椿山荘と有為転変

先日、所用があって、東京・文京区の椿山荘を訪れました。

ご存知の通り、椿山荘は山県有朋の元邸宅で大正時代に藤田財閥に売り渡され、戦後宴会場として整備されて、今日に至っています。

ところで、江戸時代、このあたりは武蔵野台地の東のはずれにあたり、神田川から早稲田の田圃を前景に遠く富士山や房総半島を望む景勝地で、江戸の庶民の手近な行楽地でもあったようです。

この椿山荘のあたりも、古地図によれば大名の下屋敷が連なっており、椿山荘の西側には肥後熊本の細川家の下屋敷がありました。

さて、山県有朋と椿山荘ですが、椿山荘のホームページによると、山県がこの地を購入したのは明治11年のこと。明治11年といえば、あわや明治政府が転覆したかもしれなかった西南戦争の翌年です。山県自身も、参軍として事実上政府軍の指揮をとったとされているその大激動期に、よくもまあ、自分の家屋敷のことを手配できたものだと、ブログ主は皮肉も込めて感心してしまいます。さすがに、その後維新の元勲として明治大正の政界に威をふるうことになる人物だけのことはあります。

江戸から東京へ、時代が大きく変わり、権勢をふるう人々の顔ぶれも替わります。大名の中には、廃藩置県、版籍奉還で財政不如意になった方もおありになったことでしょう。そうした方から、新しく権勢をふるうようになった明治政府のお偉方が屋敷を購入する。政権交代による選手交代というわけです。

ま、有為転変は世の習いですが、このことを実感させていただいた椿山荘訪問でした。

また小沢一郎

民主党代表選が終わって数日が経過しました。

ブログ主は、紙媒体の大新聞(ここで大というのは価値が大ということではありません。発行部数が大ということです。念のため。)やNHKなどの大放送(この大も新聞と同様の意味です。)のニュースを見ていないのですが、ネットでかいま見る限り、小沢一郎氏の真価がじわじわと少なからぬ人々に認められつつあるように思えます。

それはそうでしょう。この代表選で候補になったもう一人の人とは、人間としても政治家としても比較するも愚かなほどに差があり、このことは、虚心坦懐にことを見る人の目にとっては隠しようがないほど明らかだからです。小沢氏をあれこれいう大新聞や大放送の記者さんやキャスターさんとの比較においては言わずもがなであります。

「アマデウス」という映画があります。モーツァルトとその同時代人の作曲家サリエリを扱った舞台劇の映画化ですが、現代ではほとんど誰も知らないサリエリが当時の人気作曲家であり、モーツァルトはその晩年、現代の圧倒的評価と比べるとまことに寂しい時を過ごしたことが活写されています。

小沢氏もモーツァルトになる? 死後200年以上たった今、モーツァルトの真価は誰もが認めるところですが、小沢氏の場合、死後数百年でその真価が認められるのではこの日本が困ります。

我が日本の同胞諸氏が、モーツァルトの時代の人々と同じ轍を踏まず、一日も早く小沢氏の真価に気付いていただくようになることを切に願うものです。

小沢一郎はソクラテスか

小沢一郎氏を見ていると、あのソクラテスのことが浮かんできます。

ソクラテスは、アテネの市民に「よき市民とは」「よきポリスとは」と問いかけ続けた挙げ句の果てに、市民参加による裁判で死刑を宣告され、自ら毒杯をあおぐ刑の執行を従容として受け入れたのでした。

小沢氏も、国民に「自立した国民とは」「自立した国家とは」と問いかけ続けてきましたが、いわゆる「政治とカネ」という大手の新聞・テレビをあげてのネガティブキャンペーンの前に、今般の民主党代表選では残念な結果に終わりました。

しかし、以後の西洋思想史では、ソクラテスの死をめぐる「ソクラテス問題」が現代に至るまで、哲学の重要なテーマとしてあり続けています。いわく「ソクラテスはなぜ死ななければならなかったのか。」

