久しぶりに筋の通った政治的文書が現れた

17日、民主党の比例代表単独選出の衆議院議員16名が、民主党籍のまま、民主党の院内会派「民主党・無所属クラブ」を退会し、新たに衆議院の院内会派「民主党政権交代に責任を持つ会」、通称「民主党国民の声」を立ち上げた。

16名が、「民主党・衆議院比例代表単独議員有志一同」の名で出した『約束を果たす民主党への回帰宣言』(後掲)は、ブログ主の思いと一致する。したがって、ブログ主は、この宣言に賛意を表明し、この行動に出た有志議員を支持する。

宣言の内容は、簡にして要を得ているので、一読了解可能、誤読の余地はないと思われる。だから、余計な解説は付け加えない。

以上で、本論は終わり。以下、感想を少々。

この16名の議員さんの大半は、2009年総選挙で初めて当選した人たちだという。年齢や当選以前の経験はさまざまなようだが、代議士1年生だからこその、意表を突く新鮮な、しかし、代議制民主政治の本筋をとらえた行動ができたのだろう。ブログ主が、主権者・国民の代表である議員さんに期待するのは、小泉某がやったような中身のない空疎なパフォーマンスではなく、まさに、この宣言のような、論理的に筋の通った確固とした主張であり、新しい集団を創る行動なのだ。

久しぶりに、筋の通った明快な政治的主張に接して、ブログ主は単純に喜んでいる。

『約束を果たす民主党への回帰宣言』全文

「今の菅政権は、国民との約束を果たす本来の民主党政権ではない」 今、民主党議員の多くが強くそう感じている。「国民の生活が第一」の政治理念は、おととしの衆議院総選挙での、民主党と国民との最大の約束だった。しかし今の菅政権ではどんな事態が進行しているだろうか。

総選挙では、予算のムダを徹底的に削り、新たな政策の財源に充てるとしたマニフェストを掲げ、政権交代を実現した。しかし、「予算の総組み替えなどを行う」と主張していたのに、ほぼ手つかずの一方で、先週、菅総理大臣は、「衆議院の任期中上げない」としていた消費税については、「来年度末までに法的な対応をしなければいけない」と発言し、増税への意欲をあらわにした。

菅政権は国民との約束、マニフェストを捨てたのである。

また、政治家主導で日本を立て直すはずが、目玉とされた国家戦略局の設置法案は実現せず、公務員制度改革も反古にされている。官僚に頼り放しだが、尖閣問題や北方領土問題など、もっとも政治主導であるべき案件で失敗すると官僚のせいにする。

菅政権は政治主導の御旗も捨てたのである。

菅政権は、民主党の理念、そして「国民の生活が第一」という国民の皆様への約束をも捨て去ったのである。

菅政権が本来の民主党の政策を捨て、本来の民主党の政治主導を捨て、本来の民主党の国民への約束を捨て去って省みないならば、それは国民が願いをかけた本来の民主党そのものを捨て去ることになる。

そして、このことは、本来の民主党への支持の上に比例代表で当選した我々の存在意義すらも打ち消すことになる。

我々は民主党と国民との約束の上に存在する比例代表の議員だからこそ、本来の民主党の姿とはかけ離れた今の菅政権にはもう黙ってはいられない。みすみす旧来からのしがらみにはまり込み、無原則に政策の修正を繰り返す菅政権に正当性はない。我々は今こそ「国民の生活が第一」の政策を発信し、国民の信頼を取り戻していかなければならない。

しかし、我々は、民主党に対する信頼が地に落ちた今となっても民主党を捨てるつもりはない。歯を食いしばっても、国民との約束であるマニフェストの実現に取り組む我々こそが、本来の、そして真の民主党であるからだ。

従って、我々は、国民との約束を果たす議員集団であることを、改めて国民の皆様に行動で示すために、衆議院での民主党・無所属クラブとは分かれ、新たに院内会派を設立する。そして同志一同が結束して、「国民の生活が第一」の政策を実行すべく今後、行動を展開していくこととする。

