a thousand winds または「千の風になって」のこと

秋川雅史の歌唱で広く知られるようになった「千の風になって」は、Do not stand at my grave and weep で始まる英語の詩が元になっているようだ。

元の英語の詩は、簡潔な韻文なので、わからない単語は辞書で引くなりすれば、ブログ主のような義務教育修了程度の英語力で十分読解可能と思われる。(末尾に、ウィキペディアからの引用を掲げてある。)

ただし、元になった英語の詩といっても、これがそれだと確定することは簡単ではないようだ。

ブログ主は、いつだったか、秋川雅史の歌唱で有名になる前、初めてこの英語詩に接した時、作者不詳だがアメリカでは葬儀で読み上げられることがある、ということを知り、そういうものかと思った記憶がある。

今回、あらためてインターネットで検索したところ、1930年代にアメリカ人の女性が、友人の母の死に際して作ったものが、人から人に伝えられていく過程で形を変え、今日、広く知られるようなものになった、という説が有力なようで、別にアメリカインディアンの言葉だという説もあるらしい。

いずれにせよ、このアメリカ人女性は著作権を主張していないようだし、その後の変形についてもだれも著作権を主張してはいない。

ところで、秋川雅史が歌っている「千の風になって」は、CDの発売元のホームページでは、シングル版には作詞:不詳、作曲・日本語詞:新井満となっており、アルバム版には作者不詳、作曲・日本語訳詞:新井満となっている。

作詞は不詳、日本語詞は新井満に、作者不詳、日本語訳詞新井満ね。

日本語詞なのか日本語訳詞なのかどっちなんだ。

元の詩は Do not stand at my grave and weep で始まる英語の詩で、作者は不詳、すなわち読み人知らずという認識であり、この詩に関連づけて新井という人が日本語の詞を作ったということなのか、あるいは、この詩を訳したということなのか。

これはどういうことなのだろう。

元の英語詩の日本語訳でもあるし、新井という人がほとんどゼロから作ったものでもあるということなのだろうか。

作詞:不詳または作者不詳というからには元の詩があることを認めているのだろう。その元の詩と、日本語詞あるいは日本語訳詞の新井満との関係がよくわからない。

関係があるとも解釈できそうだし、ないとも解釈できそうだ。曖昧である。曖昧にしているのか。

だから、ここから先は、ブログ主の勝手な思いこみになる。(ま、このブログ自体が思いこみ固まりなのだから、そんなこと、いちいち言わなくともよい!と叱られそうですが)

元の英語詩(下に引用した3種のうちいちばん最後のもの)と、新井という人の日本語詞・訳詞を比べて、まず浮かぶ感想は、新井日本語詞・訳詞は感傷的、お涙頂戴的という言葉だ。

英語や英文学、まして英語詩には目に一丁字もないブログ主でも、辞書を引き引き、なんども口ずさんで味わったところでは、原詩は、いつまでも墓の前でめそめそするな Do not stand at my grave and weep 、それよりもあなたはあなたの人生を生きなさい、この世界のどこかで私は見守っているから、というドライだが(湿っぽくない)暖かいメッセージを送っているように思える。

だが、新井日本語詞・訳詞は、「墓」に、「お」がついて「お墓」なのだな。もう、ここからしていけません。おまけに「泣かないでください」と死者が生者にお願いをしちゃうんだな。いったいなに、これ。「お墓の前でなんたらかんたら」ではなく「墓」の前で泣くな、汝墓前にて涙するなかれ、ではないか。

まあ、詩歌の受け取り方は人それぞれで、なにが正しいということはないのだから、ブログ主の感想は余計なお世話の域を出ないのだが、でも、英語の詩と、新井日本語詞・訳詞との間にある違和感については一言、言っておかねばという思いが強い。

さらに、思いをつづけると、この新井という人、「千の風」を商標登録している。

商標登録!?