同じく、わが日本国でも「小沢一郎問題」は問題であり続けるでしょう。なぜこれほどまでに小沢氏はマスコミのネガティブキャンペーンの対象であり続けるのか。

もちろん、ブログ主は、「小沢一郎問題」とすることで、小沢氏自身のことを問題としているのではありません。そうではなくて、理由もなく小沢氏にネガティブキャンペーンの矛先を向けるマスコミのことを問題にしているのです。

以後の日本の歴史では、「なぜこの国のマスコミは、不世出の政治家である小沢一郎に理不尽なネガティブキャンペーンを張ったのか」が問われ続けることでしょう。

小沢一郎氏当選ならず

民主党代表選、小沢一郎氏当選ならずでした。

しかし、代表選の過程で、小沢氏の人となりや政策を直接知ることができたのは幸いでした。とくに、投票直前の演説は、心のこもった名演説でした。

9月13日付の日刊スポーツのインタビューに、「自分が前進のための礎、屍になる。昔流にいえば、僕の屍を乗り越えて進んでほしい。」と述べていますが、この結果をある程度予期してのメッセージだったのかなとも思います。

代表選の中での数々のメッセージ、とりわけ今日の演説、心に響くものがあります。小沢総理大臣はなりませんでしたが、小沢氏のメッセージは、少なからぬ国民にきちんと届いていると思われます。

民主党代表選

本日、民主党代表選が行われます。

ブログ主は、小沢一郎氏にぜひとも総理大臣をやっていただきたいと考えている者です。その理由はたくさんありますが、一点だけ申し上げると、政治家うんぬんという前に、人間としての大きさが小沢氏にはあり、その大きさが、現下の日本の危機を突破する原動力になると思うからです。

小沢氏が当選するかどうか、現時点ではまったくわかりませんが、結果はどうあれ、少なくとも今後10年程度の間の日本のあり方を決めることになると思われます。ぜひ、よりよい日本につながるような結果を願っています。

厚労省元局長への無罪判決と新聞の終焉

昨日、大阪地裁で、厚労省元局長に対する郵便不正事件の判決公判があり、大方の予想通り無罪判決が出ました。ネットでも、従来の大手メディアでも報道、評論が盛んです。

ところで噴飯ものなのは、今日付けの朝日新聞の社説です。

「特捜検察はかつてロッキード事件やリクルート事件などで、自民党長期政権の暗部を摘発した。政権交代が可能になったいまでも、権力の腐敗に目を凝らす役割に変わりはない。

冤罪史は「自白」の強要と偏重の歴史である。今回の事件もその列に加わりかねなかった。

検察は、これを危機ととらえねばならない。弁護士や学識経験者も加えた第三者委員会をつくって検証し、取り調べの可視化などの対策を打つべきだ。それと ともに報道する側も、より客観的で冷静なあり方を考えたい。」

「政権交代が可能になったいまでも、権力の腐敗に目を凝らす役割に変わりはない。」という認識は間違っています。特捜検察が政治家案件を扱う意味が多少なりともあったのは、お説の通り、長期間政権交代がなかったという特殊事情下においてのみであり、まさに、政権交代が可能となった現在では、政治家の有り様を含めて政治の有り様を決めたり権力の腐敗を監視するのは検察当局ではなく、主権者国民と、選挙におけるその投票行動です。いまだに特捜検察に権力の監視役を求める朝日新聞社説の発想は時代遅れといわざるを得ません。

また、「冤罪史は「自白」の強要と偏重の歴史である。」というその歴史に加担してきたのはどなたでしょう。検察当局のリークに頼り、検察の捜査対象はすなわち有罪であると決めつけるかのような報道を繰り返してきたのは、朝日新聞をはじめ既成のマスメディアの皆さんではないのでしょうか。

「検察は、これを危機ととらえねばならない。」とおっしゃるが、ここは「検察」ではなく、「朝日新聞」としたほうがよろしいのではありませんか。朝日新聞を含めて、従来の大手メディアが陥っている、予断や憶測を交え、事実に脚色を加えるという取材・報道の基礎を忘れたかのような振る舞いを自分たちの危機ととらえられないのは、もはや民主社会における報道機関としての新聞の末期症状かもしれません。

