タガがはずれかけたこの国

NHKの経営委員長が、東京電力の社外取締役との兼任を批判され、兼任は違法ではないとしていったんは続投を表明したものの、数日後に撤回して辞意表明に至るというドタバタ劇を演じたが、辞意表明の記者会見で、経営者は昨日判断したことでも状況が変われば正反対の判断をすることもある、という趣旨の発言をしたという。

「君子豹変」ということだと言いたいのだろうが、それは違う。この程度のことにそんな大仰なことを持ち出したらお天道様に笑われる。いちおう公共放送ということになっているNHKの監督組織の責任者と、個別企業の取締役の立場とが両立し得ないことなど、ちょっと気の利いた人間なら、たとえ中学生でも直ちに分かることだ。

この人物、JFEホールディングスの社長だったそうだが、JFEといえば川崎製鉄と日本鋼管が合併してできた会社だ。この程度の人物でも、日本を代表する製鉄会社の責任者が勤まったとは驚きである。

が、しかし、こんなことにいちいち驚いていては、この国では身が持たないかもしれない。総理大臣をはじめ政府高官から政権党幹部に至るまで、誰一人として公約違反や失政の責任をとろうとしない有様では、たかがNHKの経営委員長ごときが、中学生に引けをとろうとなんだろうとお構いなしなのだろう。

上が上なら下も下、どうもこの国は、タガがはずれかけているらしい。

小沢裁判控訴の愚

5月9日、一審の東京地裁で無罪判決が出た小沢氏の裁判で、検察官役の3人の弁護士が控訴を決めたという。

愚かなことである。

まあ、この弁護士たちの心底としては、功名心であるとか、バカマスコミの作る小沢たたきの風潮に流されてとか、あるいは小沢氏に裁判を引きずらせることで利益を得るエスタブリシュメント連中の意を受けてとか、思惑はさまざまなのだろうが、いずれにしても愚かなことである。

ところで、米国などアングロサクソン流の刑事法体系の下にある国では、一審で無罪判決が出たならば、検察官は控訴できない、すなわち裁判はそれで終わり、判決が確定するという仕組みになっていたと思うが、日本はどうなっているのだろうか。

万事アメリカの猿真似をしているお国柄なのに、こいうことは真似をしないのか。真似をしないのはあれかな、有罪率が100%近いので無罪になることなど想定外なのかな、それとも、裁判が長引いたほうが、判事・検事・弁護士ともども職を失わずにすむからかな。

 

小沢裁判判決の日

今日、あの小沢裁判の第一審判決の日。

どういう判決が出ようと、驚くことはない。なにしろ、「石が流れて木の葉が沈む」のが日常茶飯のこの国の昨今なのだから。

それよりも驚いたのは『週刊文春』の中吊り広告トップ記事。編集部は無罪判決を予想したのか、たとえ無罪になろうとなんだろうと、小沢さんを貶めてやるという魂胆が丸見え。よほど焦っていますね、この連中。こんなことまで持ち出すなんて。

数十年前の田中角栄追い落としキャンペーンの成功体験が忘れられないのか。こんな浅知恵にだまされる人はけた違いに少なくなっているというのに。なにやら、哀れを催す文春編集部のお粗末ぶり。

「小沢裁判」の異様

19日、いわゆる「強制起訴」に基づく小沢一郎氏の政治団体・陸山会の政治資金規正法をめぐる裁判があり、弁護側の最終弁論と小沢氏自身による最終意見陳述があった。(小沢氏の最終意見陳述詳細は末尾に掲載)

新聞やTVの言うことを鵜呑みにせず自分でインターネット等を探索して多面的に情報を集め、ゆっくり落ち着いて論理的に物事を考えることができ、そのようにして得られた結論がたとえ自分の不利益になることであってもためらわず受け入れることができる人であるならば、この裁判の異様さは十分に理解できよう。