元の英語詩に関わった人は著作権すら主張していないのだが…

まあ、それは人それぞれだからご自由にどうぞというしかないが、この人、公式ホームページによると、商標「千の風」の利用料を、いったん本人の口座に振り込ませ、その後全額を「千の風・基金」に送金し、社会福祉支援活動に支出しているという。

面白いことをしますなあ。

いくら、人の死に関わる詩だからといって、自分が訳したかあるいはそれに近いことをしたのなら、堂々と印税なりなんなりを受け取ればよろしい。「千の風」が広く知られるようになったのを絶好のビジネスチャンスと考えて商標登録したのなら、そこからの上がりも堂々と懐に入れればよろしい。

なんでこんな面白いことをするのかなあ。本人は、ホームページでなにやらおっしゃってますが、なんだかよくわからない。

あ、ついでといってはなんだが、この曲も、ブログ主の好みではない。感傷の上塗りです。

最後に一言。

ネットを見ると、秋川雅史歌唱の「千の風になって」を聞いて、身近な人の喪失感を癒されたという方は多いようだ。このブログ記事は、そうした方をあれこれ言おうとする趣旨ではない。秋川雅史歌唱の「千の風になって」で癒されたのなら、それはそれで結構なことだ。この記事は、あくまで、新井という人の日本語詞・訳詞と、原詩とされる英語の詩との間で、ブログ主が感じた違和感を記録したものであることを申し述べさておく。

(以下ウィキペディアからの引用。すべて題はついていない。説明の文言には手を加えてある。)

(1)作者として有力視されている Mary Frye によりオリジナルだと確認されたといわれるもの

Do not stand at my grave and weep,

I am not there, I do not sleep.

I am in a thousand winds that blow,

I am the softly falling snow.

I am the gentle showers of rain,

I am the fields of ripening grain.

I am in the morning hush,

I am in the graceful rush

Of beautiful birds in circling flight,

I am the starshine of the night.

I am in the flowers that bloom,

I am in a quiet room.

I am in the birds that sing,

I am in each lovely thing.

Do not stand at my grave and cry,

I am not there. I do not die.

(2)Mary Frye の友人の Margaret Schwarzkopf の両親の友人が、葉書に印刷したもの

Do not stand at my grave and weep

I am not there; I do not sleep.

I am a thousand winds that blow,

I am the diamond glints on snow,

I am the sun on ripened grain,

I am the gentle autumn rain.

When you awaken in the morning’s hush

I am the swift uplifting rush

Of quiet birds in circled flight.

I am the soft stars that shine at night.

Do not stand at my grave and cry,

I am not there; I did not die.

(3) Mary Frye が亡くなった時に、新聞の死亡記事(2004年9月)に載せられたもの

Do not stand at my grave and weep

I am not there; I do not sleep.

I am a thousand winds that blow,

I am the diamond glints on snow,

I am the sun on ripened grain,

I am the gentle autumn rain.

When you awaken in the morning’s hush

I am the swift uplifting rush

Of quiet birds in circling flight.

I am the soft starlight at night.

Do not stand at my grave and cry,

I am not there; I did not die.

消費税増税は社会保障目的という真っ赤な嘘

菅直人は、消費税の増税は社会保障目的だから国民の利益になる、利益になるから国民は安心して消費に励み、結果、経済成長が実現して、その余禄が国民に回るのだから、汝国民は消費税増税をもろ手を挙げて歓迎せよ、と、まあざっとこんな頓狂をぶち上げている。

バカじゃないか。

こんな理屈にもならない屁理屈、小学生でも騙せないよ。

消費税が初めて導入されたとき、時の自民党政府はなんと言ったか。これで、年金を始め社会保障は万全です、と言ったのではなかったか。

3%から5%に上げたときも、同じことを言った。

消費税増税は社会保障目的だなんぞという言い草は、真っ赤な嘘である。

税金に色などついていない。

いったん財務省の手に入ったら、どこへ行くのやら、その行方は財務官僚のみぞ知る。

国民は安心して消費に励む?