2月17日 民主党・衆議院比例代表単独議員有志一同

小沢さんを何がなんでも民主党から追放したい新聞・TV

新聞・TVは、小沢さんを、民主党から追放しようと懸命です。

いわく、党員資格停止では生ぬるい、除名しろだのなんだのと、毎日うるさいことといったらありません。

そんなことをして何がおもしろいのか、さっぱりわかりません。第一、そんなことは、民主党内部のことでしょう。新聞・TVは、なんの資格や権限があって、人様のことに首を突っ込めるのでしょう。不思議です。

新聞・TVの、この有り様を見ていると、その先が断崖絶壁で、そのまま突っ込めば、全員墜落死確実なのに、かまわず破滅へ向かって突進する無知な羊の群れをイメージします。

何をかいわんやであります。ごくろうさま、合掌。

鳩山前首相インタビュー再論

一昨日(2月14日)のブログ記事「素人の政治家」で、鳩山前首相の共同通信によるインタビューを批判的に取り扱った。

だが、このインタビュー、最高権力者の地位を離れたばかりの人物が、すこぶる簡略ながら、一種の回想を世に問うたものと見ることもできる。(本人がどういう動機でインタビューに応じたかは別として。)

わが国の政治家は、回想録や日記の類を生前に、あるいは死後になっても、公開することが少ない。過去のことは水に流すことを良しとする風潮や、沈黙は金とする価値観からか、公職を引退後も、多くの政治家は自らが関わった政治プロセスについてなにも語らず、秘密を墓場までもっていくことがしばしばだ。

ブログ主は、このことをかねてから残念に思っている。公職にあった政治家の回想録や日記の類は、その政治家が関わった政治プロセスについての証言であり、当代および後世の国民がその当否を判断する材料になるので、そういうものがあれば、似たような問題が発生したとき、それらを参考にすることで同じ失敗を繰り返さなくとも済む可能性が高まるからだ。

少数の例外がある。平民宰相こと原敬(1856-1921)の『原敬日記』、最後の元老・西園寺公望(1849-1940)の私設秘書、原田熊雄(1888-1946)の『西園寺公と政局』など。

そう考えると、このインタビューは、歴史的な政権交代によって誕生した初の民主党内閣の実相を当事者の証言から知ることができるものであり、今の政治を考える手がかりになる貴重なものだということになる。

そういう目で見直すと、このインタビューのポイントは、鳩山氏の日米関係に対する見通しの甘さや(2月14日付ブログ記事「素人の政治家」で既述)、初の民主党内閣における首相と他の閣僚との無関係のような関係であったり、その関係の有り様から見えてくる民主党そのものの問題性を明らかにしているところにあると思う。

例によって、新聞・TVは、沖縄のアメリカ海兵隊を抑止力とするのは方便だという趣旨の発言だけをクローズアップして、本当は沖縄県民が気の毒だなどとは毛ほども思っていないくせに、沖縄県民に謝罪しろなどのお為ごかしの大騒ぎをやらかしているが、毎度のこととはいえ、困ったものである。

まず、首相と他の閣僚との関係から。鳩山内閣当時、「閣僚の発言はバラバラだった」と聞かれての返答。

「岡田(克也)君は外相当時、マニフェスト(政権公約)に『県外』とまで書かなかったと話したが、民主党が圧倒的な国民の支持を得て政権を中心的につくらせてもらったのだから、党のビジョンはしっかり打ち出すべきだと思った。一致して行動していただきたいという思いはあった。」

「北沢俊美防衛相は、政権交代後、どこまで防衛省の考え方を超えられるか、新しい発想を主張していくかということが本当はもっと勝負だった気がする。」

第1の疑問。

鳩山氏は首相としての指導力をどう考えていたのか。鳩山氏の言葉からうかがわれるのは、一国の最高責任者である総理大臣というより、自分の思い通りに動いてくれない閣僚に対して強く指導するでもなく、こうしてほしいと思ったとか、もっと勝負してもらいたかったとか、まるで他人事のような感想をもらすだけの、なんとも無責任な傍観者の姿だ。

日本国憲法は、衆議院の解散権や国務大臣の任命・罷免権など最高級の人事権と、行政の各部門に対する指揮監督権を内閣総理大臣に与えており、その地位についた人物の政治的力量によっては、強力なリーダーシップを振るえる強い総理大臣を想定していると考えられる。