陸山会の元秘書3人の裁判とあわせて、この裁判で明らかになったことは、国家権力の一機関である捜査と起訴の権限を合わせ持つ検察が、政権交代直前の野党党首の小沢氏をねらい打ちし、国民の主権行使のほとんど唯一の機会である選挙に干渉したという、およそ民主主義国家ではありえない政治的謀略をおこなったということである。

21世紀に入って10年以上たつというのに、これではまるで、天皇主権の明治憲法下で、内務省(警察権を握る)による選挙介入がめずらしいことではなかった戦前と変わらないではないか。

しかも、情けないことは、検察の政治介入だけでも許しがたいことであるのに、本来こうした国家権力の暴走をチェックする役割の新聞やTVが、逆に検察のお先棒を担いで小沢バッシングに走ったことである。

この国は、国民主権とか民主主義とかは名ばかりのことで、実質的には、検察権力を楯とする官僚勢力が、新聞TVなどのマスコミを使い走りにして国民をいいようにたぶらかし、自分たちの利益を好き放題むさぼっている官僚主権国家である。

しかし、検察による選挙介入にも関わらず、3年前の総選挙では国民は民主党を選択した。小沢氏が、勇気ある選択と言うゆえんである。だが、この3年間の民主党の実体はどうか。民主党の中の親官僚勢力は、小沢氏のおかげで政権を担えるようになったくせに、検察の政治謀略とその使い走りの新聞TVの動きに乗じて、事実上の党内クーデターにより小沢氏の追い落としを図り、小沢氏の活動の場を狭めるとともに、民主党に投票した国民の期待を裏切り、平然と「国民の生活が第一」の公約を破り捨てようとしている。

どうにも救いがないように見える現状であるが、救いといえば、検察の政治謀略とマスコミのバッシングにもひるむことなく立ち向かう小沢氏の勇気である。ふつうの政治家、いや人間であれば、これだけのことをされてへこたれないはずはないが、にもかかわらず、正々堂々、戦う姿には頭が下がる。思うに、小沢氏には、日本に本当の国民主権、本当の民主主義を根付かせたいという理想があるからこそ、この勇気なのだろう。

筆者も、及ばずながら、小沢氏の勇気の一端をいただいて本当の国民主権、本当の民主主義の定着のためにできるかぎりのことをしていくつもりである。

[小沢元代表意見陳述の詳細]

 裁判長のお許しをいただき、本裁判の結審に当たり、私の見解を申し上げます。

5ヵ月半前、私は指定弁護士による起訴状に対し、次のように申し上げました。

(1)東京地検特捜部による本件強制捜査は、政権交代を目前に、野党第一党の代表である私を政治的・社会的に抹殺することが目的であり、それによって政権交代を阻止するためのものだったと考えられる。

それは、主権者である国民から何の負託も受けていない検察・法務官僚による議会制民主主義の破壊行為であり、国民主権への冒とくである。

 (2)指定弁護士の主張は、そのような検察の不当・違法な捜査で得られた供述調書を唯一の証拠にした東京第5検察審査会の誤った判断(起訴議決)に基づいたものにすぎない。

 (3)したがって、本裁判は直ちに打ち切るべきであり、百歩譲って裁判を続けるとしても、私が罪に問われる理由はない。政治資金規正法の言う「虚偽記載」に当たる事実はなく、ましてや私が虚偽記載について共謀したことは断じてない。

 (4)今、日本が直面する危機を乗り切るためには、このような国家権力の濫用を止め、政党政治への国民の信頼を取り戻し、真の民主主義を確立する以外に方法がない。

以上の見解は、これまで15回の公判を経て、ますます鮮明になったと思います。

 以下、その事実を具体的に申し上げます。

基より、「法の下の平等」「推定無罪」「証拠裁判主義」は、法治国家の大原則であります。

ところが、東京地検特捜部の強制捜査は、それらをことごとく無視して、証拠に基づかない不当な推認を積み重ねただけのものでありました。まず、政治資金規正法の制定以来、本日ただ今に至るまで、政治資金収支報告書に間違いや不適切な記載があっても、実質的犯罪を伴わない限り、検察の言う「虚偽記載」も含めて、例外なくすべて、報告書を修正することで処理されてきました。

