75年目の天皇の国民向け敗戦告知ラジオ演説の日

「玉音放送」などと呼ばれている、天皇の国民向け敗戦告知ラジオ演説が行われて今年で75年。おこなわれるであろう関連式典のTV中継など見る気は寸毫もないし、関連”ニュース”番組なども見ないので、ここから先は推測。

また、例によって、総理大臣が平和と繁栄はあなた方のおかげですという内容の式辞とやらを述べるのだろう。

それって、あの戦争で亡くなった人々への侮辱だよ。

無数の死者、敗北、その結果生まれた現憲法。押し付けだろうとなんだろうと、この憲法があってはじめて平和と繁栄があったのだよ。ところが、現行憲法を毛嫌いして、明治憲法のようなものに変えたがっている勢力代表の総理大臣が、その明治憲法体制下で行われたあげくに負けた戦争の犠牲者に哀悼の意を捧げる資格なんてあるのかよ。

あるわけないだろう! 

誇り高き人々

金文京『漢文と東アジア』(岩波新書 2010年)を読んでいて教えられることがあった。

中国を指す「震旦」ということばは、古代インドのことばのCina-sthana(iと2番めのaは長音記号付き)の音訳で、Cinaは秦帝国の秦、sthanaは場所の意だという(同書140頁)。

これでもじゅうぶん教えられたのだけれども、もっと教えられたのが次のこと。

「震旦」という漢字が当てられたについて、唐代になってから、「震」は『易』の八卦では東に当たり、「旦」は朝だから、インドから見て朝日の登る東の方、すなわち中国のことだという「一種のこじつけ」がおこなわれるようになった。ふーん、なるほど。

さらに、朝鮮では、その中国より東にあり、しかも震旦の旦は朝だから、朝の字を含む朝鮮のほうが震旦にふさわしいという超こじつけが行われるようになったというのだ。うーむ。

これを、身のほどを知らない狭量な精神の発現と笑うことはたやすいが、しかし、自分は違う考えを持った。

巨大な文明のすぐ近くに、しかも地続きで、連綿と共同体を維持し続けてきた人々が、自分たちが自分たちであるという自己同一性(英語で言うアイデンティティですな)を保つにはどうすればいいか。役に立つなら、猫の手でも借りたいということではないか。そういう必死な保身の流れのなかで、「震旦」は朝鮮なりというこじつけをしたとしても、誰がそれを笑うことができよう。

自己同一性を保つ努力のことを、誇りを保つことと言い換えてもいいかもしれない。つまり、かの半島の人々は、これほどにも誇り高い人々であるということだ。

その誇り高い人々に、近い過去、日本列島弧に住むわれわれは、「創氏改名」などというとんでもないことをしてしまったことを忘れてはいけない。

第二次世界大戦の敗戦後、われわれを軍事占領下に置いた勝者である連合諸国が、創氏改名を押し付けていたとしたらどうだっただろうか。田中一郎ではなくてBob Fieldsとか、鈴木太郎ではなくJohn Bellsと。屈辱ととらえて雪辱を誓ったのか、それとも、現下のコロナウィルス禍における振る舞いのように、進んで同調し受け入れて、従わない人を自粛警察と称して迫害したのだろうか。

NHK・BSの”ニュース”

NHK・BSを見ていると、毎時50分から10分間設定されたBSニュースという帯番組につきあわされる。4~5本の”ニュース”と末尾の株価・為替相場読み上げが定番の構成。

NHK(に限らないが)が御用放送だなということを実感するのは、災害発生時の報道ぶり。どこそこで、なにそれが起こったというのは、まあ、当然。おかしいのは、首相が万全の対応を指示しましたとか、政府が災害対策本部を作りましたとか、アナウンサーがマジ顔で読み上げること。

首相が万全の対応を指示したり、災害規模によっては対策本部を作るのは当たり前だろう。これって、朝になったら朝になります、夕方になったら夕方になりますと言っているのと同じことだよ。こんなのがニュースかね。そうじゃないだろう。首相がちゃんとやっています、政府がちゃんとやっていますという広報活動だ、これは。

その昔、「神の国」だと言った首相がいて、愛媛県立水産高校の実習船がハワイ近くで米海軍原子力潜水艦に当てられ沈没し犠牲者が出た報告を受けてもゴルフをやり続けたことを非難されけっきょく辞めることになった。そういえばこの人、今、オリンピックだオリンピックだとはしゃいでいるな。

するべきことをしなかったらニュースだけど、首相が万全対応を指示したなんざニュースでもなんでもない。それをしれーっとして垂れ流すNHKを御用放送と言わずしてなんと言う。