最近の例では、あの強力なというか強引なというか、そのようなリーダーシップを発揮した人物に小泉某がいる。そのリーダーシップによって実行された新自由主義的な施策は、日本の社会に分裂と格差をもたらした元凶以外の何者でもなかったと、ブログ主は考えているが、日本の首相もやればできるんだということを実証して見せたことは認めなくてはならない。

ところが、鳩山氏は、総選挙での圧倒的な勝利により、首相の座に就いたにもかかわらず、この強力な権限を適切に使った様子が見えない。それが証拠に、彼の言葉からは、一国の最高責任者として国民のために善かれと思ったことを、万難を排して、それこそ首相としての権限を最大限に使ってでも、断固やり抜くという強い意志が感じられない。

普天間移設問題に関しての「反省点は」と聞かれての答え。

「相手は沖縄というより米国だった。最初から私自身が乗り込んでいかなきゃいけなかった。これしかあり得ないという押し込んでいく努力が必要だった。」

なぜ、首相在任当時に、その努力をしなかったのか、今さら、そんな感想を言われても困るのだが。

また、他の閣僚たちも、副首相だった菅直人や、ここに名前の挙がった二人を代表格に、首相に積極的に協力しようとしないばかりか、むしろ、自分が担当する省庁の既得権を損ねないように行動していたとしか見えない動き方をしている。

「外務、防衛両省に新しい発想を受け入れない土壌があったのでは」と尋ねられての返答。

「本当に強くあった。私のようなアイデアは一笑に付されていたところはあるのではないか。本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国との間のベース(県内移設)を大事にしたかった。官邸に両省の幹部2人ずつを呼んで、このメンバーで戦って行くから情報の機密性を大事にしようと言った翌日に、そのことが新聞記事になった。極めて切ない思いになった。誰を信じて議論を進めればいいんだと。」

本人の切ない思いはともかくとして、外務省、防衛省がこのような「政治主導」の「せ」の字もないような体たらくなことについては、一義的には、このような状態を指導改善できなかった、その省のナンバーワンである岡田外務大臣、北沢防衛大臣に責任がある。

結局、「政治主導」をスローガンに掲げた初の民主党内閣自体が、このようなバラバラ状態では、積年の病弊である「官僚主導」を打破することなど、とうていできない相談だったということだ。

そこで、第2の疑問がわく。

歴史的政権交代による初の内閣でありながら、首相は首相で自分が選挙戦で訴えたことを死にものぐるいで実現しようとの気構えをもたず、閣僚は閣僚で首相のいうことなどには鼻もひっかけない有り様であるような、つまりは、基本的な政策について認識の共有ができていない状態の、バラバラでお粗末な内閣しか作れなかった民主党とは、いったい何なのか。

この疑問は、現在進行中の、菅直人は、なぜ「小沢切り」に夢中になるのかという疑問と重なる。

この疑問に対するブログ主の解答は次のようなものだ。

民主党は、「国民の生活が第一」の小沢支持グループと、「金権打破」「カネにクリーンな政治」が大好きなオリジナル民主党グループとの、水と油のごとき異質な集団が、「呉越同舟」する、もともとバラバラな政党だったのだ。野党時代は、政権奪取という目標が、かろうじて両者をつなぎとめていたのだが、政権を獲得した途端に、両者の亀裂があらわになったというわけなのだ。両者は、茶碗の持ち方から箸の上げ下ろしに至るまで、正反対の政治作法の持ち主であり、とくに、オリジナル民主党を標榜するグループは、小沢さんを、カネに汚い政治家が合流してきたが、選挙に勝つまでの我慢、選挙が終わったら、小沢の主張する「国民の生活が第一」なんぞはかなぐり捨てて、あるいは小泉流の新自由主義、あるいはアメリカべったりの奴隷外交など自分たちの好き放題にやろうと考えていたのだ。

「カネにクリーン」、などとはまったく意味のない言葉で、政治にだってカネはかかる。当たり前の話だ。大事なことは、小沢さんが言うように、誰から貰って、何に使ったかをすべて公開して、その善し悪しについては国民の判断にまかせることで、それが「政治とカネ」についての正しい考え方だ。

こう見てくると、鳩山氏のいわば簡易回想録が、はしなくもかいま見せた民主党初内閣の無惨な状況は、偶然でも何でもなく、起こるべくして起こった、いわば必然的な状況だったといえよう。