 それにもかかわらず、私のケースだけを単純な虚偽記載の疑いで強制捜査、立件したことは、「法の下の平等」に反する恣意的な法の執行にほかなりません。また、前田元検事がこの法廷で、「取り調べの初日に、木村主任検事から『これは特捜部と小沢の全面戦争だ。小沢を挙げられなかったら特捜部の負けだ』と言われた」と証言したように、「推定無罪」どころか、最初から「有罪ありき」の捜査、立件でした。

 さらに、形式的には「証拠裁判主義」にのっとって、私を2度不起訴にしておきながら、その実、違法・不当な捜査で得た供述調書と「小沢有罪ありき」の捜査報告書を東京第5検察審査会に提供することで、同審査会の議決を「起訴議決」へと強力に誘導しました。その動かない証拠が、石川元秘書が虚偽記載を私に報告、了承を得たとの供述を維持したという平成22年5月17日の田代検事作成の調書と捜査報告書であります。

 去る2月17日の公判で、裁判長が、「検察審査会の再度の議決の判断材料として提供することを予定しながら、違法不当な取り調べを行い、石川に供述を維持させた」、「捜査報告書の記載は事実に反する」と指摘されたとおりだと思います。とりわけ重大な問題だと思うのは、田代検事自身が法廷証言で、「捜査報告書は上司に言われて作った。検察審査会に提供される可能性はあると思っていた」と認めたように、石川元秘書が供述していない虚偽の事実を意図的に報告書に記載し、東京地検が、それを検察審査会に提供したことであります。

 その悪質さにおいては、厚生労働省元局長村木厚子氏の虚偽公文書作成事件で、前田元検事が証拠を改ざんした事件を上回るのではないかと思います。そして、その虚偽の供述調書と捜査報告書は、平成22年9月、検察審査会が起訴議決をして、私の強制起訴を決めた最大の証拠とされました。

 それは、検察審査会の議決文が石川元秘書の調書を信用できるとした理由について、虚偽の捜査報告書の内容を踏まえて、「再捜査で、石川自身が供述を維持した理由を合理的に説明している」と明記していることで明らかであります。

 ところが、東京地検特捜部による強力な検察審査会誘導はそれだけにとどまりません。

先に、裁判長が田代検事による石川元秘書の違法不当な取り調べについて、「個人的なものではなく、組織的なものであったとも疑われる」と指摘され、花崎検事による池田元秘書の取り調べについても、「利益誘導があった」、「取り調べメモを廃棄した」と認定されたとおり、当時の佐久間部長、齋藤副部長、吉田副部長、木村主任検事ら特捜部あげての審査への誘導工作だったと考えられます。

 実際、東京地検が検察審査会の再審査に提供した、ほかの捜査報告書を見ると、「小沢は3回にわたる取り調べでも合理的な説明ができず、不自然な弁解に終始した」、「政治資金収支報告書に関する小沢の供述は虚偽である」、「小沢の共謀を推認する積極的証拠となり得る」、「小沢には本件不記載・虚偽記載の動機があった」等々、「小沢有罪ありき」の推認の記述ばかりで、明らかに、起訴議決をしない方がおかしい、強制起訴すれば裁判でも勝てる、と誘導しています。

 仮に、それら捜査報告書と供述調書が、ほかの政治家に関するものであり、かつ私がそれを審査する検察審査会の一員だったとしたら、私も「起訴議決」と誤った判断をしていただろうと思うほど、強烈で執拗な工作であります。

 加えて、前田元検事が、「東京地検では証拠隠しが行われた。検察審査会では全ての証拠を見ていない」と証言したように、検察の「小沢有罪ありき」の見立てに合わない取り調べ結果は供述調書にせず、そのメモさえ審査会に提供しませんでした。

