もう一人の老害

中曽根元首相が、今回の内閣改造に関して、与謝野に大いに仕事をさせろという趣旨の発言をしたと、某新聞社のネット記事が伝えていた。

こんな発言、する方もする方だし、伝える方も伝える方だ。

中曽根が首相を退任してからもう何年になるのか。20年以上たつのではないか。

過去の人である。

それをいつまでも、現下の政治過程に首を突っ込んで世迷い言をだらだらとたれ流す。みっともないからおよしなさい。

さらにみっともないことに、マスコミが、こんな世迷い言を、マジ顔で報道する。

マスコミというのは、いちおう、ニュースを伝えるということになっているのではないのか。中曽根の世迷い言がニュースなのか。

過去の人が、過去の栄光にしがみついて、いつまでも、懲りもせず、世迷い言を垂れ流しています、というのだったら、まあ、ニュースにならないこともないかとは思うが。

マスコミも苦しいのだな。

2009年夏の総選挙で主権者が「国民の生活が第一」を支持し、政権交代を実現した歴史的意義を、とにかく、なんとしてでも貶め、晦まさなければならないと必死なものだから、民主党批判の急先鋒だった与謝野の民主党内閣入りを正当化し結果として政権交代の矛先を丸め込むことにつながる、こんな老人の世迷い言まで報道しなくちゃならない。

ま、ごくろうさんです。こんなことは自ら墓穴を掘るのと同じことなのだがね。

マスコミは病気

今日、電車の中で、隣に座った人が、一日前の朝日新聞を読んでいた。

一面の見出しに、「内閣支持率25%に微増」とあった。

「微増」か。

まあ、菅直人ヨイショの朝日新聞としてはそうとしか言いようがないだろう。

でもこの数字、誤差の範囲、意味がない数字ということではないのかな。

せっかく内閣改造したのにこの数字では、当の菅直人もがっかりだろうし、それ以上に、菅直人にがんばってもらいたいと思っている朝日新聞にはがっかりの数字だろう。

もう一つ、ネットでみた時事通信の配信記事。

菅内閣の支持率が数%上がったことをとらえて、改造で小沢切りを貫いたことが評価された、と論評していた。

うーむ、何を根拠にこう主張するのか。

おそらく、根拠もへちまもないのだろう。

とにかく、誤差の範囲程度の数字でも、小沢一郎氏と結びつけないと気が済まないのだろう。

こうなると、もう病気だ。しかも、重篤の。

菅伸子と菅直人—葬式帰りに喪服でスーパーに立ち寄ったバカ女とそのアホ亭主

1月8日、この破れ鍋に綴じ蓋コンビは、知人の葬儀に参列した帰途、喪服姿で自分の選挙区内にあるスーパーに立ち寄り買い物をしたそうだ。

この破れ鍋に綴じ蓋コンビが、スーパーで買い物したことは知っていたが、まさか葬式帰りに喪服姿であったとは…

つい昨日、ネットでそのときの写真を見て目が点になった。

ま、よく考えれば、このバカ女にアホ亭主のことだから、こんな奇態なことをしてもおかしくはないのだが、それでも、まさか、そこまでバカだとは…

スーパーに立ち寄ったのは、日用品が不足したからだという。

? 4日の新年会で200人分料理を用意したが、50人も来なかったので大量に廃棄したため、自分たちの食料が不足したのか。

理由はどうあれ、こんなことはまともな大人のすることではない。

葬儀に参列するというのは、故人に弔意を表すということだ。弔意を表すというのは、人間の行動としてはもっとも重要なものの一つで、最大限の敬意をもってなされなければならない。それは、そのことのみのために行われなければならないもののはずである。行って帰ってくる。道草など食わない。

それを、日用品の充足という程度の用を足すためにスーパーに立ち寄る。しかも、その一部始終を新聞やTVに取材させる。庶民感覚をもっていることをアピールするため?