冗談じゃないよ。

5%が10%になるということは、1万円の買い物で、500円の税金が1000円になるということだ。その差500円、500円玉一個だよ。

500円玉一個あれば、マクドナルドの100円バーガーなら5個も買える。安売り競争の牛丼なら2杯食べられる。

そんな大金を強制的に召し上げられることになるというのに、安心して消費に励むだと。

バカも休み休み言え。その反対だろう。みんな、財布の紐を締めて生活防衛に走るに決まっているじゃないか。経済は一段と冷え込むことになる。成長どころか、縮小に向かうこと必定だ。

このデフレ不況で、中小零細の皆さんは四苦八苦、学生さんも就職超氷河期で辛い思いをしている。これに輪をかけることになる罪作りが消費税増税だ。

菅の頓狂に加えて、例のごとくにマスコミが、消費税増税について国民の理解は得られつつある、などと嘘の上塗りをする始末。

日本のマスコミは、購読料金が再販価格維持制度で安売り競争から免れている新聞、不当に安い電波利用料で法外な利益を上げているTV局、ともに規制に守られ、独占にあぐらをかいて、このデフレ不況だというのに社員の平均給与は異常に高い。マスコミ貴族だ。

こんな連中のことだから、消費税が5%上がろうが、10%上がろうが痛くも痒くもないのだろう。それなのに、この連中ときたら、口を開けば「国民目線」「市民感覚」などいかにも庶民の味方のようなことをいけしゃあしゃあとぬかす。お前さんたちね、こんなアコギなことをしていると地獄に堕ちるよ。

しかし、情けないことに、どう見てもブログ主とそんなに変わらない家計状態にある庶民の皆さんの中に、こんな嘘八百を真に受ける人がいるのだから困ったものだ。

「年金をちゃんと貰えるようになるなら、消費税が少々上がってもしょうがないのじゃないでしょうか」

ウーム、騙す方が悪いのか、騙される方が悪いのか、どっちでしょうかねえ。

裏切られた政権交代

今、民主党のウェブサイトにアクセスすると、一瞬、「国民の生活が第一」の文字が浮かび、すぐに菅直人のスローガン「元気な日本を復活させる」に変わる。

象徴的である。

2009年夏の総選挙で、正しくも「国民の生活が第一」を掲げ、「脱官僚主導政治」を標榜して勝利した民主党。

それが今はどうだ。

21日、菅直人は、事務次官連中を前に、「脱官僚主導政治」には行き過ぎなり不十分があった、と述べ、協力を要請したという。

無条件降伏。

なぜ、こうなったのか。

ブログ主の考えでは、民主党執行部が、代表の菅直人を始めほぼ全員、「国民の生活が第一」を否定し、官僚に政治の主導権を譲り渡すことをためらわない連中で占められてしまったからだ。名称は相変わらず民主党だが、現在の民主党は総選挙当時の民主党とは似て非なるものになった。

どうしてか。

民主党の反小沢グループによる党内クーデタが成功したからだと思う。

クーデタとは、国語辞典によると、「既存の支配勢力の一部が非合法的な武力行使によって政権を奪うこと」とある。

まさにしかり。「既存の支配勢力の一部」を、「民主党の反小沢グループ」に置き換え、「非合法的な武力行使」を、「検察・マスコミ連合軍による政治とカネキャンペーン」に置き換えると、ぴったりはまる。

彼ら反小沢グループは、検察・マスコミ連合軍の政治とカネキャンペーンに乗じて、まんまと、民主党の権力を奪うことに成功した。

それが、菅直人の、今日のぶざまな、「高級官僚の皆さん、ごめんなさい」につながっている。

このクーデタは、「国民の生活が第一」「脱官僚主導政治」を期待して政権交代にかけた主権者に対する裏切り行為である。

裏切られた政権交代。

裏切られた国民、すなわち私たちはどうするか。

主権者としてなすべきことをする、すなわち次なる選挙での投票行動で、その思うところを具体化することだ。

中国

中国が、GDPで日本を追い抜き、世界第2位になることが確実だ、と新聞社のネット配信記事が伝えている。

中国がGDP第2位になるのは当たり前のことだ。人口、歴史、自然条件、どれをとっても中国がそうなることを妨げるものはない。天然自然の勢いというものだろう。しかも、隣の国がGDP第2位になるほどに経済的に発展することは何かにつけてわが日本国にはプラスになることだ。