 そのような検察の手法には、司法の支配者然とした傲慢ささえうかがわれます。事実、東京地検は、本公判開始の9か月も前の昨年1月に、田代検事並びに特捜部副部長による捜査報告書の虚偽記載の事実を把握しておきながら、放置、黙認し、指定弁護士にも、裁判所にも、私の弁護団にも一切伝えなかったと報道されています。

 特に、指定弁護士が強制起訴手続きを行う前にその事実を把握していたのに、指定弁護士に知らせなかったのは、言語道断であると思います。

 本件は、ただ単に検察が私個人に対して捜査権・公訴権という国家権力を濫用したということではありません。

野党第一党の代表である私を強制捜査することで政権交代を阻止しようとし、政権交代後は与党幹部である私を強制捜査ー強制起訴することで新政権を挫折させようとした、その政治性に本質があります。

 検察は、2年間もの長きにわたって、不当・違法な捜査を行い、あまつさえ検察審査会の審査・議決を誘導して、強力に政治への介入を続けました。それは正に、議会制民主主義を破壊し、国民の主権を冒とく、侵害した暴挙と言うしかありません。その実態が15回の公判を通じて、具体的事実によって、いよいよ鮮明になったことが、本裁判の一番の意義である、と私は思います。

 以上のように、検察審査会の起訴議決は、私を強制起訴させるために東京地検がねつ造した違法不当な供述調書と捜査報告書に基づく誤った判断であり、その正当性が失われたことが明白である以上、私にはいかなる点でも罪に問われる理由はありません。

私は無罪であります。

 もちろん本来は、本件控訴は棄却されるべきものであります。

もし、何らかの理由で公訴が棄却されない場合でも、私にはいかなる点でも罪に問われる理由はありません。政治資金規正法の言う「虚偽記載」に当たる事実はなく、ましてや私が虚偽記載について元秘書と共謀したことは絶対にありません。

 東日本大震災からの復興は、丸1年経っても本格化するに至らず、福島第一原子力発電所の事故は依然として収束の目途すら立たず、一方では歴史的円高によって国内産業の基盤が崩れ始め、欧州の金融危機に端を発する世界恐慌の恐れが迫って来ている今、日本の経済・社会の立て直しは一刻の猶予も許されない事態になっています。

 そのためには、検察・法務官僚による政治のろう断に即刻、終止符を打ち、速やかに政党政治に対する国民の信頼を取り戻して、議会制民主主義を機能させなければなりません。裁判長はじめ裁判官の皆様におかれましては、見識ある公正なご判断を下されるようお願い申し上げ、私の意見陳述を終えます。

ありがとうございました。

[引用終わり]

ある過労自殺

『阿修羅』という投稿サイトを見ていたら、「『ワタミで飲まない会』入会のご案内」という投稿が目にとまった。

その投稿は、4年前、ワタミフードサービス経営の居酒屋に勤めていた当時26歳の女性の入社2ヶ月での自殺が、月100時間以上に及ぶ残業や休憩・休日も十分に取れないなど「業務による心理的負荷が主因となって精神障害を発病した」ことによるものと、神奈川の労災補償保険審査官がこの2月になって認定したことを紹介し、このことへのワタミフードサービス・渡邉美樹会長の言動を批判する内容だ。

この投稿によると、自殺した女性の残業は月140時間にもなったという。140時間! 週5日・月20日として一日あたり7時間、しかも休憩・休日も十分取れなかったというのだから、その苦しさはどんなものだったろう。この女性の心中を思うと涙がこぼれそうになる。

ご冥福をお祈りするとともに、ご遺族にはお悔やみを申し上げます。

片や渡邉氏。投稿によると、「労務管理できていなかったとの認識はありません。」とツイート。数年前に出演したTV番組「カンブリア宮殿」では「無理というのは嘘つきの言葉、途中でやめるから無理になる、やめさせないで鼻血を出そうがぶっ倒れようが1週間全力でやらせる、そうすればその人は無理とは口が裂けても言えない。」などと述べて司会者を唖然とさせている。

