4年目の大震災

4年前の昨日、東北を中心に関東・甲信・北海道の一部にまで被害が及んだ地震が発生したのだった。

そのためか、昨日、自分の住む自治体が、防災無線と称する野外拡声装置で地震が起こったのと同時刻における黙祷を呼びかけていた。これはいったいどういうことか。誰が、なにをどう黙祷するというのか。

地震そのものは自然現象としての海底地震だったが、被害のほとんどは人間によるもの、すなわち人災であった。人の作為によるものか(地震国の日本のしかも津波常襲地帯の東北地方の海岸に原子力発電所を作るという作為など)、あるいは無作為によるものか(地震は起こるものであり津波も襲って来るものであるという事実にも関わらずしかるべき備えを怠った当局者の無作為など)を問わず。

それゆえ、この地震災害(震災)の周年を記念し犠牲者を追悼するのならば、その人災としての災害のよってきたる所以のものを明らかにすることが必須のはずである。人災とは読んで字のごとく、人の行為が原因なのであり、その責任を追及し同様の災害が繰り返し起こらないように関係者を戒めることがなければ、無念の死を死ななければならなかった犠牲者をほんとうに追悼することにはならないからである。

死者を悼むということは、本来、きわめて個人的かつ私的なことであると思う。それを、集団的かつ公的なものにするということは、そこに集団(社会や組織)内部におけるなんらかの上下関係的権力行使を伴う動き、つまり言い換えると政治的な意図(上が下を、上の都合の良いように事実をねじ曲げて従わせること。)などがそこにはあるということだと思う。そこに見えるのは、震災犠牲者追悼を集団的かつ公的なものにした者たちが、追悼の目的を曖昧にしたまま、死者の弔いという情の部分に訴えかけることによって、震災の人災的側面を隠蔽し、自分たちの責任をうやむやにしておこうという魂胆である。この者たちとは、つまりは高級官僚・大多数の政治家・大企業の複合体、いわゆる原発村の住人たちなど、作為か無作為かを問わず、震災災害に対して責任を取ってしかるべき者たちなのである。(江戸の公方様のおわしました頃であれば、関係者全員切腹、家名断絶、係累は江戸十里四方所払い、とでも処断されたことであろうが。)

 自分の住む自治体の当局者がこのような呼びかけを独自に主体的意図を持って確信犯的にしたというのではない。この自治体の当局者にはそこまで用意周到のことができる力量はない。おそらく、上部機関、総務省あたりから都道府県知事宛に「お願い」と称する指示が降りてきて、それを都道府県が傘下の区市町村に伝達し、それを受けて「徘徊老人」の探索依頼までご親切に放送するこの自治体の当局者が「じゃあ、一丁放送して上様からの指示には忠実に従いましたというアリバイ造りだ。」ということになったわけなのだろう。

こんな追悼だの黙祷だのでは、あの数千人の犠牲者は浮かばれまい。なぜって、加害者が被害者に対して何らの反省や謝罪をするでもなく、その当の加害者が被害者を追悼するというのだから。こんなに人をバカにした話はない。

あの4年前の震災の犠牲者を、言葉の本来の意味で正しく追悼するにはなにをすべきなのか。それは、彼らを無念の死に追いやった張本人たちの呼びかけに応じて「追悼」するのではなく、作為であるか無作為であるかを問わず、この災害の原因を作った者たちの責任追及と断罪を徹底し、将来にわたって同様の惨害が起こらないように自他を戒めることに尽きるだろう。

あの4年前の災害から、自分は多くのものを学んだが、その最大のものは、政府やマスコミは頼りにならない、頼りになるのは自分と自分の近くの人々だけということである。普段から一般庶民としてできる範囲の備えをし、イザというとき、政府やマスコミの嘘に惑わされて、イザとならないようにしたいものだというのが今日ただいまの実感である。しかし、イザとなるかならぬか、こればかりは天のみぞ知る…だが、イザとなってしまっても加害者たちから追悼されるような惨めなめに遭うことだけはまっぴらご免である。