問題は、これを伝えるマスコミの姿勢だ。そもそも、こんな当たり前のことをわざわざ記事にすること自体、過剰に意識していることの現れだろう。その意識を探っていくと、おそらくこんなことになるのではないか。

なに? あの中国が日本を抜くって? 日本が負けちゃうんだ、そんなことぜったい許せない! と、まあ、こんな調子なのだろう。

そういえば、先日、家人が見ていたTVのニュース番組で、中国が話題になったとき、女性アナウンサーが、ワンセグ携帯から中国に関するアンケート参加を呼びかけていた。設問にいわく、「中国が怖いですか? 以下の4つから一つ選んでください。非常に怖い、怖い、そうでもない、怖くない」

「中国が怖い」?

こういうアンケートはアンケートではなく、中国恐怖、あるいは、中国嫌いのムードづくりへの誘導、勧誘だろう。こういう嫌中国のムードづくり番組を作るTV局の連中の心性も、上記GDP記事作成の新聞社の連中と大同小異というところなのだろう。

隣人というものは、好きになる対象でもなければ、嫌いになる対象でもない。ただ隣りにいる人というものなのだ。べたべたとくっつくこともなければ、四六時中喧嘩をすることもない。末永く、平穏無事の関係を続けられればそれでよい。「無事これ名馬」である。

国家の関係も右に同じ。

西の隣には、韓国、北朝鮮、中国、北の隣にはロシア、東の隣にはアメリカ。いずれ名だたる強者(つわもの)ぞろいだが、これもわが日本国の動かしがたい定めである。

これらの諸国と末永く、平穏無事の関係を続ける。無事こそ命。

そのためにはどうするか。

好きだ、嫌いだ、と思わないことだ。好きでも嫌いでもない、そういうものだと受け止めればよい。

そもそも、好き嫌いは、思い込みから始まる。思い込みとは、どうでもよいことを、あーでもないこーでもないと心の中でいじくり回しているからそうなるのだし、思い込めば思い込むほどこじれてくるものだ。

そう考えると、マスコミ連中の、嫌中国感情を助長するよう行為は、犯罪的だ。彼らのすることは、わが同胞の心の中に、嫌中国の種をまき、育て、ひいては隣人と事を構えさせることにつながりかねない危険をはらむ。

「将を射むと欲するなら、その馬を射よ」という。

近隣諸国と善隣友好の関係を続けようと欲するなら、隣人関係に仇をなすマスコミを射なければならない。

当ブログは、第1権力とも、第4権力ともいうマスコミの犯罪的行為を指摘していくことにいささかの躊躇もない。

もう一人の老害

中曽根元首相が、今回の内閣改造に関して、与謝野に大いに仕事をさせろという趣旨の発言をしたと、某新聞社のネット記事が伝えていた。

こんな発言、する方もする方だし、伝える方も伝える方だ。

中曽根が首相を退任してからもう何年になるのか。20年以上たつのではないか。

過去の人である。

それをいつまでも、現下の政治過程に首を突っ込んで世迷い言をだらだらとたれ流す。みっともないからおよしなさい。

さらにみっともないことに、マスコミが、こんな世迷い言を、マジ顔で報道する。

マスコミというのは、いちおう、ニュースを伝えるということになっているのではないのか。中曽根の世迷い言がニュースなのか。

過去の人が、過去の栄光にしがみついて、いつまでも、懲りもせず、世迷い言を垂れ流しています、というのだったら、まあ、ニュースにならないこともないかとは思うが。

マスコミも苦しいのだな。

2009年夏の総選挙で主権者が「国民の生活が第一」を支持し、政権交代を実現した歴史的意義を、とにかく、なんとしてでも貶め、晦まさなければならないと必死なものだから、民主党批判の急先鋒だった与謝野の民主党内閣入りを正当化し結果として政権交代の矛先を丸め込むことにつながる、こんな老人の世迷い言まで報道しなくちゃならない。