こういう考えの人物が経営者である企業であれば、この女性のような犠牲者が出るのも必然ということだろう。この会社がブラック企業と呼ばれるのも当然だ。投稿によると、この渡邉という人、東京都知事選挙に出馬したとき「自殺ゼロの社会」を訴えていたという。まさにブラックユーモアである。

人間を人間として扱わない企業及びその経営者、そのような企業の経営者を現代のヒーローであるかのように持ち上げるマスコミ、これらは犯罪者と言ってよい。

かつて、マルクスは人間労働を極限まで搾り取るシステムを資本制的生産様式、その搾り取る側の主役を資本家と呼び、その非人間的性格を余すところなく分析したが、この渡邉という人、まさにマルクスの言う資本家そのものではないか。

ソ連などの社会主義国家が前世紀末に崩壊してから、「マルクスは死んだ」などと叫び回るお調子者が現れたが、マルクスは死んでなどいない。

マルクスが分析対象としたのは19世紀の、主にイギリスの資本主義経済だったが、それが抱えていた非人間的性格は、21世紀の資本主義経済、すなわち現代世界を覆わんとしているグローバル経済化現象・市場万能主義的経済の非人間的性格にそのまま受け継がれ、ますます熾烈さを増している。

この状況に対して、人間とその生活をどう守るかは現代社会の最優先の課題である。かつて19世紀に、マルクスが資本制的生産様式から人間とその生活を守ることを課題としたように。

マルクスは、決して、死んでなどいない。

検察官が犯罪を組織的に行う怖い国

2月17日に東京地方裁判所であった、いわゆる「小沢強制起訴裁判」の証拠採否決定。この決定理由書の中で、裁判官は、検察審査会がいわゆる強制起訴を決定するに当たってより所とした、小沢氏の元秘書・石川代議士の供述調書や検察官の捜査報告書が、違法・不当な方法によって作成されたものであり、しかもその違法・不当な方法は組織的に行われたと見られると述べた。

これは重大だ。というのは、あの裁判所ですらが、すなわちあの刑事裁判有罪率100%近い裁判所ですらが、ということは検察官の言いなりの判決を出す自動有罪マシーンのごとき裁判所ですらが、東京地検特捜部の検察官の行動を、違法・不当かつ組織的と断じたからであり、つまりはこの検察官たちの犯罪ぶりは隠しようがないほど明々白々なこととなったからだ。

ところで、裁判官が、検察官の行動が違法・不当かつ組織的だと言ったのは、特捜部は犯罪組織だというのと同じことだ。

怖い、怖い国だ。公訴権を独占している検察官が、正義の味方であるどころか、犯罪者集団だというのだから。怖い。この国の国民は、いかにまじめに生きていてもどんなに犯罪とは無縁の生活を送っていても、いったん検察官ににらまれたら、それで一巻の終わり、起訴され有罪にされ刑務所に送られ、人生をめちゃくちゃにされるのだ。

新聞TVも共犯だ。なんとなれば、彼らは、こうした検察の犯罪を糾弾するどころか、逆に、検察のお先棒を担ぎこれら無実の人々を叩きまくるキャンペーンに全精力を傾けているからだ。

裁判所もしかり。昨年9月の、「陸山会事件」の判決で、東京地裁の某裁判官は、刑事裁判の鉄則「疑わしきは被告人の利益」ではなく、あろうことか、確たる証拠もないのに「推認」に「推認」を重ねて、検察官の言いなりの「疑わしきは被告人の不利益」の有罪判決を出したのだから、これも立派な共犯だ。