「東大の経済学部はマルクス経済学を専攻する専任教員は新規に採用しないという意思決定」をしたといったん報道しながら断りなくこれを取り消した日本経済新聞

そういえば、最近、東大経済学部ではマルクス経済学はどうなったんだろうと思って調べたら、こんな事件に遭遇。心覚えのため記す。

くだんの日経記事はこれ。2020年7月2日現在、経済理論学会が東大総長あて公開質問状で問題にした(日本国の納税者の一人としての自分も当然問題にする)この渡辺努・東大経済学部長のものとされる発言は見当たらない。削除したのか。

経済理論学会の公開質問状はこれ。それによると、渡辺学部長の発言は「ある時点で,東大の経済学部はマルクス経済学を専攻する専任教員は新規に採用しないという意思決定をしました。」というもの。

これが事実だったら、おいおいほんとかよ、そんなこと言っちゃっていいのかよ、ということになってしまう。なにしろ、機を見るに敏なはずの秀才の集団が、つまり時流に棹さすのに巧みな集団が、世界的なマルクス復権の流れに、まったくといっていいほど目を向けていない、井の中の蛙状態を自白しているようなものだから。

これに、マルクス研究者の学会である経済理論学会が、真否を問う公開質問状を出すのは当然のこと、出さなかったら学会としての存在意義が問われるよ。

東大からの回答は、同学会の質問状のページからリンクが貼られていて現物の写真を拝める。封筒まで! 発信元は総長名ではなく「東京大学」という組織名。本文は2行半、「事実関係を確認したところ、「意思決定」がなされたという事実はない」というもの。

以上が昨年12月中の話で、2月になっても日経記事中の該当発言がそのままなのに業を煮やした学会が再度の質問状を出す。こんどは渡辺学部長あてにも出したので同学部長から3月になって回答があった。それによれば、ご本人は、早くも12月中には日経に記事訂正を申し入れたという。

さて、日経の記事、2月以降、現在までのどこかの時点で該当発言を削除したのだろう。ご本人がそんなことは言っていないと言い、記事からその発言が消えているということは、日本経済新聞がそのこと認めたということになる。つまり、日本経済新聞は、本人が言っていないことを書き飛ばした、つまり虚偽を記事にしたということだ。それならそうとそのことを読者にはっきり言おうよ。なのに、きょう現在、日経のWEBページに掲載されている記事にはなんの断り書きも書かれていない。ふーん。

こういうのって、世間では、ふつう、しらばっくれる、略してバックレると言うんじゃなかったけ。日本経済新聞が資本家階級の代言人だということはみんな知っているけど、こういう虚偽報道やバックレをやっていると信用がなくなって、ご主人さまからお手当を貰えなくなるぞ。

〈リンクは経済理論学会のWEBページからコピー、第7段落のリンク2箇所は、akamac’s review氏の記事からコピー。記して感謝します。〉

映画『天才作家の妻 40年目の真実』

英語原題The Wife、2017年製作、日本公開2019年。以上データはウィキペディア。

主題は、私見では、米国のノーベル賞受賞作家とその妻の共依存関係のようなものの描写。いちおうサスペンス映画という枠付のようなので、あらすじなどには触れない。評判などはウィキペディアやDVDのアマゾン評で。

出演の役者さんたち、グレン・クローズ、ジョナサン・プライス、クリスチャン・スレーター、ほか、脇役の皆さんも上手い。グレン・クローズ扮する作家の妻の若いときの役で本人の実子アニタ・スタークが、作家夫妻の成人した息子役でジェレミー・アイアンズの実子マックス・アイアンズが出ている。最近の映画企画にはリメイクが多いと思ったら、役者さんもリメイクか。

原作小説は読んでいないので、映画だけではわからない深い意味があるのかもしれないが、自分にとっておもしろかったのは、ノーベル賞授賞式典の舞台裏。そいうえばそうだったが、物理学賞などの他の受賞者と同時に並んで授与されるのですね。その中に経済学賞の受賞者も。

だいぶ前に、経済学賞について調べたことをまとめたことがある。この賞、正式名称は、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞という。この賞が始まるとき、アルフレッド・ノーベルの遺族はノーベル賞の意義に似合わしくないとして反対したそうだ。そりゃそうだよ。ダイナマイトは誰がなんと言おうとダイナマイトだけれど、経済学という社会科学は、誰がなんと言おうと科学であるというふうには科学であることはできない。数百年あるいは数千年後までも、日食の観察できる時間と場所を正確に予測できる物理学の意味で(もっともそれを観察する人間がその時に存在していればの話だが)、経済現象を予測することはこの”科学”にはできない。だってそうでしょう。たかだか数年先のリーマン・ショックすら予測できなかったんだから。それを予測したことを評価されてこの賞をもらった人っているんですか。