ま、ごくろうさんです。こんなことは自ら墓穴を掘るのと同じことなのだがね。

マスコミは病気

今日、電車の中で、隣に座った人が、一日前の朝日新聞を読んでいた。

一面の見出しに、「内閣支持率25%に微増」とあった。

「微増」か。

まあ、菅直人ヨイショの朝日新聞としてはそうとしか言いようがないだろう。

でもこの数字、誤差の範囲、意味がない数字ということではないのかな。

せっかく内閣改造したのにこの数字では、当の菅直人もがっかりだろうし、それ以上に、菅直人にがんばってもらいたいと思っている朝日新聞にはがっかりの数字だろう。

もう一つ、ネットでみた時事通信の配信記事。

菅内閣の支持率が数%上がったことをとらえて、改造で小沢切りを貫いたことが評価された、と論評していた。

うーむ、何を根拠にこう主張するのか。

おそらく、根拠もへちまもないのだろう。

とにかく、誤差の範囲程度の数字でも、小沢一郎氏と結びつけないと気が済まないのだろう。

こうなると、もう病気だ。しかも、重篤の。

菅伸子と菅直人—葬式帰りに喪服でスーパーに立ち寄ったバカ女とそのアホ亭主

1月8日、この破れ鍋に綴じ蓋コンビは、知人の葬儀に参列した帰途、喪服姿で自分の選挙区内にあるスーパーに立ち寄り買い物をしたそうだ。

この破れ鍋に綴じ蓋コンビが、スーパーで買い物したことは知っていたが、まさか葬式帰りに喪服姿であったとは…

つい昨日、ネットでそのときの写真を見て目が点になった。

ま、よく考えれば、このバカ女にアホ亭主のことだから、こんな奇態なことをしてもおかしくはないのだが、それでも、まさか、そこまでバカだとは…

スーパーに立ち寄ったのは、日用品が不足したからだという。

? 4日の新年会で200人分料理を用意したが、50人も来なかったので大量に廃棄したため、自分たちの食料が不足したのか。

理由はどうあれ、こんなことはまともな大人のすることではない。

葬儀に参列するというのは、故人に弔意を表すということだ。弔意を表すというのは、人間の行動としてはもっとも重要なものの一つで、最大限の敬意をもってなされなければならない。それは、そのことのみのために行われなければならないもののはずである。行って帰ってくる。道草など食わない。

それを、日用品の充足という程度の用を足すためにスーパーに立ち寄る。しかも、その一部始終を新聞やTVに取材させる。庶民感覚をもっていることをアピールするため?

まあ、本当の庶民であれば、誉められたことではないが、あっても仕方がないかなとは思う。

しかし、この破れ鍋に綴じ蓋コンビは、わが日本国の内閣総理大臣夫婦なのだよ。

こんなのが、総理大臣夫婦をやっている日本という国は、いったい何なんだろう。

「破れ鍋に綴じ蓋」の菅伸子

亭主が亭主なら、女房も女房である。

12日に行われた日本外国特派員協会でのインタビューで、記者の質問に答え、「こんなこと言っていいのかしら」と前置きしつつ、両陛下と皇居で、昨夏、亭主及び自分の4人で会食した際の天皇の言葉を明らかにした。天皇は、当時問題になっていた「消えた高齢者」について、どういうことになっているのでしょうか、ともらしたそうだ。