今現在の「小沢切り」の行方については、この水と油の二つの集団が、やがて別々の二つの政党に分れることになり、さらにそれが、諸政党の再編成を促して、ようやく、それぞれ論理的な整合性をもった主張を掲げる二つの政党の対立関係という、小沢さん年来の主張に近いかたちになると見るのが正解ということになろう。

春秋の筆法に倣えば、鳩山民主党内閣の無惨は、政界再編成の呼び水になることによって、日本に正しい二大政党制をもたらすことになる、ということだろうか。

小沢さんの「処分」を言い募る民主党の恩知らずたち

民主党執行部を牛耳る菅・仙谷・岡田一派が、小沢さんの「処分」を機関決定しようとしている。

小沢さんは、言わずと知れた政権交代の立役者であり、民主党が、今日、政権の座にあるのは小沢さんのおかげである。小沢さんは、前原某が代表をしていたとき、偽メール事件で地に落ちた党勢を盛り返し、民主党の今日を築いた恩人だ。

その、大功績ありの大恩人である小沢さんを、根も葉もないでっち上げの陰謀事件を口実に「処分」し、おとしめようとする恩知らずを、当たり前の感覚をもつふつうの人間は受け入れない。子どもだって、そんなことは分かる。

それなのに、なにを血迷ったのか、菅・仙谷・岡田一派のやりようは理解に苦しむ。このような、人非人の仕業は、早晩、人々の支持を失うことになるので、彼らは自ら墓穴を掘っているようなものなのだが。

朝日新聞を始め大手マスコミが、けしかけてくれることが頼みなのだろうか。そんなものは、鳥の毛ほどに軽く、当てになんかならないのに、バカな連中だ。

さてさて、次の選挙が楽しみになってきた。待ってろよ、菅に仙谷に岡田。

縁なき衆生は度し難し

今朝、何の気なしに民放TV(フジだったか)を見たら、当選した名古屋の河村市長が、これまた愛知県知事に当選した大村氏とともに出演し、吠えていた。途中から見て、すぐにスイッチを切ったので、前後の脈絡は一切分からない。

耳に飛び込んできたのは、司会?だかの、50歳前後に見える小作りで眼鏡の男性の「小沢はもう終わった人…」という発言。

終わった?

ホー、終わった、ですか。なにを根拠に、そうおっしゃる、小作りで眼鏡の男性よ。と、問いかけても、返事ができないでしょうな。だって、確たる根拠はないのだろうから。

強いて言えば、この発言の根にあるのは、小沢さんに終わってほしいという願望だな。それがポロリと出てしまったという塩梅なのだろう。

これは、多分、この小作りで眼鏡の男性だけのことではなく、既成マスコミの反小沢連に共通の願望なのだろう。

恐らく、この人たちは、小沢さんの主張を聞くこともなく、また、「政治とカネ」という呪文の正体をきちんと調べることもなく、周囲に流されて、何となく、小沢は悪い奴だ、と思い込んでいるだけなのだろう。

つまり、彼ら既成マスコミの反小沢論は、その根底に無知がある。

知ろうとすれば知ることができるにもかかわらず、無知のままに他者をおとしめる言動をなすは悪である。

縁なき衆生は度し難し、と言う。

まことに、彼ら反小沢を唱える既成マスコミは縁なき衆生、すなわち、無知から脱する機縁をもたない人々であり、だから度し難い、すなわち、救い難い。

新聞・TVという名の狂人

新聞・TVは、ジャーナリズムの一員ということになっていたのだが、このたびの、小沢さんをめぐる報道で、それが真っ赤な嘘であることが天下周知の事実となった。

検察審査会の議決による起訴は、どこをどうひっくり返しても無罪になるだろう。ほんの少しの知性と勤勉さをもって、関連資料にあたり事柄を整理すれば、小沢さんの「疑惑」なるものが根拠のない濡れ衣であることは一目瞭然だ。

まともな裁判官なら、裁判にならないとして公訴棄却を言い渡すはずだ。もちろん、「鳥なき里のコウモリ」のようなこの国では、裁判官が、霞ヶ関高級官僚軍団の一員として、あろうことか有罪判決を出す可能性も100%ないとは言い切れないが。