田中正造は「危機を危機ととらえられない、これを危機という。」という趣旨のことを述べていたと思いますが、朝日に限らず、大手メディアはまさに危機を通り越して崩壊状態にありますね。

ブログ事始め

このたび、幾多の困難を乗り越えて、ブログをスタートさせることができました。独自ドメインの取得、レンタルサーバとの契約、WordPressのインストール、phpの勉強等々、まったくの素人にとっては非常に高いハードルでしたが、関連書籍やネットにおける諸先達のご教示に助けられてここまでたどり着くことができた次第です。まずもって貴重な情報を惜しみなく開示していただいた先達の皆様に感謝申し上げます。

それにつけても、ありがたい世の中になったものです。そこそこの性能のパソコンとネットで情報を検索する少しばかりの技能があれば、年間数千円で独自ドメインとサーバが確保できる時代なのです。中島みゆきではありませんが、まさに「時代はめぐる〜」であります。

WordPressのインストール画面に「世界で最も拡張的で強力なパーソナルパブリッシングプラットフォーム」とありますが、このパーソナルパブリッシングプラットフォームということ、意味深いものがあります。何千万人かが視聴する放送局、何百万部を発行する新聞社や、何万部を売りさばく出版社に比べれば、インターネットを舞台にしたデスクトップパブリッシングは圧倒的にコストが低く、内容が多くの人に支持されさえするなら、放送や新聞などのマスメディアに匹敵する受け手を見いだすことができます。

民主政治が成り立つためには、もろもろの争点に関し、人々が主権者としての判断を間違いなくするためのゆがみのない情報を過不足なく手にしていることが必要です。これまでは新聞や放送がそれらの情報を中立公正な立場から伝達し、世論を正しく導く役割を担っているとされてきました。すなわち「社会の木鐸」というわけです。

しかし、ここ数年、そのことにブログ主は疑問をもつようになりました。「本当にマスメディアはゆがみのない情報を過不足なく伝えているのだろうか」と。

この疑問が決定的になったのは昨年1月に起きた、当時の民主党代表小沢一郎氏に対するいわゆる「政治とカネ」問題です。来るべき総選挙において政権交代が起こりそうなタイミングにおいて、検察当局が野党第1党の党首の周辺に対して強制捜査を始める、すると新聞や放送が競い合うように「政治とカネ」を連呼して検察当局のリーク情報を報道する。その有様はまるで集団ヒステリーのようでした。

この有様を見て、新聞や放送などのマスメディアが、中立かつ公正な立場を捨てて、ある種の立場を取るようになった、その立場とは「反小沢」という立場なのだと、考えるようになったのです。

その後、インターネットを中心に様々な情報を調べるうちに、検察当局の捜査は、予断と偏見にもとづく政治的捜査と取られても致し方のないものであること、検察当局のリーク情報を垂れ流すマスメディアの行動はもはや「社会の木鐸」と呼ばれるようなものではなく政治的闘争における一方のプレーヤーとなったということを確信するにいたりました。

既成のマスメディアが、民主政治における国民の判断に資する報道ができないのであれば、それに代わるものが必要です。インターネット上のブログサイトでは、貴重な一次情報が流され、様々な立場の意見が主張されています。ブログ主も、それらの情報や主張に大いに目を開かされ啓発されてきました。

そうした数多くのブログサイトがあるにもかかわらず、ここに新たに拙ブログを始めるのはあたかも「屋上屋を架す」に等しいことかもしれません。が、民主政治とはそもそも「人々による支配」であるわけで、その人々が暴力によらず言論によって大いに意見を主張しあい「百家争鳴」する、その中から自ずと政治や社会の進むべき方向が見えてくることは結構なことではないか、というわけで身の程を顧みもせずこのブログを始めた次第です。

始めたきっかけは以上のことなのですが、タイトルの通り、ブログ主の想いや思いを、あれこれ気の向くまま、憶断的にして非論理かつ非実証の記事を連ねて参ります。