70年目の東京大空襲

70年前の今日、1945年3月9日の深夜から翌10日未明にかけて、現在の墨田区・江東区・台東区・中央区を中心に、当時の敵国・アメリカ合衆国軍の爆撃機編隊が大量の焼夷弾を投下した。これによって当該地域では大火災が発生し、非戦闘員である一般市民約10万人が亡くなった。いわゆる東京大空襲である。

亡くなった方々の大半は、なぜ自分たちがそのような死を迎えなければならないのか理由がわからないまま亡くなったに違いない。非業の死である。無念思うべし。

とくに子どもたち。戦争がはじまり、爆弾が空から雨あられのように降ってくる事態に立ち至ったについては、まったくもって責任がない彼らの非業の死の責任はだれがとるべきなのか。

誰が、どんな理屈をつけようが、ほとんど一瞬にしてそのような責任のない子どもたちを含む10万人にも及ぶ非戦闘員の死者をだすような戦争を始めることを正当化することはできない。

いや、死者の数は問題ではない。およそ戦争なるものは決して正当化できるものではない。誰か戦争を正当化しようとする人がいるならば、その人は、戦争によって利益を受ける輩なのであるか、あるいは無知蒙昧の輩であるのかのいずれかであろう。

この世に正しい戦争も正しくない戦争もない。戦争は理由の如何にかかわらず悪である。あの夜、無念の死を死ななければならなかった人々のことを思うならば、今、生を享けているものは皆、すべての戦争に反対し戦争への動きに抵抗しなければならないはずである。

この自戒および他戒の念を、70年前の今日、無念のうちに亡くなった人々へのせめてもの手向けとして書き記す。

 

 

吉野家の牛丼

昨年末、総選挙の数日後、吉野家に持ち帰りの牛丼を2個買いに行った。600円ちょうど持って。
小さな張り紙がしてあって、値上げのお知らせらしい。目を凝らすと、牛丼並300→380。なんと一挙80円、30%近い値上げ。なので、買えずにそのまま引き上げたのだが、おそらくこれから先、当分、吉野家の牛丼は食べないだろうな。

値段が上がったからというのはもちろんだが、それよりも、政権与党の権力者に睨まれるのが怖いからなのかなんなのか分からないが(庶民の生活感覚に直結する、数百円単位で売り買いされる生活必需品の、総選挙直前の値上げには、いかに政治に無関心な一般庶民といえども少しは怒って投票所に行き自民党と公明党以外の政党に投票することになるかもしれない。そうしたら自民党・公明党の議席は減ったかもしれない。その責任を追及されるのが怖いのか…)、総選挙が終わってから待ってましたとばかりに値上する吉野家の経営者の根性が気に食わない。いったい彼らは誰のおかげで飯を食わせてもらっていると思っているのだ。毎日、百円玉数枚握りしめて全国の吉野家店舗で牛丼を食べている庶民のおかげではないか。その庶民よりも、時の権力者にへつらうような経営をしていると、早晩、庶民の支持を失うことになるぞ。
このところの円安と消費税増税で、石油を筆頭に物価万般が上昇し(すなわちインフレ)、輸入牛肉の価格も例外ではなく、アメリカ産牛肉に依存する吉野家の牛丼もいつかは値上げに踏み切らなければならなかっただろうということは、歓迎できることではないが、まあ、わからないでもない。たとえそれが30%近い大幅値上げであっても元々の牛丼並一杯300円が安すぎたともいえるから。
でも、この値上げのやり方はいけません。やるなら正々堂々、経済合理性にのみ則って他の一切の事情に顧慮することなく(選挙前に値上げして政権政党に楯突いたと睨まれるのが怖いなどどうでもよいことを顧慮することなく)、かくかくしかじかの理由で品質と安定供給を維持するため値上げのやむなきに至りました。庶民の皆様のフトコロを直撃したお詫びのしるしとして役員一同腹を切って…、というのは時代が古すぎるから、頭を丸めて向こう1年間役員報酬を30%カットいたします、ぐらいのことをやれば自分としてもたとえ300円が380円になろうとも吉野家の牛丼ファンでありつづけるのだがねえ。吉野家の現経営陣には腹の据わった人物がいないのかな。