怖い国だよ、この国は。はたして、この国に「正義」というものはあるのだろうか。

「人は40歳を過ぎたら…」

「男は40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」と言ったのはリンカーンだが、現代では、フェミニストの指摘を待つまでもなく、「男」は「人」と置き換えるのが自然だろう。何十年も生きてきた人物が、その年輪にふさわしくない未成熟な顔つきや立ち居振る舞いをさらすということは、その人物がいい加減な人生を生きてきたことの証だ。

ところで、この国の政界には、リンカーンの言葉にぴったりの、人生をやり直した方がよいのではないかと思わせる面々にあふれている。今回は、そうした面々の右代表として、民主党お子さま内閣の財務大臣、安住某にご登場願おう。

この人物、そんなに時間をかけて観察したわけではないが(そんなことに時間を使うほど暇ではない)、童顔というよりもガキ面であり、その立ち居振る舞いは、ほとんど小学生のそれである。

ネットでは、財務官僚にたらし込められるまでの時間の順に「菅3週間、野田3日間、安住3時間」という評判が流れているが、言い得て妙だ。なるほど、小学生の坊やなら、3時間もかけずに丸め込むことなど、財務官僚にとっては朝飯前どころか、赤子の手をひねるより容易なことだろう。

小学生程度の(と言ったら小学生に失礼か)理解力しかない人物が、一国の歳出歳入の責任者であるとは、一体全体この国はどうなっているのか。

消費税論議と『大学』

儒教経典の一つ、『大学』(金谷治訳注の岩波文庫版『大学・中庸』)を読んでいたら、おもしろい言葉に出会った。

『大学』は、『論語』など他の儒教経典がそうであるように、「君子」すなわち、かつての武士のような支配層の必須教養として学ばれ、実践が求められたものなので、当然のことながら、以下の言葉についても「君子」が指導者として政治経済の衝に当たる際の規範とされたものであろう。

「財聚(あつ)まれば則ち民散じ、財散ずれば則ち民聚まる。」

現代語訳は、「財物の集積に努めてそれをお上の倉庫に積み上げると[消費税を上げて国庫収入を増やすと]、民衆の方は貧しくなって君主を離れて散り散りになる[消費が落ち込んで不況が悪化し、政府に対する信頼が地に落ちる]。 反対に徳の向上に努めて財物を民衆のあいだに散らせて流通させると[アメリカ政府の言うことばかり聞かないで真剣に国民の福利の向上を図り、官僚の私腹を肥やす無駄を省いて減税や適切な財政支出を行えば]、民衆の方は元気になって君主のもとに集まってくる[政治に対する信頼が回復し、人々が将来に希望を持つようになって財布の紐をゆるめ消費を盛んにして、デフレ不況が克服される]。」  (金谷訳に加筆、[ ]内は筆者)

『大学』は、金谷氏によれば、前漢の武帝(在位 前141-前87)の頃の成立というから、今から二千年以上前の書物だ。二千年も前! 二千年前の人にも、増税は民を疲弊させ、減税や財政支出は民を潤すということが分かっていた。今も昔も、政治や経済の要諦は変わらないということである。

それに引き換え、このデフレ不況下の消費税増税論議はいったい何なのか。国民の福利よりも、財政再建の方が大事なのか。いや、むしろ財政再建の名の下に行われようとしているのは、さらなる財務官僚のヘゲモニーの強化、いや永続化なのではないのか。

そういえば、『大学』には、こんな言葉も出てくる。

「国家に長として財務を務むる者は、必ず小人を用う。彼はこれを善しと為(おも)えるも、小人をして国家を為(おさ)めしむれば災害並び至る。(災の字は新字体に変更)」

(金谷訳現代文 「国家の統率者として財政に力を入れる者は、必ずつまらない人物を手先に使うものである。彼はこの人物を有能だと考えているが、つまらない人物に国家を治めさせると、天災や人害がしきりに起こる。」)

「財政に力を入れる国家の長」を、財政再建に政治生命を賭けるとやらの野田某、「小人」を財政再建命の財務官僚と置き換えると、この21世紀のわが国の有様にぴたりと当てはまるではないか。いやはや、この野田某・財務官僚コンビのもと、われわれにこれ以上の天災・人害が降りかからないとよいのだが。