それをどうだ。各種の政治ブログサイトの伝えるところによると、新聞・TVは、小沢はけしからん一色で染まっているという。

彼らは、怠惰にも、ほんの少しの事実関係すらも自ら調べようとせず、検察や高級官僚の言うがままに、デマを垂れ流しているのだ。

この連中は、自分たちが何をしているのか分かっているのか。彼らのこの有様は、先の戦争末期、敗戦が確定的になっていたにもかかわらず、日本軍の大勝利、大戦果を歌い上げていたときと、寸分違わない。ほとんど、狂気である。

西ドイツ時代の連邦大統領、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、連邦議会の演説で、「過去に目を閉ざすものは、未来に対してもやはり盲目となる」と述べたが、報道機関としての過去の罪から学ばない日本の新聞・TVは、未来どころか、この現在の、この瞬間についても、何も見えず聞こえないままであろう。

わが日本では、狂人が、ジャーナリストと称して、白昼堂々、公道を闊歩している。

「強制起訴」という呪文で立派な政治家をおとしめようとするチンケなマスコミ

このところ、マスコミが、一斉に、あの検察審査会による起訴議決を受けて、近々、指定弁護士が小沢一郎氏を起訴する運びだと報じている。

例の通り、ドッグレースの犬ですな、マスコミの諸君は。すわっとばかりに目の前の兎だかなんだかに飛びつきましたね。ポチが餌を見て、シッポを振るようで、分かりやすいことこの上ない。

叩いても叩いても動じる気配のない小沢氏に、あれれ、どうしたことだ、ふつうの政治家ならとっくに白旗を掲げて降参しているのに、おかしいな、自分たちの読者目くらましの術に翳りが見えてきたか、と動揺していただろうマスコミの諸君にとって、待ってました、おあつらえ向きの仕掛けがやってきたというところだろう。

よかったね、これでしばらくは、記事が書けるね、編集局の幹部にも怒られなくてすむね。

ホッとしたことだろうね。

というわけで、その、マスコミの諸君のホッとした浮かれ気分の代表選手として、朝日新聞にご登場願おう。

29日付の「小沢氏、31日にも強制起訴 陸山会の土地取引事件」と題するネット配信記事中の一文。

「市民の判断によって政治家が起訴されるのは初めてとなる。」

ほほー、「市民の判断」ね。都合良く「市民」を使うね、朝日の取材記者さん、デスクさん、整理記者さん。おまけに、この1行の文章、君たちのうれしそうな気分が伝わってくるようだよ。「小沢の野郎、今度こそ息の根を止めてやる」ってね。

ところで、「市民の判断」とは、あの胡散臭い検察審査会の、平均年齢が30いくつかだという審査員の判断のことを言っているのだろうが、その審査員の判断といったって、数回の会合で、ろくに資料を調べもせず、審査補助員の弁護士の意見を鵜呑みにして出した判断だろう。それって、君たちの、検察リーク情報垂れ流しの嘘八百報道で創られたこだまとか、やまびこみたいなものだよ。ま、元はといえば、例の「政治とカネ」の話そのものが、作・演出:特捜検察、スポンサー:霞ヶ関高級官僚軍団及び宗主国アメリカ、による猿芝居みたいなもので、その猿芝居の狂言廻しがあなた方の役どころというわけなんだが、わかっちゃいないだろうな。

その狂言廻し風情が、勝手に「市民の判断」などと決めつけちゃあいけない。「市民」もいろいろだからね。あの、菅直人君も「市民」運動家だったし、マスコミの報道を批判するこのブログ主も「市民」なのだからね。

朝日の取材記者さん、デスクさん、整理記者さん、まずは君たちの言う「市民」って、いったいなんなのか、そこのところをきちんと定義しなさい。そうでないと、君たちの言う「市民の判断」による「強制起訴」という文句は、なんとかして憎い小沢をおとしめてやりたいという気分をあらわすたんなる意味不明の呪文に過ぎないよ。

小沢一郎氏への勝手な思いーその1

小沢一郎氏を見ていると、この人、政治家なんだけれど、実は政治家ではないのかもしれない、という思いが浮かぶ。

小沢氏の座右の銘「百術は一誠に如かず」。

ふつうの政治家は、己の願望を、「百術」を駆使して実現しようとするのだろうが、小沢氏は「一誠に如かず」を取るという。

あれこれ手練手管をめぐらすより、己の信念を愚直に訴え続けることを尊ぶのが小沢流なのだろう。ふつうの政治家とは次元が違うレベルの政治を小沢氏が目指しているようにも思える。