いわゆる「大新聞」編集幹部の驚くべき無知蒙昧

11月30日に行われた日本記者クラブ主催の各党党首共同記者会見で、嘉田由紀子・日本未来の党代表に対する質問が、小沢一郎氏への偏見に満ちたひどいものだったことを、政治ブログ『永田町異聞』の12月1日付記事「日本記者クラブの品格とは?」に教えられて、その部分をネット録画で見た。

嘉田代表への質問者は、読売新聞特別編集委員の肩書きを持つ橋本五郎なる人物らしい。この人物が「日本未来の党は小沢依存ではないか」という例によって例のごとくの偏見質問を繰り出したのに対し、嘉田代表は動じることなく「なぜ皆さんは小沢さんを怖がるのか」と切り出した。すると、橋本なる人物が「怖がってない、いやがっている」と茶々を入れた。

「いやがっている」は、漢字で書くと「嫌がっている」ということになる。「嫌」ということは「嫌い」ということだ。ふーむ、「嫌い」ね。

この記者会見は、主催者の「日本記者クラブ」というものの当否はひとまず脇に置くとして、少なくとも公の場であることには違いない。この人物は、この公の場で、岩手の小選挙区の有権者から信任を得た「全国民を代表する」立場の衆議院議員を「嫌い」だと公言したことになる。

人間、好き嫌いは誰にもあることで、この橋本某なる人物が、たとえば自宅の風呂場で「小沢は嫌いだ!」と叫ぼうが喚こうが、当人の勝手だ。だが、記者会見という公の場で、公器を自称する「大新聞」の編集幹部が(彼らは、来る消費税増税に向けて、新聞は「公器」だから存在しなければならない、増税で新聞価格が上昇し読者が減ると存在が危うくなるから、新聞価格には消費税の軽減税率を適用せよ主張している)、特定の政治家を、好きだ嫌いだと言い募っていい訳がない。

そんな、小学生でも知っている道理を、この人物は知らないらしい。そして、まわりの「大新聞」の記者らしき連中が、この橋本なる人物の茶々に同調して笑い声を出しているところ見ると、その連中も同様に道理を知らないらしい。

いわゆる「大新聞」編集幹部の無知蒙昧ぶりを、あらためて確認することになった記者会見ではあった。

日本未来の党の出発を祝す

いいものがいいタイミングできた。結構なことだ。

ほとんどの人が、これができたのは小沢氏の力だと思っている。もっとも、それが気に食わないというのが例のごとくのバカマスコミの小沢恐怖症なのだが。しかし、ブログ主の周りでは違う。今度の総選挙で、自分の一票を託すに足る政党がようやくでてきたという安堵感の方が強い。もちろん、「国民の生活が第一」があるのだが、脱原発、消費増税凍結、自主外交など主張を同じくする中小政党がバラバラでは、政策を実現する多数派をつくることができない。大同団結がどうしても必要だった。

それを小沢氏がやってのけた。イヤー、お見事。しかも、この実現のために、立ち上げたばかりの「国民の生活が第一」を解党し、自分は一兵卒に徹するという。大義のためには自己一身の利を省みない。これは、誰にでもできることではない。小沢氏ならではのことだ。

吉田松陰が、伊藤博文、大久保利通などの松下村塾の秀才たちに「僕は忠義を為すつもり、諸君は功業を為すつもり」と述べたというが、小沢氏は、吉田松陰のごとく「忠義」すなわち日本の民主政治の大義を守り活性化することを使命としているからこそ、今般のような大業を為すことができたのだろう。それに引き替え、民主党、自民党、維新などの政治家連のお粗末なこと。彼らは「功業」すなわち権力のうま味に与り、自己一身の利をはかるばかりの困った連中なのだ。

来る総選挙では、「功業」ではなく「忠義」を第一に考える人々がより多く当選することを願うばかりである。われわれの生活のみならず、民主主義の未来のためにも。

 

真夏の夜の悪夢

今夜、何気なく衛星放送のチャンネル漁りをしていたら、衛星12チャンネル(BS12)でトーク・ロックというのをやっており、あの菅伸子と辻元清美が、料亭らしき座敷で対談をしていた。見たのは5分ほど。音を消していたので、対話の詳細は分からないが、テロップや写し出される写真などから、その5分ほどは、辻元が歴史的政権交代直後の鳩山内閣で、国土交通副大臣になり、首相官邸での記念撮影で着た衣装のことが話題になっていたようだ。