「右手のすることを左手に知らせない」

小沢一郎氏が、年の始めに、地元岩手民主党の会合で、「政治家の仕事は震災被災地のお見舞いに回ることではない。もっと他にやることがあるはずだ」旨の発言をしたという。

TVカメラの前で、被災者を激励するパフォーマンスなんかしている暇があったら、復興のための条件整備、しかも大災害時だからこそ必要な抜本的な条件整備に尽力するのが政治家たる者の務めだろうというわけだ。正論である。いつものことだが、正論を堂々と主張するから、この人は、後ろめたいことをしている一部の政治家や高級官僚、大手マスコミ幹部に嫌われるのだろう。良薬口に苦し。

古来、お見舞い、援助に寄付、支援だボランティアだなどというのは人知れず静かにやるものだと相場が決まっていた。(「陰徳を積む」) それが、近頃では、政治家に限らず、有名人という人種が鳴り物入りで支援だボランティアだとはしゃいでいる。

そんな有様をみていると、「右手のすることを左手に知らせない」という言葉が浮かんできた。ご存じ、キリスト教の『新約聖書』中の言葉だ。

この「右手云々」の前後はこうなっている。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイによる福音書)」

「天にいます父」を、日本風に「お天道様」、中国風に「天」、あるいはインド風に「お釈迦様」としても、そのまま通用するだろう。つまり、善行は、密かに行われるから善行なのであって、「これから善行をやりますよ」と鐘と太鼓でふれ回るものではない。そんなことなら、それは善行ではなく、ただの売名行為、すなわち偽善だ。

災害があると、いっとき支援やボランティアが集中する。しかし、それも半年一年と経つとだんだん減ってくる。災害の教訓も数年は語り継がれる。だが、十年二十年経つと、あったことさえ忘れられるようになる。人の気は熱しやすく冷めやすい。だから、「災害は忘れた頃にやってくる」のだろう。

風水害に地震の常襲地帯にあるこの国で、偽善ではない支援、災害を忘れない教訓は、どうしたら成り立つのか。平凡なようだが、小沢氏の言うごとく、それぞれの人がそれぞれの持ち場でそれぞれの務めをきちんと果たすこと以外にないのだろう。

 

朝日新聞あるいは新聞・TVの「小沢恐怖症」について

1月9日の朝日新聞社説がネットで話題になっている。

10日にある小沢氏の裁判に関連したものらしいが、ネットの引用をちらりと見る限りでは、あいもかわらぬ「小沢憎し」の一本調子で塗りつぶした文章のようである。

この新聞が、小沢氏をわざわざ社説で狙い討つのは、よほど小沢氏が気になるからに違いない。そうでなければこの新聞が、通常は名もなきものに対してそうしているように鼻も引っかけないだろう。

なぜそれほど気になるのか。

思うに、この新聞は小沢氏なる政治家が一体全体いかなるものであるのかさっぱり分からないのだろう。分からないから気になるし怖い、怖いから闇雲に突っかかる。いや、実のところ、この新聞は小沢氏のことを含め、この世界のことについてなんにも分かっちゃいないのだが、なんについても分かっている振りをするのが習い性となっているので、分からないことについて、分かりませんと素直に謝ることができない。だから、その座りの悪さ、あるいは自信のなさを隠すために、ああも執拗に小沢攻撃に走るという訳なのだろう。

弱い犬がやたらに周囲に吠えかかるのと同じ理屈だ。いや、犬だけではない、人間も同じ。自信のない小心者ほど居丈高になるというのはよくある話だ。

こんな新聞が、何百万部も売れているというのだから、おめでたいというかなんというか。だから、この世の中、いつまでもこんな有様なのだろう。

さて、以上は、たまたま目に付いた朝日新聞についての感想だが、言うまでもなく、他の新聞・TVについても事情は同様である。