だが、しかし、嫉妬と裏切りが渦を巻き、百鬼夜行ならぬ百鬼昼行が現実の政治の世界で、一朝一夕に、小沢氏のやり方が実を結ぶとは思えない。だから、遠見では易々と、仙谷由人などという三百代言に、民主党の主導権を奪われてしまうことにもなるのだろう。

せっかく、「国民の生活が第一」に期待し、政権交代を実現させた主権者国民にとっては、今の民主党の有様は残念なことだが、しかし、見方を変えると、こうも考えられはしないか。

官僚主導は明治以来100年以上、米国の植民地状態は敗戦以来半世紀以上、かくも長く続いたアンシャンレジーム(旧体制)を変革するには、一回や二回の政権交代では無理なのであって、むしろ、今回の政権交代は、始まりの始まり、山登りでいうと、ようやく1合目に一歩踏み入れたというところなのではないか。

であれば、焦りは禁物、本当の民主政治、国民が主権者として政治を動す真の民主政治を実現するためには、地道なしかも王道を歩む行動の積み重ねが必要なのだ。

こうした亀の歩みに似た振る舞いは、時として、兎の如くすばしこい利巧者に先を越されるかもしれない。夜明けはまだ先かもしれない。

しかし、この1年ほどの政治の動きが、日本で真の民主政治を実現することの難しさを明らかにし、本物の民主政治を望むならそれなりの覚悟を固めることをわれわれ主権者に求めるきっかけになったと考えるなら、今回の政権交代は意味があったということではないか。

と、まあ、こんな感想とも諦めともつかぬ思いが浮かんでくるのだが。

小沢氏の胸中を去来するのも、ひょっとして、こんなことではないかというのは

ブログ主の勝手な思い込みか…

マスコミは病気

今日、電車の中で、隣に座った人が、一日前の朝日新聞を読んでいた。

一面の見出しに、「内閣支持率25%に微増」とあった。

「微増」か。

まあ、菅直人ヨイショの朝日新聞としてはそうとしか言いようがないだろう。

でもこの数字、誤差の範囲、意味がない数字ということではないのかな。

せっかく内閣改造したのにこの数字では、当の菅直人もがっかりだろうし、それ以上に、菅直人にがんばってもらいたいと思っている朝日新聞にはがっかりの数字だろう。

もう一つ、ネットでみた時事通信の配信記事。

菅内閣の支持率が数%上がったことをとらえて、改造で小沢切りを貫いたことが評価された、と論評していた。

うーむ、何を根拠にこう主張するのか。

おそらく、根拠もへちまもないのだろう。

とにかく、誤差の範囲程度の数字でも、小沢一郎氏と結びつけないと気が済まないのだろう。

こうなると、もう病気だ。しかも、重篤の。

「小沢リトマス試験紙」

平成22年もあとわずか、新しい年を迎える準備もほぼできたところで、本年を締めくくるブログ記事です。

現今のわが日本国では、小沢一郎氏についてどう考えるかで、その人の人となりが分かるという面白い現象があります。

「小沢は金にまみれた悪徳政治家だ」というマスコミ・検察連合のプロパガンダを鵜呑みにするかしないか。

世に名高い評論家、ジャーナリストのたぐいで、該博な知識をもち、鋭利な分析をする人でありながら、このプロパガンダを前提に話を進めるこまった人もいますし、逆に、市井の無名の人物でありながら、鋭くマスコミ・検察連合のプロパガンダの嘘を見抜き、小沢氏の真価を理解する人もいます。

人は見かけによりません。

ブログ主は、この一年、この「小沢リトマス試験紙」を用いて、世の様々な問題に関して、たくさんのことを学ぶことができました。

このブログの開設もその成果の一つです。

来年も、力の続く限り、「小沢リトマス試験紙」に反応する現象を研究し、マスコミとは違う、もう一つの見方をブログに記録して参りたいと考えております。

願わくは、さらに多くの方が、マスコミ・検察連合のプロパガンダの嘘を見抜き、主権者としての権限を適切に行使して、わが日本国の未来をより良いものにするためにそれぞれの立場で行動されますように。