて相当とされる刑罰を言い渡せばよいのであって、公判の過程に於ける被告人の対応 について道徳的お説教をする必要はまったくありません。いわんやそれを情状と称して量刑に組み入れるなどもってのほかです。

思うに、裁判官のこの発想は、江戸の昔のお白洲裁きから少しも変わっていないのかもしれません。法廷に引き出されて来たのは、すでに町方役人による拷問ありのキツーイ取り調べで「おそれいりやした。」と自白済みの極悪人、有罪の結論は見えており、後はどう懲らしめるかが問題なだけ、というあのTVでおなじみの大岡越前あるいは遠山の金さんをなぞっているだけという感じがしないでもありません。

とにかく司直の追究対象になったら、 もうそれだけで有罪確定扱い、「恐れ入りました」とたとえやっていなくとも素直に謝らなければ、どこまでも「説明責任」とやらを振りかざして叩き続ける何処かの国のマスコミと、日本国の裁判官諸氏は、こりゃ~、気脈を通じているんでしょうかいネ~。オット、お後がよろしいようで…