次の総選挙では、大惨敗必死の民主党の、その前代表のバカ女房と、元社民党で現民主党の、消費税増税法案に賛成した理由が政権を担当したらやっぱり増税しないとやっていけないことが分かりましたという箸にも棒にもかからない言い訳しかひねりだせない、これまたバカ代議士のバカ二人のそろい踏み。

しかも、民主党崩壊前夜の、いわばタイタニック沈没直前の民主党にとっては危機というも愚かな超危機的的状況だというのに、この御両所は、のこのこTVに出てきて、記念撮影のときの衣装がどうのこうのという、まあ、なんというか緊張感がまるでない間抜けた対話。

呆れて別のチャンネルに切り替えたら、ニュースと称する番組。そこで扱われていたのは、例の竹島問題で、韓国の外交通商省が日本の総理大臣の韓国大統領宛親書を受け取らずに返送してきたという話題。

一国の代表である総理大臣の親書を受け取らずに突き返すという行為は、外交常識としては、次の段階として宣戦布告も辞せずということではないのか。

まあ、韓国としては、そこまで強硬な行為に及んでも、どうせ日本側は腰砕けのうやむやに終わらせるに違いないとの読みがあってのことなのだろう。つまり、舐められているということですな。

でも、冷静に考えると、舐められてもしょうがない。だって、政権を担っている民主党というものが、上のバカご両人の能天気ぶりに象徴されるごとく、どうにもこうにもしようがないのだから。

男の嫉妬

嫉妬というものは、男がしても、女がしても困ったものだが、男の嫉妬は、それがなにやらもっともらしい理屈をくっつけて現れるものだから、とりわけ始末が悪い。

朝日、読売、毎日、日経など新聞の編集幹部、TVのニュースショウのコメンテイターなどによる小沢たたきは、まさにこれの典型だ。

彼らが小沢氏に投げつける「壊し屋」だの「金権政治家」だのというフレーズは、屁理屈以外の何物でもないが、そういうレッテルを貼って喜んでいる彼らの心底にあるのは、ただ単純に、小沢氏にたいする男の嫉妬だ。

自分たちが、嘘とごまかしの人生、卑屈と追従の人生を生きてきたことに忸怩たるものがあるので、それとは対極にある小沢氏の生き方に、もうどうしようもないほどの嫉妬をしているのだろう。文字通り、身体がわなわな震えるくらいの嫉妬を。

自分たちにはとうてい理解できない大きな存在であることを素直に認めればよいものを、人間としての器量が小さいものだから、それはできない。できないどころか、小沢氏が着々と信念に従って「千万人といえども吾往かん」の気概で歩を進めていることに、なおさら嫉妬が募る。

最近の新聞TVによる小沢報道の偏向ぶりは常軌を逸しているが、その根底に男の嫉妬があると見て取れば、なるほど腑には落ちる。

腑には落ちるが、しかし、こんな腹を空かせた犬猫でもまたいで通るような、やくたいもない男の嫉妬がひねりだした「小沢悪者論」という妄想を、疑いもせず信じ込んでいるように見える同胞がいるとなると、笑って済ませるわけにはいかない。なにしろ主権者は国民なのだから、妄想にとりつかれた一票もこれまた一票。男の嫉妬が生み出した妄想が人から人へと取り付いて、ひょっとしてわが日本の政治の在り様を決めかねない。

そんなわけで、今、わが国の政治にいちばん必要なものは、男の嫉妬の解毒剤である。

そういうものがあるとして。

 

小沢氏の民主党離党

小沢氏が民主党を離れた。

いいことである。次の選挙の投票先ができたのだから。これで一票を無駄にしないですむ。

離党に際して、小沢氏が発表した声明文(下に採録)は、政治的文書の手本になるものだ。民主主義であるとか、国民主権であるとかはどういうことなのかを、具体的な問題(ここでは公約違反の増税)に照らして明瞭に示している。

この声明文を読むと、小沢氏は民主主義のなんたるかを骨身に徹して知っており、かつ実践している政治家なのだとつくづく思う。例によって、無知蒙昧極まりないマスコミは犬の遠吠えを繰り返しているが、彼らは民主主義のなんたるかなんぞはこれっぽちも分かっていないのだ。