まあ、本当の庶民であれば、誉められたことではないが、あっても仕方がないかなとは思う。

しかし、この破れ鍋に綴じ蓋コンビは、わが日本国の内閣総理大臣夫婦なのだよ。

こんなのが、総理大臣夫婦をやっている日本という国は、いったい何なんだろう。

「破れ鍋に綴じ蓋」の菅伸子

亭主が亭主なら、女房も女房である。

12日に行われた日本外国特派員協会でのインタビューで、記者の質問に答え、「こんなこと言っていいのかしら」と前置きしつつ、両陛下と皇居で、昨夏、亭主及び自分の4人で会食した際の天皇の言葉を明らかにした。天皇は、当時問題になっていた「消えた高齢者」について、どういうことになっているのでしょうか、ともらしたそうだ。

ブログ主が、菅伸子の発言について思うことは二つ。

第1は、この女、自慢をしたなということ、第2は、この女、結局なんにもわかっちゃいないということだ。

第1について。

これまで、天皇との会食の際などの会話は、公にしないという慣例があるという。この慣例の当否については今は問題としない。

しかし、この慣例があるのを知ってか知らずしてか、天皇の言葉をもらしたのは、次のような浅ましい性根からなのであろう。

「私、菅伸子は、両陛下と差しで食事ができる地位にまで上り詰めたのよ、そうよ、ファーストレディーなのよ、どう、下々のみなさん、わかる、これってすごいことなのよ、今住んでいるところだって、首相公邸、永田町2丁目、都心の一等地よ、広すぎてもったいないから母親まで連れてきちゃった、そしたらどーお、感激しちゃったのか、呆けていたのに国会の周りで銀杏拾いまで始めちゃってさあ、おまけに、24時間警護のSPが付いてくれて、これってほんとのVIP、もおー、うれしくてうれしくて、いつまでもやっていたいから、亭主には言っているの、たとえ支持率がマイナスになったって辞めちゃだめだって、日本がどうなろうとそんなこと知ったことじゃないわよ、とにかくこの私がいつまでも栄耀栄華できればそれでいいの、だってあの中身が空っぽのバカ亭主をだましだましここまでもってきたのは私の力、総理大臣にしてやったのは私なんだから、このくらいのご褒美は当然よね、ついでに言うとね、亭主だってホントはどうでもいいのよ、他の女に走ったくせにさ、あんな奴! だからね、こんど生まれ変わったら、他の女に目もくれず、一から十まで自分の言うことを聞くもうちょっと操縦しがいのある男を選ぶの、どーお、文句ある?」

とまあ、戯文調でまとめてみたが、当たらずとも遠からずというところではないだろうか。

第2について。

天皇が、「消えた高齢者」について、ご自分が形式的であるにせよ任命した内閣総理大臣に、どうなっているのかと発言したということは、どうにかしなさいと命じたということだ。

日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である天皇として、国民の間に亀裂が広がり、あろうことかその亀裂に高齢者がすっぽりと神隠しのごとく消え去る事態を看過することはできないと考え、総理大臣と親しく会食する機会をとらえて、改善を求めたということではないか。

ここで、天皇の政治への関与の当否については問題にしない。

これは、天皇であるかいなかということ以前の、現代の日本に生きる人間として(現在は天皇は現人神ではない)ごく当たり前の発言であり行動であると思う。

そこで、問題は、この女の反応だ。

このことをわがこととして受け止め、何とかしようとする姿勢を示したのか。国民の間に貧困と格差が広がり、家族関係や地域社会に亀裂があることを自らの痛みとして受け止め、改善のためにできることをしているのか。

たとえ、その亀裂、あるいは格差が、民主党政権以前から始まっているとはいえ、当代の責任者は、この女の亭主の、総理大臣である菅直人である。これは逃れようのないことだ。

読者よ、それは亭主の仕事で、女房は違う、と言うなかれ。この女は、先の民主党代表選挙の折、「もう少しやらせてください。だめなら自分が辞めさせます」と公言して歩いたのだ。よもやそのこと、お忘れではあるまい。辞めさせるとは、任命権者のみが言えるせりふだ。それを言うということは、この女、菅直人の任命権者つまり監督者になったつもりなのだろう。