ブログ主が、菅伸子の発言について思うことは二つ。

第1は、この女、自慢をしたなということ、第2は、この女、結局なんにもわかっちゃいないということだ。

第1について。

これまで、天皇との会食の際などの会話は、公にしないという慣例があるという。この慣例の当否については今は問題としない。

しかし、この慣例があるのを知ってか知らずしてか、天皇の言葉をもらしたのは、次のような浅ましい性根からなのであろう。

「私、菅伸子は、両陛下と差しで食事ができる地位にまで上り詰めたのよ、そうよ、ファーストレディーなのよ、どう、下々のみなさん、わかる、これってすごいことなのよ、今住んでいるところだって、首相公邸、永田町2丁目、都心の一等地よ、広すぎてもったいないから母親まで連れてきちゃった、そしたらどーお、感激しちゃったのか、呆けていたのに国会の周りで銀杏拾いまで始めちゃってさあ、おまけに、24時間警護のSPが付いてくれて、これってほんとのVIP、もおー、うれしくてうれしくて、いつまでもやっていたいから、亭主には言っているの、たとえ支持率がマイナスになったって辞めちゃだめだって、日本がどうなろうとそんなこと知ったことじゃないわよ、とにかくこの私がいつまでも栄耀栄華できればそれでいいの、だってあの中身が空っぽのバカ亭主をだましだましここまでもってきたのは私の力、総理大臣にしてやったのは私なんだから、このくらいのご褒美は当然よね、ついでに言うとね、亭主だってホントはどうでもいいのよ、他の女に走ったくせにさ、あんな奴! だからね、こんど生まれ変わったら、他の女に目もくれず、一から十まで自分の言うことを聞くもうちょっと操縦しがいのある男を選ぶの、どーお、文句ある?」

とまあ、戯文調でまとめてみたが、当たらずとも遠からずというところではないだろうか。

第2について。

天皇が、「消えた高齢者」について、ご自分が形式的であるにせよ任命した内閣総理大臣に、どうなっているのかと発言したということは、どうにかしなさいと命じたということだ。

日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である天皇として、国民の間に亀裂が広がり、あろうことかその亀裂に高齢者がすっぽりと神隠しのごとく消え去る事態を看過することはできないと考え、総理大臣と親しく会食する機会をとらえて、改善を求めたということではないか。

ここで、天皇の政治への関与の当否については問題にしない。

これは、天皇であるかいなかということ以前の、現代の日本に生きる人間として(現在は天皇は現人神ではない)ごく当たり前の発言であり行動であると思う。

そこで、問題は、この女の反応だ。

このことをわがこととして受け止め、何とかしようとする姿勢を示したのか。国民の間に貧困と格差が広がり、家族関係や地域社会に亀裂があることを自らの痛みとして受け止め、改善のためにできることをしているのか。

たとえ、その亀裂、あるいは格差が、民主党政権以前から始まっているとはいえ、当代の責任者は、この女の亭主の、総理大臣である菅直人である。これは逃れようのないことだ。

読者よ、それは亭主の仕事で、女房は違う、と言うなかれ。この女は、先の民主党代表選挙の折、「もう少しやらせてください。だめなら自分が辞めさせます」と公言して歩いたのだ。よもやそのこと、お忘れではあるまい。辞めさせるとは、任命権者のみが言えるせりふだ。それを言うということは、この女、菅直人の任命権者つまり監督者になったつもりなのだろう。

であれば、この亭主と女房は一蓮托生、破れ鍋に綴じ蓋だ。

だから、亭主だけでなくその女房、菅直人だけでなく菅伸子の覚悟のほどを問うてもなんの問題もない。

その昔、池田勇人は、電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのもすべて総理大臣の責任というほどの決意でその任に当たる覚悟をしたという。

菅伸子よ、汝にその覚悟のほどありやなしや。

憲法論と政治論

年頭の総理大臣挨拶の情けなさについては、西岡参議院議長を始め、多くの方が指摘しているのでそちらに任せるとして、当ブログでは、参議院で問責決議を受けた官房長官の仙谷某の発言についての疑問を記録しておきたい。

この人物が、その地位にあるのもあと一日かそこいらというところだが、探求の範囲が狭いからなのかどうか、ブログ主が感じたような疑問を他では見かけないので、このような疑問もあるということをあえてブログ記事にしておくことも無駄にならないだろう。

疑問はいろいろあるが、なかでも、「問責決議で閣僚を辞任するよう野党が迫るのは政治論としては成り立つだろうが、憲法論としては成り立たない」として、内閣不信任決議は衆議院の特権であって参議院にはその特権はないから参議院の問責決議は法的拘束力を持たない、憲法には大臣が国会の会議に出席して意見を述べることができると書いてあるので自分は国会が開かれれば出席する、という一連の発言である。