イエスは、ゴルゴダの丘で磔になったとき、「父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり。」(ルカ伝)と言ったが、赦すかどうかはともかく、「その為す所」がどんな意味を持つか知ることなく小沢バッシングを繰り返す日本のマスコミ、そのマスコミに洗脳されていることに露ほども気づかずに雷同する人々は、イエスを磔にした当時の連中と何ら変わることがない。

 

[以下小沢氏離党声明の全文]

『民主党離党にあたって』

平成24年7月2日

先月26日に衆議院本会議で消費税の増税だけを先行する社会保障と税の一体改革関連法案の採決に際して反対票を投じた者のうち38名に加えて、同じく今回の消費税増税法案に反対をしている参議院議員12名の計50名の離党届を、本日、午後12時半に、衆議院議員分は山岡衆議院議員、参議院議員分は広野参議院議員が輿石幹事長に提出いたしました

私たちは衆議院での採決に際して、国民との約束にない消費税増税を先行して強行採決することは許されない、更に消費税増税以外の私たちが政権交代で訴えた社会保障政策などはすべて棚上げして実質的に国民との約束を消し去るという民主、自民、公明との三党合意は国民への背信行為であると主張してきました。こうしたことから我々は採決において『行財政改革、デフレ脱却政策、社会保障政策など増税の前にやるべきことがある』と主張し反対票を投じました。

そしてこれまで、輿石幹事長には三党合意による増税先行の今回の法案の撤回を求めて、何よりも民主党が国民との約束を守り努力するという政権交代の原点に立ち返ることが最善の策であると訴えてまいりました。

週が明けて本日になるまで、三党合意を考え直し党内結束するという趣旨の話はありませんでした。出てくるのは反対した者に対する処分の話ばかりでした。国民との約束を守ろうとする者たちを国民との約束を棚上げにする者たちが処分するとは、本末転倒な話であります。

もはや野田総理の下での民主党は、政権交代を成し遂げた民主党ではありません。民主、自民、公明という三大政党が官僚の言うがままに消費税増税の先行を三党合意で押し通すことは、国民から政策を選ぶ権利を奪うことであります。

三党合意とは政策の違いを国民に示し国民に政党を選んでもらうという二大政党政治、いわんや我々が目指してきた民主主義を根底から否定するものであります。

私たちは事ここに至って 国民の生活が第一の政策を国民に示し、国民が政治を選択する権利を何としても確保することこそ、混迷にあるこの国を救い東日本大震災で被災された方々をはじめ国民を守る政治家としての使命であるとの決意を新たにしました。

私たちは今後、新党の立ち上げも視野に入れて、政権交代の原点に立ち返り国民が選択できる政治を構築するために、本日、民主党を離党いたしました。

衆議院議員 小沢一郎

消費税増税民自公3党野合の醜状

昨日、衆議院の「社会保障と税の一体改革に関する特別委員会」をインターネット中継で見た。

その状、あたかも、盗人が獲物の山分けを談合しているかのごとし。これが、選良だの全国民を代表するだのとされる国会議員のやることなのだからヒドイものである。

3年前の総選挙で民主党が公約に掲げたことなど、すっかり忘れ去り、まるで、そんな民主党に投票した国民はバカだとでも言わんばかり。

次の選挙で、はっきりとこんな連中にノーを突きつけないようでは、国民はコケにされっぱなし、主権者の肩書きが泣こうというものだ。

フランス国民は、サルコジを落とした。ギリシア国民もそれなりの選択をした。

さて、日本国民はどうする。

政治の劣化の原因とは

先日の内閣改造のお粗末さは、自民党麻生内閣の防衛大臣補佐官に喜んでなった人物が、今度は民主党内閣の防衛大臣に喜んでなったことに象徴されているが、ここで考えさせられるのは、どうしてここまで政治が劣化してしまったのかということだ。

その国の政治の程度の善し悪しは、その国民の民度の如何によるという身も蓋もない言葉があるが、そうであるならば、われわれの政治の劣化は、すなわちわれわれの劣化ということになる。

確かに。