であれば、この亭主と女房は一蓮托生、破れ鍋に綴じ蓋だ。

だから、亭主だけでなくその女房、菅直人だけでなく菅伸子の覚悟のほどを問うてもなんの問題もない。

その昔、池田勇人は、電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのもすべて総理大臣の責任というほどの決意でその任に当たる覚悟をしたという。

菅伸子よ、汝にその覚悟のほどありやなしや。

憲法論と政治論

年頭の総理大臣挨拶の情けなさについては、西岡参議院議長を始め、多くの方が指摘しているのでそちらに任せるとして、当ブログでは、参議院で問責決議を受けた官房長官の仙谷某の発言についての疑問を記録しておきたい。

この人物が、その地位にあるのもあと一日かそこいらというところだが、探求の範囲が狭いからなのかどうか、ブログ主が感じたような疑問を他では見かけないので、このような疑問もあるということをあえてブログ記事にしておくことも無駄にならないだろう。

疑問はいろいろあるが、なかでも、「問責決議で閣僚を辞任するよう野党が迫るのは政治論としては成り立つだろうが、憲法論としては成り立たない」として、内閣不信任決議は衆議院の特権であって参議院にはその特権はないから参議院の問責決議は法的拘束力を持たない、憲法には大臣が国会の会議に出席して意見を述べることができると書いてあるので自分は国会が開かれれば出席する、という一連の発言である。

この発言からは、この人が、政治と憲法との関係では、憲法の規定が政治の上位にあり、政治的な主張や主張に基づく運動はそれとして、憲法の規定がかくかくしかじかである以上、野党の政治的主張や運動は憲法の規定に従わなければならなず、従って自分が官房長官を続けることに何の問題もない、と考えているように見える。

しかし、はたしてそうなのか。

憲法は、政治的共同体(国家)の在り方を決める政治的文書とでもいうものであり、民法やら刑法やら、社会生活の細部を取り仕切るふつうの法律とは性格が異なる。

政治的文書という性格から、国家の在り方が変わると、当然、憲法も変わることになる。

近いところでは、敗戦という政治状況の変化により、国民が主権者となった結果、天皇が主権者であることを前提とする大日本帝国憲法が、国民主権の日本国憲法へと変わったことが好例である。

つまり、政治と憲法との関係を一言でいえば、政治があって憲法があるのであり、憲法があるから政治があるのではない。

しかも、政治とは突き詰めれば人間関係であり、人間関係を成り立たせる根本のところは、信頼である。したがって政治的文書である憲法も、関係する人々の間に信頼関係がないと、意味をもたないたんなる空文になる。

こう考えると、官房長官の仙谷某の言っていることのおかしさが明らかになってくる。

野党の思惑はさておき、国会議員の多数が問責決議に賛成したということは、国会議員の多数がこの官房長官は信頼できないと表明したことに他ならない。

あなたは信頼できないと人に言われて、法律にはそう書いていないと返したのが、この仙谷某だ。この人、憲法という政治的文書と、普通の法律の区別がつかないらしい。いままさに、信頼が、ということは政治が問題になっているにもかかわらず、憲法を普通の法律であるかのごとく思いなし、憲法の規定がどうのこうのとまさに三百代言的言辞を弄して周囲を煙に巻こうとするその態度の卑しさ。

この人は、衆議院議員をやっているはずで、世間では政治家ということになるものであろう。政治家が、政治と憲法の関係についてこのように頓珍漢な認識しかもっていないということは、わが国の政治家の劣化を物語るものであろう。

新聞・TVなどの企業ジャーナリズムの劣化は言わずもがな、加えて一部政治家の劣化、まさにわが国は国難の中にある。

余談だが、大日本帝国憲法には「不磨の大典」という文言があり、明治政府の法律顧問の西洋人に、憲法とは政治的文書なのだから政治が変われば憲法も変わる、政治は永遠不変ではないのだから、こんな言葉を書き込むのはみっともないからおよしなさい、と助言されたが、時の政府高官が押し通したというエピソードが残っている。