この発言からは、この人が、政治と憲法との関係では、憲法の規定が政治の上位にあり、政治的な主張や主張に基づく運動はそれとして、憲法の規定がかくかくしかじかである以上、野党の政治的主張や運動は憲法の規定に従わなければならなず、従って自分が官房長官を続けることに何の問題もない、と考えているように見える。

しかし、はたしてそうなのか。

憲法は、政治的共同体(国家)の在り方を決める政治的文書とでもいうものであり、民法やら刑法やら、社会生活の細部を取り仕切るふつうの法律とは性格が異なる。

政治的文書という性格から、国家の在り方が変わると、当然、憲法も変わることになる。

近いところでは、敗戦という政治状況の変化により、国民が主権者となった結果、天皇が主権者であることを前提とする大日本帝国憲法が、国民主権の日本国憲法へと変わったことが好例である。

つまり、政治と憲法との関係を一言でいえば、政治があって憲法があるのであり、憲法があるから政治があるのではない。

しかも、政治とは突き詰めれば人間関係であり、人間関係を成り立たせる根本のところは、信頼である。したがって政治的文書である憲法も、関係する人々の間に信頼関係がないと、意味をもたないたんなる空文になる。

こう考えると、官房長官の仙谷某の言っていることのおかしさが明らかになってくる。

野党の思惑はさておき、国会議員の多数が問責決議に賛成したということは、国会議員の多数がこの官房長官は信頼できないと表明したことに他ならない。

あなたは信頼できないと人に言われて、法律にはそう書いていないと返したのが、この仙谷某だ。この人、憲法という政治的文書と、普通の法律の区別がつかないらしい。いままさに、信頼が、ということは政治が問題になっているにもかかわらず、憲法を普通の法律であるかのごとく思いなし、憲法の規定がどうのこうのとまさに三百代言的言辞を弄して周囲を煙に巻こうとするその態度の卑しさ。

この人は、衆議院議員をやっているはずで、世間では政治家ということになるものであろう。政治家が、政治と憲法の関係についてこのように頓珍漢な認識しかもっていないということは、わが国の政治家の劣化を物語るものであろう。

新聞・TVなどの企業ジャーナリズムの劣化は言わずもがな、加えて一部政治家の劣化、まさにわが国は国難の中にある。

余談だが、大日本帝国憲法には「不磨の大典」という文言があり、明治政府の法律顧問の西洋人に、憲法とは政治的文書なのだから政治が変われば憲法も変わる、政治は永遠不変ではないのだから、こんな言葉を書き込むのはみっともないからおよしなさい、と助言されたが、時の政府高官が押し通したというエピソードが残っている。

「小沢リトマス試験紙」

平成22年もあとわずか、新しい年を迎える準備もほぼできたところで、本年を締めくくるブログ記事です。

現今のわが日本国では、小沢一郎氏についてどう考えるかで、その人の人となりが分かるという面白い現象があります。

「小沢は金にまみれた悪徳政治家だ」というマスコミ・検察連合のプロパガンダを鵜呑みにするかしないか。

世に名高い評論家、ジャーナリストのたぐいで、該博な知識をもち、鋭利な分析をする人でありながら、このプロパガンダを前提に話を進めるこまった人もいますし、逆に、市井の無名の人物でありながら、鋭くマスコミ・検察連合のプロパガンダの嘘を見抜き、小沢氏の真価を理解する人もいます。

人は見かけによりません。

ブログ主は、この一年、この「小沢リトマス試験紙」を用いて、世の様々な問題に関して、たくさんのことを学ぶことができました。

このブログの開設もその成果の一つです。

来年も、力の続く限り、「小沢リトマス試験紙」に反応する現象を研究し、マスコミとは違う、もう一つの見方をブログに記録して参りたいと考えております。

願わくは、さらに多くの方が、マスコミ・検察連合のプロパガンダの嘘を見抜き、主権者としての権限を適切に行使して、わが日本国の未来をより良いものにするためにそれぞれの立場で行動されますように。