この映画の式典リハーサル場面を見ながら、そういうことを思い起こすと、この映画は別の主題、ノーベル賞について、なかでも文学賞とか経済学賞とかについて、それっていったいなんなのよという疑問を提出する映画とも見えてくる。監督さんはスウェーデンの人らしいからまさかとは思うが、ノーベル賞というもの自体、さらに言えばそもそも人間が人間を評価する賞というものについて、この監督さんは疑問を投げかけているのかもしれない、と思う。

ボルトンの暴露本

米国の安全保障問題担当の前大統領補佐官ジョン・ボルトンJohn R. Bolton(1948―)の暴露本が話題になっている。その本、題してTHE ROOM WHERE IT HAPPENED― A White House Memoir。表紙デザイン、題名を楕円が囲んでいる。楕円、オーバルルーム、大統領執務室。内容については報道でサワリの部分が紹介され尽くしている(ホワイトハウスの出版差し止訴訟を、裁判所も、出版が安全保障を危険にさらすかもしれないと不満気ながら、すでに報道で周知されてしまったからしょうがないと悔しそうに却下した)ので、今日は別のことを話題に。

ボルトンという人、ウィキペディアだったかによれば本人はそう呼ばれるのを嫌うそうだが、ネオコンサーヴァティズムNeoconservatismすなわち新保守主義、略してネオコンの代表人物。自分の解釈では、米国のネオコンは、国益オタクである。国益の具体的内容は、米国式生活流儀、いわゆるAmerican way of lifeですな、を維持する(保守する)ことに尽きる。厚さ数センチの牛肉ステーキを日常的に頬張る、真冬でも暖房の効いた室内で半袖シャツを着て丼盛りのアイスクリームを舐めまくる、ガソリンを撒いて走るような燃料消費効率の極端に悪い自動車を日常的に使用する。つまり、エネルギー超絶多消費生活ですね。

米国のネオコンは、この国益を守るためならなんでもする。ファウストじゃないが、悪魔とだって取引する。大量破壊兵器なんか持っていないのに持っていると言いがかりをつけて、よその国に大軍を送り込み、荒らし回ってメチャメチャにするなんぞ、朝飯前だ。で、今の大統領。箸にも棒にもかからないとは承知のうえで担ぐことにしたのだろう。わが国の誰かさんが、昔、神輿担ぐなら軽いほうがいいと言いましたっけ。こういうことは東西を問わない。しかし、しかし、この大統領、あまりといえばあんまりな……

ちょっと前のブッシュ息子大統領も軽くて担ぎやすく、しかも言いなりになってくれたから、ネオコンたちにとっては理想の大統領だった。このあたりのこと、2018年の映画『バイス』に詳しい。クリスチャン・ベールが、大統領を操り人形よろしく操縦する副大統領ディック・チェイニーを演じている。米国という国は、いろいろな顔を持つ国で、今の大統領を熱烈に支持する人もいれば、ハリウッドでこのように正面から現在の政治を批判する映画を作る人もいる。あ、ハリウッドはユダヤと左翼の巣窟だからなどと陰謀論を振りかざす人は蒙御免。

というわけで、こんどの大統領、ネオコンの我慢の限界を超えた。というより操縦不能になった。中国の大統領(習近平)に米国農産物を購入するよう哀願して足元を見られる、ロシアの大統領(プーチン)からはくみしやすしとバカにさる。だから慌てた。(米国のネオコン連中、国益オタクと同時に、その偏差値優等生としての来歴から”いつも一番じゃないと気がすまない症候群”に罹患していて、自分たちより上はいないと思っているのに、格下と思っている相手から”上から目線”されるのが何より悔しい。この屈辱をいかでかは晴らさん、ということも大きいのだろう。いや、それがすべてかも。)大統領選挙が佳境を迎えようというタイミングを狙って、暴露本を出す。なんとしてでも再戦を阻止したい。次に誰がなっても、操縦できる自信はある。とにかく、あの操縦不能out of controlの人だけは引っ込めねば… 今朝の、NHK・BS海外ニュース番組紹介コーナーで、米国ABC放送のキャスターのインタビューに答えるボルトンの肉声を流していた。「1期で終わる大統領として歴史に記録されてほしい。」 

米国憲法前文の精神

直前の記事で、現職の米国大統領が、国民間の分断も辞さないという強硬な言動を重ねていると書いた。分断とくれば団結とか統一。そうだ、米国の憲法に統一がどうしたとかの文言があったな。調べた結果が下記。前文にそれがあった。

We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America. (米国National ArchivesのWebページからコピー)
われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に 備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。(AMERICAN CENTER JAPANのWebページからコピー)

注目は”to form a more perfect Union”のところ。”Union”が大文字で始まっているので特別な意味があるとして日本語では”連邦”としたのか。しかし、小文字で始まる普通名詞の”union”は結合、団結、一致、調和となる。つまり、大胆に解釈すれば、団結一致のために憲法を制定した。しかも、独立戦争という多大の犠牲を払って、ということ。そう考えると、憲法の精神に反するような分断をあおる行為を重ねる大統領というのはそもそもなんなのかということになる。しかも、大統領はもちろんのこと、米国で公職に就く人はすべて、憲法を擁護する旨の宣誓をしているはずだから、憲法擁護義務違反ということにもなる。大統領が憲法違反?!

してみると、今現在、太平洋の東はるかの国で起こっていることは、前代未聞、空前(絶後になるかどうかはわからない)の異常事態と考えねばならない。なにしろ彼の国は、国力全般については全盛期に比べれば力が落ちたといえ、いまなお史上最大の破壊力を装備した軍隊を持っている。その破壊力が、混乱状態の中でひょっとしてひょっとしてしまったら… クワバラクワバラ。この上は、彼の国の混迷が、地球規模の騒乱の引き金にならないことを願うのみ。

米国は第2次南北戦争状態?

現在の米国大統領は、伝えられるもろもろのふるまいからして、ほとんどもっぱら、地理的に中部南部の、所得階層的に中層以下の、人種的に白色系の、宗教的にキリスト教プロテスタント保守派の、必ず投票に出かけ自分に投票するという意味での強固な忠誠心を持つと彼が考える米国民に向けてのみ、語りかけているように見える。

これは、分断をも辞さないという意志の現れと判断して差し支えなかろう(他国の元首に対してはなはだ失礼ながら、彼が、そもそも、まとまった意思というものを持っているとして)。すると、彼は、日本語では南北戦争、米語ではAmerican Civil WarもしくはThe Civil War、つまりは市民どうしの戦いすなわち内戦の引き金を自ら引くことを想定しているのだろうか。

前回の内戦勃発時の大統領は、リンカーン。名分は奴隷解放。今回、それが起こるとして、大統領はあの人。そして名分は?

ウィトゲンシュタインのジョーク

このところ必要があって、ウィトゲンシュタイン( Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 – 1951年4月29日)を再訪。『反哲学的断章』(丘沢静也訳 青土社 1999年)を見ていたら、こんな断章が。

福音書のほうが―これも私の感じだが―すべて質素で、謙虚で、単純である。福音書が小屋なら、―パウロの手紙は教会である。福音書では、人間はみな平等で、神みずからが人だが、パウロの手紙はすでに、位階とか官職といったヒエラルキーのようなものがある。―と言っているのは、いわば私の嗅覚である。(同書94頁)

しかし、これを、嗅覚と表現するのは、なぜ。キリスト教世界の異端審問的追求を回避のため? まさか。

こんな断章もある。

ウソをつくより、本当のことを言うほうが、しばしば、ほんのちょっと苦痛なだけである。甘いコーヒーを飲むより、苦いコーヒーを飲むほうが、ほんのちょっと苦痛なように。それなのに私は、どうしてもウソをついてしまう。(同書115頁)

思わず、ニヤリとしてしまう。あるウィトゲンシュタイン研究者が、この超絶的な思索者には「笑ってはいけない笑い」という独特のジョークがあると指摘する。(中村昇『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』教育評論社 2014年 177-178頁)
してみると、上の断章も、独特のジョークということか。なにせ、「犬は、何故痛い振りをする事が出来ないのか? 犬は、正直すぎるからなのか?」(『哲学探究』250節 引用は黒崎宏訳・解説『『哲学的探求』読解』 産業図書 1997年)などと、大真面目に言う人なのだから。

蛇足;ウィーンの生まれの人だから、姓名の発音の生地主義(そんなものがあればだが)にしたがえばヴィトゲンシュタインとなる。英国の大学で教職についていた、英国籍を取得、慣用などを考慮して表題の表記を選択

東京大空襲と大津波

自分が住んでいる東京西部の自治体防災無線ラウドスピーカーが、今日は大津波から9年目なので午後2時46分にサイレンを鳴らす、黙祷してくれと。こういうことを、大音量のラウドスピーカーで流して催促するのはどうなのか、イヤだな。死者を悼むのは、人それぞれがそれぞれの仕方でやればよいこと。それに、今日については呼びかけて、昨日の東京大空襲には音沙汰なしというのも腑に落ちない。

その時間にサイレンが鳴ったが、このサイレンというのはイヤですね。空襲警報かと思う。黙祷の合図に、なにもサイレンを使わなくてもいいじゃないか。なんかこう、胃の腑をギュッと掴まれてねじり倒されるような感覚がある。

サイレンは、もともとギリシア神話に登場する海の怪物セイレーンが語源。 精選版日本国語大辞典によれば、「ギリシア神話の老海神の娘たちで、上半身は女、下半身は鳥の姿で表わされる。海中の岩上に坐して歌い、その歌にひきつけられた船乗りたちを破滅させた。」のだそう。

お上からのサイレンの合図で、いっせいに行動して、その結果が”破滅”につながらなければいいのだが。